第二話 博多人形の君
「お父さーん、先に行くよー」
「花ぁ、あんまり急いだらまた転ぶぞー」
運動不足のせいでちょっぴりメタボなお父さんが、蝶のような軽やかさで先を行っている私に、ちょっと失礼なことを言った。
「いやだなーお父さん、そんな簡単に転ぶはずな……いっ!」
――セーフ、なんとか踏ん張った。……もうちょっと気をつけよう。
私の名前は斎藤花、ちょっぴりドジな小学五年生。
お父さんの仕事の都合で、この冬、東京からこの町へ家族揃って引っ越してくることになったのだ。
瀬戸内海に面したこの小さな町は、東京より少し暖かい気がする。ひょっとしたら雪なんか降らないんじゃないだろうか。
運動神経がちょっとだけアレな私は、昔から外で遊ぶよりも本を読むのが好きで、今では児童文学だけでなく、大人が読むようなちょっと難しい小説や、敷居の高くないライトノベルなんかもよく読んでいる。もちろんマンガやアニメも大好物だよ。
そういうわけで、冬休みが終わるまでの毎日を、新しい家にこもってダラダラと本ばかり読んでいた私は、とうとう今朝、両親に引っ張り出されてしまったのだ。
渋る私を両親が連れてきたのは、新しい家の近所にある大きな神社だ。
かなり広い鎮守の杜を通る参道沿いには、もう元日は過ぎているというのに朝から屋台がビッシリと並んでいた。初詣客も結構多いな~。
初詣のちょっとワクワクするような華やいだ雰囲気と、屋台から漂ってくる魅惑的な匂いに、私のテンションが急上昇したのは言うまでもない。
戦利品のフランクフルトとリンゴ飴は、すでに我が手中にある。
さっき転びそうになった時も死守したよ!
マスタードの利いたフランクフルトをひとくち食べてから、ちょっとヒリヒリする口を甘ずっぱいリンゴ飴で癒やす。そして、甘ったるくなったらフランクフルトを再投入、これを繰り返す……。至福!
次なる獲物を探して私が上機嫌で歩いていると、向こうのほうに長い人垣ができているのが見えた。はて、なんだろう?
気になるのでテクテクと歩いて行くと、――パァン、という乾いた音がするたびに人垣から歓声が上がっている。
思った以上に人が多くて、なんとか潜り込める隙間がないものかと私がウロウロしていたら、お父さんたちが追いついてきた。
「ああ、通し矢だね」
お父さんはそう言うと、私をヒョイと持ち上げて肩車をしてくれた。同学年の子と比べてほんのちょっとだけ小柄な私は軽いのだ。
「花はちっちゃいなぁ、二年生くらいの子とあんまり変わんないんじゃないか?」
「うるさいよっ!」
失礼なことを言ってハハハと笑うお父さんの頭に、フランクフルトの串をチクチクと刺しながら、私は顔を上げた。
目の前には、色とりどりの振り袖に袴姿のお姉さんたちが並んで、すごく大きな弓を引いている光景が広がっていた。
みんな振り袖にたすきを掛けて、さらに、胸当て? もしていてなんかカッコいい。
「通し矢っていうのは、ずっと昔に武士の間で流行った競技なんだ。大きなお寺の、たしか、一二〇メートルちょっとあるお堂の軒下を、一昼夜かけて射通した矢数を競った〈大矢数〉っていう種目が有名だね」
お父さんが自分の頭の、フランクフルトの串で刺されたところをさすりながら教えてくれた。――あ、ごめん、ケチャップついてるよ。
「本物の通し矢は今じゃどこもやってないんだけど、その名残で、毎年一月に新成人と称号者を対象にして、京都の三十三間堂で開かれている遠的競技が、俗称で通し矢って呼ばれているんだ。ほら、花もテレビで見たことがあるだろう?」
「あ、あれか」
――などとお父さんの頭上でポンと手を打つ私のとなりで、お母さんがどこか遠い目をしてつぶやいた。
「このあたりは昔、武道が盛んだったから、ちょうど長い建物があるこの神社でも毎年やってるのよ。懐かしいわ……」
お姉さんたちの晴れ姿を見て、この町出身のお母さんは昔を思い出しているのかもしれない。
そうか、お母さんにはお母さんの青春時代があったんだね……。
「お母さんも弓道やってたんだね、知らなかったよ」
「ん? やったことないわよ」
「……」
「…………」
そうやって私たち親子が少しばかり噛み合わない会話をしていると、周囲が突然ざわつき始めた。
何ごとかと思い、私はキョロキョロと周囲を見回したんだけど――。
「姫様だ」
「姫様……」
「ひめたまだー」
――ムム、ざわめきには、姫様という聞き捨てならない言葉がいくつも交じっているぞ。
「ひめさまぁ?」
首をかしげながらも、周りの人たちの視線を追っていった私の目は……一瞬で奪われた!
順番が回ってきたお姉さんたちの中に、その人はいた。
運がいいことに、ここからはかなり近い距離だから、視力だけは自信がある私にはハッキリと表情まで見える。
たすきと胸当てのせいでよくわからないけど、黒地に何か大きめな花の柄がいっぱいある振り袖に、下に向かってだんだん黒に近くなっていく紫ボカシの袴を穿いている。
袴の裾あたりには、風に流される小さな花が刺繍してあった。
糸杉のようにスラリと伸びた背は、他のお姉さんたちの誰よりも高く。
後ろで束ねた長く艷やかな黒髪は、光の加減で少し青みがかったようにも、紫がかったようにも見える。たしか、前に読んだ本に
パッチリと大きな切れ長の目の中には、まるで夜空みたいに静かな瞳。
スッと通った鼻すじと、艶やかで形のよい唇。
お父さんがお土産に買ってきた博多人形のように白い首すじが、なんか大人の女性って感じがして、私はちょっとドキッとした。
とりあえず、〈博多人形の君〉と呼ぶことにしよう。
左手に弓の握り部分、右手には矢の先っちょあたりを握ったまま、両手を腰骨の前あたりに当てると、〈博多人形の君〉は大きく足を開いた。……足、長っ! 身長の半分以上あるんじゃない?
彼女はそのまま流れるような動作で矢をつがえたあと、弓を左にグッと押し出すように斜めに構えて、矢の先が少し下がったままゆっくりと打ち起こす。――ん? 他の人たちは体の正面で構えて、そのまま真っすぐ打ち起こしていたような……。
「へぇ~、斜面か」
「珍しいの?」
「正面よりは少ないかな、それよりあの弓――」
私が雑学博士なお父さんに解説してもらおうと思ったら、お父さんは弓を引き分け始めた〈博多人形の君〉の弓を見て、何かに気がついたみたいだ。
「――たぶんあれ、女子に引けるような弓じゃないぞ」
んー、そう言われるとたしかに、なんか、他の人が使っている弓よりちょっとだけ太いような気がしてきたぞ。それに、他の人の弓にはきれいな塗装がしてあるのに、この人が引いている弓は竹そのものって感じだよね……。
私がそんなことを思ってるうちに、〈博多人形の君〉は矢を放った。
放たれた矢は、誰のものより明らかに低い軌道を描いてビュンッと飛んで行くと、的の真ん中に――ズドンと突き刺さった!
「お見事!」
「さすがは姫様じゃー!」
「キャー、姫様ー!」
わずかな沈黙のあと見物人たちが歓声を上げるなか、矢を放った姿勢のまま微動だにせず的を見つめていた〈博多人形の君〉は、やがて静かに、両手を腰骨の前に当てる姿勢へと戻っていった。
その凛とした姿が神々しいほどに美しくて、私は目ばかりか、すっかり心まで奪われてしまったのだった――。
◇ ◇ ◇
あっという間に冬休みは終わって、転校初日――。
ああ、今日は朝から胃が痛い……。まるで私の心を映したかのように、空もどんより曇天模様。
私が東京で通っていた学校は私服だったけど、この学校には制服がある。
今、それを自分が着ているというそれだけのことが、なんだかとても寂しいことのような気がして、見知らぬ職員室の中で、私は下ろしたてのセーラー服のスカートをギュッと掴んだ。
職員室で紹介された担任の青島先生に連れられて廊下を歩きながら、私の小さな心臓は早鐘を打つがごとく、バクバク鳴っている。
友達、できるかなぁ? 東京から来たなんて言ったら、ナマイキなやつだと思われないかな? 運動神経悪いのがバレてバカにされると嫌だな……。
ドナドナの子牛ってこんな感じなのかも、などと私がウジウジ悩んでる間に、無情にも教室に到着……。早いよっ!
ギロチンにかけられるマリーアントワネットのような気持ちで教室に入った私は、うつむいたまま先生に黒板の前まで連行された。
「ハーイおはよー。今日は皆さんに、新しいお友達を紹介しまーす」
明るくそう言うとチョークを手に取った先生は、カツカツと黒板に私の名前を書いた。
「なんと! 花の都、東京から転校してきた、斎藤花さんでーす。はい拍手ー」
花の都東京ってところに反応して教室がちょっとザワザワした。ホント先生余計なワード入れるのやめてください。
「はい、じゃあ斎藤さん、みんなに自己紹介してね」
我が脳内のささやかな抗議になど先生が気づくはずもなく、とうとう自己紹介イベントになってしまった。あー胃が痛い胃が痛い、小学五年生で胃潰瘍になってしまったらどうしよう。
……でも、いつまでも床とにらめっこしてるわけにはいかないし、それじゃ何も始まらないよね。――頑張れ、私!
私は勇気を振り絞って顔を上げると――。
「あぁ~っ! 博多土産!」
――大声で叫んだ!
顔を上げた私の目に飛び込んできたのは、窓際一番後ろの席に座って物憂げに外を眺めている、あの、〈博多人形の君〉の美しい姿だったのだ。
彼女に小学生用の机は、少し、窮屈そうだったよ……。
◇ ◇ ◇
私が密かに〈博多人形の君〉などと呼んでいた彼女の本当のお名前は、羅城門真綾さんとおっしゃるらしい。――失礼しました。
それから、〈博多人形の君〉あらため羅城門真綾さんは、みんなに姫様と呼ばれているらしい。なんでも、彼女のご先祖様はこのあたりを治めていたご領主様だったそうで、なんと彼女は本物のお姫様だったのだ。うん、納得。
そして、あろうことか彼女の身長は、小学五年生にしてすでに一七〇センチを超えているらしい。……少し、分けていただきたい。
あと、近くに寄ると、なんかいい匂いがしてタマランらしい……。
らしいらしいと、なんでこんなに私が彼女の情報を持っているのかというと、それはクラスのみんなが教えてくれたからだ。
幸いにも、しょっぱなからやらかしてしまった私は、「なんかおもしろいやつ」と認識されたらしく、クラスのみんながフレンドリーに話しかけてくれるようになったのだ。怪我の功名というやつだ…………大怪我だよっ!
ちなみに最後の匂いに関する情報は、木下という日本猿みたいな顔をした男子が、ものすっごく嬉しそうに教えてくれた。……それ、情報っていうよりアンタの感想だよね?
みんなからの情報だけじゃなく、私が今日一日、彼女のことをジックリねっとりと観察してみて、いくつか判明したことがある。
「姫様、気ぃつけて帰りなよ」
「はい」
彼女はとてもクール、というより口数がかなり少なくて表情もあまり変わらない。
だけど、人をガン無視するかというとそうではなく、ちゃんと受け答えはするし、目上の人にはきちんと敬語を使う。
「姫様、今日は鶏モモが安いよ!」
「あとで買いに来ます」
それと、給食を食べていた時の姿勢と所作がすっごくきれいだった。うん、さすがお姫様だね、サスヒメだね。
そんでもって、姫様は食べ終わったかと思うと、すかさずおかわりしにいっていた。……意外と食いしんぼさんなのかもしれない。
「姫様、ほれ、飴ちゃんどーぞ」
「ありがとうございます」
そして姫様は、無口なだけじゃなく背がすごく高いせいか、正直、一種の威圧感というか近寄り難いオーラがハンパない。現実離れした美貌がそれに拍車をかけているのかもしれないなー。私なんか気後れしてしまって、結局今日一日、学校でひとことも彼女に声をかけられなかったんだよね。
しかし、それにもかかわらず……。
「ひめたま、ばいばい」
「ばいばい」
どうやら姫様は、この町の人気者でいらっしゃる。
実は先生の提案で、私は帰る方向が同じらしい姫様と一緒に下校することになったのだけど――。
「あらあら姫様、こんなちっちゃい子のお世話して、偉いわねぇ」
「…………」
「…………」
――校門を出てからまだそんなに歩いていないのに、やたらと町の人たちが彼女に話しかけてきたのだ。……誰がちっちゃいだ!
「……羅城門さん、すごい人気だね」
「みんな優しいから」
梅干しみたいにシワシワのおばあちゃんからさっき貰った飴ちゃんを、口の中で転がしながら、姫様の顔を見上げて声をかけてみると、彼女は私の目をちゃんと見て答えてくれた。
相変わらず感情が読み取りにくいものの、その表情はどこかやわらかい。
片方のほっぺたが飴ちゃんで膨らんでいても、美人さんはやっぱり美人さんだった。
「そういえば羅城門さん、この前、神社の通し矢に出てた?」
「うん」
おおー、やっぱり姫様があの時の〈博多人形の君〉だったんだ!
「あれ? でも、他の人って新成人ばっかりだったような……」
「うん、神主さんたちに頼まれて」
「ん?」
「そのほうが盛り上がるからって」
あー納得だよ。姫様って人気あるし、たしかに盛り上がってたもんなー。……それにしても、自由な神社だな。
「あの時の羅城門さん、カッコ良かったもんねー」
「……名字じゃなくていいよ、もう友達なんだし」
私があの時の感動をこれからアツく語ろうとしたところで、思いがけず姫様からの素晴らしい提案があった。彼女の「もう友達なんだし」というフレーズが、私の頭の中でリフレインしている。……お願い、夢なら覚めないで! 起きるな私!
「で、では、姫様とお呼びすれば?」
「真綾でいいよ」
「……ま、真綾、ちゃん……」
「じゃあ、花ちゃんでいい?」
「ぎ、御意……」
私がそう言うと、かすかに真綾ちゃんが笑った気がした。
なんか、ふわっといい匂いがした。
あぁ、お母さん、私をこの素晴らしき世界に産んでくれてありがとう。お父さん、フランクフルトの串なんかで突っついてゴメンナサイ。
それから木下、……オマエの話は本当だったよ。
◇ ◇ ◇
私がニヤニヤと幸せを噛みしめながら歩いていると、初詣に行った神社の大きな鳥居が見えてきた。私の家までもうすぐだ。
真綾ちゃんはいったん家に帰ってから、晩ごはんの買い出しに商店街まで戻るのだそうな。姫様なのに偉いね真綾ちゃん、帰ったら速攻でラノベを読もうとしている怠惰な自分が恥ずかしいよ。
それにしても、セーラー服を着た長身女子高生にしか見えない真綾ちゃんが、こうしてランドセルを背負っている姿は、なかなかにインパクトがある。ファッションとして日本のランドセルを背負っている海外セレブの画像を、私も家のパソコンで前に見たことがあるんだけど、なんか、あれをほうふつとさせるね、違和感ハンパないね。
――などと私が考えていると、鎮守の杜の中を通って流れ出ている小さな川を、車椅子に乗った子供が覗き込んでいるのが見えた。危ないなぁ。
気になった私たちはすぐに駆け寄った――。
車椅子に乗っていたのは私よりもずっとちっちゃい女の子で、せいぜい幼稚園児くらいだろうか……いやいや、別に私がちっちゃいってわけじゃないよ!
神主さんみたいな格好をしているところを見ると、この神社の子なのかもね。
「どうしたの?」
「……落としてしもうた」
私が尋ねると、天使のように愛らしいお顔を涙に濡らしたその子は、小さな指先で川面を指した。
その先には、ジンベイザメのぬいぐるみがプカプカと浮いていた。何かに引っかかって止まっているけど、今にも流されていっちゃいそうだ。
うーん、水深自体はあまり深くなさそうだけど、ここから水面までの高さは三メートルくらいあるかな、どこかに階段でも――。
「これお願い」
「へ?」
いきなり自分のランドセルを私に渡してきたかと思ったら、なんと真綾ちゃんは、一瞬の迷いもなく、三メートル下の川にヒラリと飛び降りちゃったんだよ!
長い黒髪をなびかせて宙を舞う彼女の美しい姿が、私には一瞬だけスローモーションのように見えた。
バシャッと水音を立てて着地すると、彼女は真冬の冷たい川の水に膝まで浸かりながら、ジンベイザメのぬいぐるみに向かってザブザブと歩いて行く。
やがて目的の場所までたどり着いた真綾ちゃんは、ぬいぐるみを無事に拾い上げた。
そして彼女は、身を切るほど冷たいであろう水でスカートまでビショビショに濡らしたまま、でもそんなことなど全然気にしていないような表情で、救出したジンベイザメのぬいぐるみをこちらに向かって高く掲げ――。
「やったぜ、ベイビー」
――感情がこもっていない平坦な声で、なぜか昭和の香りがするセリフを言うと、ほんのちょっとだけ微笑んだ……。
川の中でジンベイザメのぬいぐるみを掲げ、仁王立ちになっている真綾ちゃんの雄姿は、冬の太陽のやわらかな光に照らされて、キラキラと輝いて見えた。
……そうか、いつの間にか、空は晴れてたんだ。
この日、私にできた友達、羅城門真綾ちゃんは、美人で、優しくて、すっごくカッコ良くって、それから……ちょっとおもしろい子だった。
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