やまとなでしこ異世界無双 第一部 ~転移前まったり日本編~

鴉ヶ森

第一話 プロローグ?


 穏やかな瀬戸内の海が広がっている。

 ゆらゆらと揺れる遠い島々を見下ろすように、巨大な入道雲が湧き立っていた。

 その海上をのんびりと行き交う船を望む、白灰色をした防波堤の上に、麦わら帽子を被った大小ふたつの背中が仲良く並んでいる。


「大きい」


 ジリジリと照りつける真夏の太陽の下、今まで無言でアイスクリームを堪能していた六歳ほどの少女が、島陰からノッソリと姿を現した巨大な船を指差した。


「ほぉ、クルーズ船だ、たしかに大きい。十万トン以上はありそうだな」


 すると今度は、少女のとなりで同じくアイスクリームを食べていた大柄な老人が、少女の小さな指の先にある船を眺めて嬉しそうに微笑んだ。よほど船が好きなのか、彼の瞳は少年のようにキラキラと輝いている。

 老人の彫り深い顔立ちは、どこか西洋の彫像を思わせた。


「何をする船?」


 少女が老人の顔を見上げると、麦わら帽子の大きなつばの下で、長い髪がサラリと流れた。その髪は、光の加減でやや青みがかって見える艶やかな黒、濡羽色ぬればいろだ。


「うーん、たくさんのお客さんを乗せて、その人たちを楽しませながら、いろんな国の港を巡る船……かな?」

「おいしいもの、ある?」

「もちろん! おいしいものがあるどころか、毎日毎日、ごちそうを腹いっぱい食べられるんだぞ」

「アイスも?」

「ああ、アイスもケーキも果物も……そういえば、おじいちゃんが子供のころ乗った船には、和菓子や駄菓子まで置いてあったな」

「…………」


 老人の言葉に、少女は白く整った顔をクルーズ船のほうへと向けた。

 真夏の海原を悠々と進む遠目にも大きな船の姿を、少女は大きな目を爛々と輝かせて見つめる。


 すると少女の頭の上に、ポン、と老人の大きな手が優しく置かれた。

 麦わら帽子越しに感じるそのぬくもりと、置かれた手の心地よい重さに、少女はそっと目を閉じ――。


「真綾……」


 ――老人のかすれた声に目を開けると、そこは病院の一室に変わっていた。

 真綾と呼ばれた少女は、薬品の匂いが鼻をつく殺風景な部屋の中で、ベッドの上に横たわった老人の手を握っているのだ。

 すっかり痩せてしまった大きな手を握る彼女の手は、いつの間にか、老人のそれとさほど変わらないくらいに大きくなっていた。


「真綾……人は必ず……いつか死ぬ」

「おじいちゃん」


 片方の手で酸素マスクを持ち上げ不吉なことを言い出した老人に、今や美しく成長している真綾は、幼い子がイヤイヤをするように首を振った。


(おじいちゃん、お願いだから、そんなこと言わないで)


「だから……その時が来ても……胸を張って逝けるように……生きなさい」

「うん……」


 大きな目いっぱいに涙を浮かべ真綾が頷くと、老人は満足げに目を細めて酸素マスクを戻した。


(おじいちゃん、わかったから早く元気になって、また一緒にあの防波堤に行こう。それから、アイス食べたり、山菜採りに行ったり、それから…………)


 それでも真綾は心の声を決して口にはしない。言葉にしてしまったら、大好きなおじいちゃんを困らせてしまうような気がしたから。


 やがて、真綾の手をそっと離れた老人の手が、彼女の頭に優しく置かれた。

 どれほど痩せ衰えていても、その大きな手のぬくもりと心地よい重さは、幼いころの彼女にそうしてくれた時のまま変わっていない。


 酸素マスクの向こうで老人の口がゆっくりと動いた、ひとことずつに魂を込めるようにして。


「あ、り、が、と、う」


 かすかにそう言うと、老人はやわらかく微笑んだ。


 真綾を見つめる老人の眼差しは、両親を事故で亡くした彼女を引き取ってから今までずっと見守ってきてくれた、あの優しい眼差しのままだった。


 真綾は知っている、他の子に比べて自分の表情が乏しく、言葉も少ないことを。

 そんな可愛げのない自分に、祖父は惜しみなく愛情を与え続けてくれたのだ……。


(ありがとうを言うのは私のほうなのに、まだ何も返せてないのに……お願いだから、どこにも行かないで……)


「おじいちゃん!」

『……おはようございます、真綾様』


 羅城門真綾らじょうもんまあやが自分の声で目を覚ますと、彼女をいたわるように優しく、女性の澄んだ声が頭の中に流れた。

 見慣れた和室の天井をぼんやりと眺めながら、昨夜この部屋で眠ったことを真綾は思い出した。


「……おはようございます、熊野さん」


 布団から身を起こして挨拶を返した真綾は、自分の目元が濡れていることに気づいて目を伏せる。……と、白磁のような頬に涙がひとすじ流れた。


『お食事の用意が調っておりますよ』


 熊野と呼ばれた女性は、真綾がどんな夢を見ていたのか、などとは聞かない。

 大好きな祖父の夢を見て彼女が泣いていたことなど、わかりきったことなのだから。


「すぐ行きます」


 真綾は熊野の心遣いに感謝しながら、畳の上に敷いてあった布団を手早く畳んだ。

 さほど天井が高くない和室で立ち上がると、一八〇センチを優に超える彼女の長身は際立って見えた。手足の長さが日本人離れしているため、猫らしき着ぐるみパジャマの袖と裾から、スラリとした手足が飛び出している。

 布団を押入れにしまったあと、自分の通っている中学校の黒いセーラー服に着替えた真綾は、部屋を出て洗面所に向かった。


 洗面所へと続く廊下の窓から、中庭の隅に植えてある西洋ニワトコに、クリーム色の小さな花がたくさん咲いているのが見えた。

 窓ガラス越しに、祖父が好きだった西洋ニワトコの甘い香りがした。


 美しい顔にくっきり残る涙の跡を洗面所で流すと、真綾は朝食の用意がしてある部屋にそそくさと向かった。……お腹の音が少々、うるさかったのだ。


      ◇      ◇      ◇


「ごちそうさまでした」


 朝食を終えた真綾は、趣ある和室の真ん中で静かに両手を合わせた。

 ピンと背すじを伸ばして正座する彼女の姿勢は菖蒲のように美しい……たしかに美しいのだが、漆塗りのお膳の横で大きいおひつがカラッポになっているというのは、清楚な乙女としていかがなものだろうか……。

 そのスリムな体からは想像できないほど大量の朝食をたいらげた今、真綾のお腹はすっかり静寂を取り戻していた。


『いけません真綾様、それはわたくしの仕事です』


 お茶でひと息ついた真綾が食事の片付けを始めたところで、熊野の声がやんわりと制止した。

 すると不思議なことに、おひつやお膳がフワリと浮き上がり、音もなく開いた襖の向こうに消えていったではないか……。さながら、お行儀のよいポルターガイストだ。


「でも……」

『お布団の上げ下ろしまではわたくしも譲歩いたしましたが、これ以上はどうかご容赦ください』

「……ありがとうございます」

『はい。――それより真綾様、いいお天気でございますよ』


 明るく熊野に言われて真綾が外に顔を向けると、障子を開け放した向こうに広がる日本庭園が、清廉な朝の光に照らされていた。

 朝露に濡れた苔の、あざやかな緑が美しい。

 深い軒と縁側、左右に開かれた障子を額縁にして、それは一枚の絵画のようであった。

 そして、物憂げな表情でそれを眺める真綾の姿もまた、絵画のように美しい――。


(朝ごはん、おいしかった)


 ――たとえ彼女の頭の中が、さっき胃袋にしまい込んだ焼き鮭と玉子焼きのことでいっぱいだったとしても……。


 真綾がしばらく庭を眺めていると――突然、頭の中に熊野の緊張した声が響いた!


『真綾様!』


 その声に弾かれたように立ち上がる真綾。その頭の中には、もう焼き鮭も玉子焼きもいない。すぐさま部屋を出て廊下を走り、そのまま玄関の式台を飛び越える。

 黒いタイツを穿いた足が黒御影石の土間に着く――いや、その直前、まるで何かの変身シーンのように、彼女の足を包んでいる状態で編み上げブーツが出現した。

 その現象に疑問を感じた様子もなく、真綾は開いている玄関戸を勢いよく抜けると、〈ブリッジデッキ〉の通路を駆け出した。


『そのまま、右舷後方へ』

「はい」


 熊野からの指示どおりに疾走する真綾、その進行方向にある扉が自動で開き、そこを猛スピードで駆け抜けた彼女の頭に、またも熊野の声が響いた。


『あの~真綾様、ここは〈瞬間移動〉されたほうがよろしいかと……』

「あ……」


 言いづらそうにする熊野の言葉で真綾が何かを思い出した直後、その場から彼女の姿は忽然と消え、それまでとは違う場所に出現した。それはまさに、熊野が言った〈瞬間移動〉そのものだ。

 真綾が出現した場所は俯瞰ふかんで見ればよくわかる。そこは、黒々とした森に囲まれた湖に浮かぶ一隻の船、その最も上に位置する屋外デッキだったのだ。

 全長二四〇メートルを優に超えているだろう優雅な船体は、上部を白、下部を黒、水線下を赤で塗り分けられている。

 船体の最上部には赤く巨大な煙突が二本そびえ、そこには三本足の鴉が描かれていた。


「来た……」


 そうつぶやく真綾が見つめる先に、こちらへ向かって空を飛んで来る七羽ほどの鳥の群れがいた。

 しかし、それを鳥と呼んでしまってもいいのだろうか? その大きさは犬鷲などよりもさらに大きく、何より、猛禽類らしい体の頭部と胸部は……間違いなく、人間女性のものだったのだ……。

 その生物は、本来ならば美しいと言ってもいい顔立ちをしているのだが、たいへん残念なことに、血走った目には知性の光がなく、ヨダレを垂らした口は黄ばんだ歯を剥き出しにして、敵意を隠そうともしていないため、人というよりはむしろ、血に飢えた猛獣を思わせた。

 その生物を、あえて真綾が育った世界でたとえるなら、ハルピュイア……日本ではハーピーとしてその名を知られている、神話上の妖鳥が近いだろうか――。


「ケェェェー!」


 甲高くひと声鳴くと、ハーピーの群れは一斉に真綾を目指して滑空し始めた!

 鳥としては規格外に大きい体が持つ力と衝突エネルギー、そして刃物のように鋭い鉤爪のことを考えれば、長身とはいえ女子中学生にすぎない真綾がこのあとどうなってしまうのか、容易に想像できよう……。


 しかし、真綾はまったく臆した様子もなく、迫りくるハーピーの群れを大きな切れ長の目でジッと見据えていた。

 そんな真綾の頭の中で、げんなりとした様子の熊野が話しかける。


『あぁ……やはり、今日もハーピーですね……』

「やっぱり、花ちゃんの本で見たのとなんか違う……」

『まぁ、ああいった本のハーピーは、男性受けするようにデザインされているようですので、むしろこちらが正統派かと……』

「あっちだったら、友達になれたのに……」


 親友から借りた本に登場する手足以外は人間と変わらない美少女ハーピーと、目の前にいるハーピーとのあまりにも大きな違いに、真綾はいささか残念なご様子だ。


 ほどなく彼女は大きく両足を広げ、両拳を左上方に打ち起こすと、今度はその両拳を左右に開きながら引き下ろす――。それはあたかも、見えない弓を引いているかのような構えであった。

 その構えが完成し、弓道でいう〈会〉の状態になった瞬間、彼女の胸には胸当てが、左手には長大な和弓が、右手には鋼の鏃を持つ矢が出現した。それも、矢をつがえた弓弦を十分に引き絞った状態で。

 しかしその右手に、ゆがけ(指を保護する手袋状の道具)がないのは、いったいどういうことか――。


「南無八幡大菩薩、……以下省略」


 那須与一の名ゼリフを大幅に短縮して言い終えると、真綾は矢を放った。高い弦音とともに矢が離れた瞬間、彼女の左手にあった弓は消える。

 その時点での彼女からハーピーまでの距離は八〇メートル以上。飛行している的などそう狙って中てられるものではないし、もし運よく中ったとしても、さすがにこの距離ともなると、現代の弓道で女性が一般的に使用するような弱い弓では、満足な貫通力を得ることなど到底無理だろう。

 だが――。

 乾いた音とともに放たれた矢は風を引き裂いて飛び、先頭にいたハーピーの眉間に深々と突き刺さった! それを見て驚愕したのか、他のハーピーたちはすぐに降下をやめて散開する。

 真綾が手にしている弓は、この船のギャラリーに展示されていた五人張りの剛弓だったのだ……。

 しかしこの光景を、見る者が見れば思うであろう、昔の武士ならいざ知らず、現代日本ではもう引ける者が存在しないはずの剛弓を、いとも軽々と引く彼女は何者なのか……。怪物とはいえ人の顔をした生き物を、眉ひとつ動かさずに射抜く女子中学生というのはいかがなものか、と……。

 仕留めた獲物が落下し始めるよりも早く〈会〉の状態に戻ると、真綾は左手に再度出現した弓で矢を放ち、そしてまた同じことを繰り返す。

 乾いた弦音が静かな湖上に響くたび、哀れにもハーピーたちは次々と射落とされていった。……その連射速度は、もはや、和弓のものではなかった。


 そして、真綾が最後の一羽に矢を放ったころ――。

 密かに群れから離れ、船の巨大な煙突に隠れるようにして回り込んできた一羽が、真綾の背後に迫っていた。

 他のハーピーよりもさらにひと回り大きいその個体は、真綾を襲った群れのリーダーであった。比較的知能が高く狡猾なこの個体は、群れからの飽和攻撃に真綾が対処している隙を狙い、彼女の死角から奇襲しようと考えたのだ。

 ――あの厄介な武器が使えない至近距離に近づきさえすれば――。

 ハーピーの目は、自分の群れをことごとく射落とされた怒りに燃えていた。


 やがて十分な距離まで接近したハーピーは、スピードを落とすことなく……猛然と真綾に襲いかかった!


 この個体は、攻撃力においても他のハーピーより一段格上の存在だった。その強靭な体と鋭い爪をもってすれば熊でさえ仕留めることができるのだ。当然その力の前には……人間など、ただのエサにしかすぎない。

 温かい臓物の味を想像したハーピーの顔に、凶猛な笑みが浮かぶ。

 大きく鋭い鉤爪が、あと少しで獲物の後頭部にめり込もうとした――その時、ハーピーのすぐ耳元で、ささやくような人間の声が聞こえた。


「無賃乗船は、ご遠慮ください」


 ぞくり……と、ハーピーの背筋に冷たいものが走った。それと同時にハーピーの体は静止する。……いや、目に見えぬ何者かによって、翼と鉤爪を広げたままピタリと空中に静止させられたのだ。

 ハーピーは必死になって呪縛から逃れようとするが、熊相手に一対一で戦える怪力をもってしても、その体は空中に静止したままピクリとも動かない。――ハーピーはこの時になって初めて、今まで獲物だと思っていた相手こそ圧倒的強者であった事実を悟り、そして……恐怖した。


「ケェェェ!」


 恐慌状態に陥ったハーピーは叫び声を上げながらも、早くこの恐ろしい呪縛を解こうと全力でもがく。

 その前で、今まで背中を見せていた真綾が、数歩前に進んでからクルリと後ろに向き直ると、ハーピーの目は大きく見開かれた。

 いつの間にか彼女の手には、弓に代わって長大な大太刀が握られていたのだ。


「ケ……」


 ハーピーの瞳が最後に映したもの、それは、朝の光に白く輝く大太刀を静かに振り上げる、真綾の美しい姿だった――。


「…………」


 一瞬で両断されたあと妖しい光を放つ宝石のようなものだけを遺し、キラキラと光の粒子になって消えていくハーピーの姿を、真綾は黙って見つめていた――。


 こうした襲撃を受け始めて、今日で三日目だった。

 最初は会話での解決を試みた真綾だったが、相手は人語を理解するどころか、狂ったように命を狙ってきた。

 さりとて、船内に引きこもってやり過ごそうとすれば、船上の高所に居ついてしまい、所構わず大量のアレをまき散らすため、熊野が心底つらそうにするし、もちろん真綾としても気持ちのいいものではない。

 そもそも、野生動物以上に鋭い真綾の勘が、これは殺らなければいけない相手だと警鐘を鳴らすのだ。

 それで仕方なく、こうして襲撃を受けるたび返り討ちにしているのだった。


 ――ハーピーが遺した宝石を拾っている真綾に、しみじみと熊野が語りかけてきた。


『不測の事態にこうして速やかに対処できるのも、このような場所でさえ安心して過ごせるのも、本当に、花様のおかげですね』

「はい。――花ちゃん、元気かな……」


 熊野の言葉に頷いた真綾は、その現実離れした美しい顔で高い空を見上げながら、祖父を亡くした彼女にずっと寄り添ってくれた、優しい親友のことを想うのだった――。



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