第25話 ホームハルト1

「――ッ!?」


 一陣の風が吹き抜けるのとともに、目の前にいたはずの天崎が忽然と姿を消した。


 アランは金色の髪が横切っていった方向へと視線を移す。十数メートル先の暗闇の中、瀕死の天崎を抱きかかえたリベリアがアランを睨みつけていた。


「ミシェルの奴め……」


 頭を抱えたアランが、苦虫を噛み潰したような顔を露わにした。


「ミシェルさんを怒らないであげてください。すべて私が悪いんです」


「ふん。どのみち結果は変わらんわ」


 リベリアが解放されたことなど本当に些事だとでも言わんばかりに、アランが吐き捨てた。


「それでリベリアよ。この状況からどうするつもりだ?」


 アランの問いは至極真っ当なものだった。


 リベリアは昨夜アランによって折檻されたばかり。現時点でもかなりの満身創痍だ。それに加え、吸血鬼ハンターの杭で拘束されていた両手はしばらく使い物にならないだろう。


 一方、天崎もまたかなり憔悴しているようだった。一応まだ意識はあるみたいだが、ようやく現状を認識した様子。うわ言を漏らしながら、虚ろな眼差しで彼女の顔を見上げている。どうやら先ほどの虚勢が最後っ屁だったらしい。


 アランもそれなりに体力を消耗しているが、目の前の二人を抑えつけるくらい訳ない。リベリアもそれをよく分かっているはず。


 だがリベリアの瞳から光は失われていなかった。


 少しだけ俯いた後、彼女は覚悟を決めたように歯を食いしばった。


「こうします」


 天崎の首筋へ、ゆっくりと唇を近づける。


「天崎さん。本当にごめんなさい。こうするしか方法はないんです」


「リベ……リア……?」


「少し痛いかもしれませんが、我慢してください」


 囁き、リベリアは天崎の首筋へと牙を立てた。


 破られた皮膚から赤い血液が溢れ出る。天崎の大切な血を一滴すらも逃さぬよう、リベリアは今ある力の限り目一杯肌へと吸い付いた。


「あが……うが……」


 瞬間、天崎の身体が勢いよく跳ねた。心臓が脈打つとともに激しく上下する。


 リベリアの腕の中でのたうち回っているうちに、天崎に変化が起こり始めた。


 虚ろだった瞳が金色に輝き、瞳孔が縦に割れる。


 竹の成長が如く、犬歯が伸びる。


 傘を差すかの勢いで、背中からコウモリのような翼が生えた。


 ――吸血鬼化だ。


「なるほど。この場を切り抜けるためだけに、この男を眷属にするわけだな?」


 目の前で妹が凶行に及んでいるというのに、アランは意外と冷静だった。


 リベリアが助けに入った時点で、ある程度のことは想定していたのだ。残された手段はこれくらいしかない、と。


 しかし意味はあるのか? と、アランは心の中で妹の愚行を憐れに思う。


 ミシェルを見れば分かるように、人間から吸血鬼になった者は、どう足掻いたところで純粋な吸血鬼には敵わない。しかも天崎はすでに手負いの状態。多少は治癒能力がマシになるとはいえ、絶体絶命の状況を打開する策としてはあまりに稚拙だった。


 やがて天崎の身体に起こっていた変化が鎮まっていく。


 リベリアの腕の中でぐったりしている天崎の目が、アランを捉えた。


「いや……別に眷属になったわけじゃなさそうだ」


「なに?」


 意味が分からず、アランは訝しげに顔を歪ませる。


 だが次の瞬間、疑問を抱くどころではなくなった。


 天崎がゆっくりと立ち上がったのだ。


「バカな! この短時間で完治したとでもいうのか!?」


 両脚は完璧に折ったはず。たとえ吸血鬼の治癒能力があろうとも、完治までには小一時間は掛かるだろう。


「治っちゃいねえよ。痛いの我慢して無理やり立っているだけだ」


 だとしても、たった数分で立ち上がるなど常軌を逸していた。


「何を驚いてんだ? まさか今さら俺が普通の人間だと思っちゃいないだろうな」


「『完全なる雑種フリードッグ』、か」


 忌々しげな目つきで睨みつける。


 元々『完全なる雑種』自体、普通の人間よりも傷の治りは早い。それが吸血鬼化したことにより、治癒能力の相乗効果にでもなったということなのだろうか。


「それで、眷属になっていないとはどういう意味だ?」


 アランは先ほどの疑問を投げかけた。


 吸血鬼が人間の血を吸う意味は、大きく分けて二つある。一つは捕食行為として人間を食糧にするため。もう一つは人間を吸血鬼に変化させ、己の眷属として仕えさせるため。他にも快楽を得るために殺戮を犯す吸血鬼もいるが、今は省くとする。


 だからこそアランは理解できなかった。


 パターンからして『眷属になっていないが普通の人間』か、『眷属になった吸血鬼』しかないのだ。『眷属ではないが、吸血鬼になった』などという中途半端なことにはならないはず。明らかに矛盾している。


 思い当たるのは先ほどの獣人化だ。リベリアの影響を受けて『完全なる雑種』の中の吸血鬼の血統が覚醒したんだとしても……やはり眷属になっていない理由に説明がつかない。


「知りたいんなら教えてやるよ。あんた、吸血鬼がどういう仕組みで眷属を作るか知ってっか?」


「……どういう意味だ?」


「ま、知らんよな。俺だって自分がどうやって歩いてるかなんて考えたこともないし」


 そう言って、天崎は説明を始めた。


「俺もリベリアに血を吸ってもらって初めて知ったんだけどな。吸血鬼が人間を眷属にする場合、二種類の遺伝子情報を相手の体内に組み込むんだよ。一つは吸血鬼という種族の遺伝子。もう一つは吸血した吸血鬼の個人情報だ」


「遺伝子だと?」


「吸血鬼の遺伝子情報を送り込むことで、人間を吸血鬼へと変化させる。んで吸血鬼本人の個人情報で、主に従わざるを得なくなる本能を遺伝子レベルで刷り込むんだ」


 人間を吸血鬼にする遺伝子。

 吸血鬼を眷属にする遺伝子。


 その二つを注入することで誕生するのが、『吸血鬼の眷属』だった。


「でも俺は『完全なる雑種』だ。リベリア本人の遺伝子情報なんて、何万とある血統の中に溶け込んじまったのさ」


 様々な種族の遺伝子を持つ天崎にとって、『リベリア』という一個人の情報など、森の中に植えられた一本の木のようなものだ。確かに木は存在しているとはいえ、全体から見れば微々たるもの。天崎の中で占めるリベリアの割合など、数パーセントにも満たないだろう。


「あんたが本気を出す前、指を噛んで自分の血を吸っただろ? 『吸血の時間』とか言って。それも似たような原理さ」


 天崎は己の人差し指を噛むふりをする。


「あれは自分の中に吸血鬼の遺伝子を送り込んで、吸血鬼としての存在濃度を遺伝子レベルから強化してんだよ」


 ドーピングというのは、まさに的を射た表現だった。


 己の吸血鬼としての存在レベルを向上することで、日光やニンニクといった吸血鬼ならではの弱点をさらに敏感にする代わりに、身体能力や治癒能力などを一時的に増幅できるのだ。吸血鬼の中のさらなる吸血鬼として、その場限りの進化を遂げるのである。


 そしてリベリアの吸血行為は、どちらかと言えばこの『吸血の時間』の方に近かった。


 リベリアに血を吸われたことにより、元々天崎の中にあった吸血鬼の血統が増幅した。つまり自分で自分の血を吸う代わりに、吸血鬼であるリベリアが天崎に『吸血の時間』を行ったようなものだったのだ。


「そ、そんなことが……」


 まったく意図していなかったと、リベリアが目を丸くする。


 だが、それは天崎も同じだった。


「ああ、俺も驚いたよ。でも事実だ」


 肩越しに振り返っていた天崎が、リベリアに妖しく笑いかけた。


 続いてアラン、屋上にいるミシェルへと視線を移す。最終的に夜空を仰ぐと、天崎は未だ折れているはずの両腕を大きく広げて歓声を上げた。


「俺を吸血鬼にしてくれて、ありがとな。おかげで今、最高に気持ちがいい」


 ゆっくりと息を吸い、肺一杯に酸素を取り入れる。


 瀕死の重傷を負っているにもかかわらず、瞳に生気が満ち溢れていく。


 そして……天崎の姿が唐突に消えた。


「――ッ!?」


 何の予備動作もなく、一瞬にしてアランとの距離を詰めたのだ。


 決して油断していたわけではない。だが、反応できない。脇腹へと食い込んだ回し蹴りにより、くの字に折れたアランの身体は為す術もなく吹っ飛ばされていった。


 先ほどの前蹴りが砲弾なら、今度は新幹線にでも撥ねられたような衝撃だ。


 翼を広げて威力を緩和させる余裕もない。二度三度地面でバウンドし、アランは無様に地面を転がっていく。


 やがて停止するも、身体が思うように動かなくなっている。起き上がろうと腕を支えにしたところで、大量の血を吐いた。


 内臓をやられた? いや、今はダメージの診断をしている場合ではない。


 早く立ち上がらなければ……マズい。


 焦り始めるアランだったが、天崎が追撃してくることはなかった。


 見れば、天崎は蹴った方の足を押さえて悶絶しているようだった。


「痛ってええええええ!!!」


 当然だ。未だ両脚も折れているのだから。


 天崎の考えなしの行動が、切羽詰まったアランに思考する余裕を与える。


 リベリアとド突き合い、天崎に撃墜され、挙句の果てには『吸血の時間』の反動によって、自分はかなり体力を消耗してしまっている。対する天崎は、吸血鬼の血統が覚醒してハイな気分になっているよう。負傷度合いは大差ないはずだが、端から見ればどちらが優勢なのかは一目瞭然だった。


 いや、そもそもの話、もし自分が万全な状態だったとしても、今の蹴りは避けられたか?


 思い出してみて、身の毛がよだつ。


 天崎の中に眠る吸血鬼の力量は、まさか自分よりも……上?


 思考はそこまでだった。


 気づけば、天崎が背中の翼を大きく広げていた。


「足が痛けりゃ飛んできゃいいだけだよな!」


 地面すれすれの低空飛行で、天崎が急接近してくる。


 ようやく片足を立てられたアランに回避は不可能。防御は? 果たしてどれだけの効果があるのかと苦渋の表情を露わにしながら、アランは咄嗟に両腕を交差させた。


 その時、空から何かが降ってきた。

 ミシェルだ。


「アラン様!」


 無謀にも、アランを庇うようにして目の前に立ち塞がる。


 だが無茶だ。まだ天崎の実力を正確に測れているわけではないが、いくら何でもミシェルが敵う相手ではない。


 考える間もなく、アランは軋む身体を酷使して前へと躍り出た。


「馬鹿者!!」


 ミシェルを庇うようにして抱き寄せた瞬間……アランの左腕が飛んだ。


 まるで鷹が狩りをするかのよう。二人の脇を高速ですり抜けた天崎は、アランの左腕だけをもぎ取って後方へと着地する。


 そして奪い取った腕を弄びながら、嘲笑の雄叫びを上げた。


「はははははは! おいおい、形勢逆転だな! 待ってろ、今すぐぶっ殺してやるさ!」


 再び翼を広げた天崎が前のめりになる。


 もし今の攻撃をもう一度食らえば、ミシェル共々命はないだろう。だが絶望的状況の中、アランは意地でも諦めようとはしなかった。


「吾輩は……」


 生まれて初めて味わう『死』の恐怖を前に、アランは吼える。


「吾輩はまだ死ぬわけにはいかん!」


 愛する妹のために、この身は何としてでも生き永らえさせなければならない。


 故にアランは抗う。己の命が終わるその瞬間まで、狩る者を全力で睨み威嚇する。


 が、助けは思わぬところからやってきた。今にも飛び掛かって来んばかりの天崎を、リベリアが真横から突き飛ばしたのだ。


 天崎にとっても予想外だったのか、為す術もなく転がっていく。


「天崎さん、何やってるんですか! 殺しちゃダメでしょう!?」


 リベリアの訴えは当然だ。彼女が戦っている理由は、兄を死なせたくないがため。儀式を断念させる程度に力でねじ伏せられればいいのだ。こんなところで殺してしまったら、それこそ本末転倒である。


 だがしかし、リベリアのタックルを受けてゆっくりと起き上がった天崎は、まるで理解していない様子だった。


「あぁ~?」


 気怠そうな声を漏らし、憤るリベリアにガンを飛ばす。その態度はまさに、口うるさく注意してくる教師へ反抗する不良学生のようだった。


 何か、変だ。


 吸血鬼の血統が覚醒し、気分が高揚しているだけとは思えない。明らかに人格が入れ替わっているかのような変貌ぶりに、リベリアは違和感を覚えた。


「貴方……誰ですか?」

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