第19話 夢の中で

 兄の泣いている姿を見たのは、それが最初で最後だった。


 今から何十年も前のこと。幼きリベリアは、兄が母を喰っている光景を陰から覗いていた。


 あのデタラメに強い兄が、常に気品ある行動を心掛けている兄が、吸血鬼であることに誇りを持てと口うるさく言ってくる兄が、ポロポロと大粒の涙を流している。たかが母親を喰っているだけなのに。


 その時に抱いた感情は、あまり覚えていない。

 泣き止まない兄を情けなく思っていた? 否。

 母を喰わねばならない兄を憐れに思っていた? 否。

 兄が泣くほどの試練だと恐怖していた? 否。

 おそらく特別な感情は抱いていなかったはず。

 ただ、漠然と理解していただけだ。


 ああ、自分もいつか兄を喰うことになるんだな、と。






「――ッ!?」


 コンッ、コンッ! と扉を叩く音が耳に入り、リベリアは慌てて身を起こした。


 うつ伏せで眠っていた状態から、跳ねるようにしてその場で正座をする。寝ぼけ眼でも、ここがどこなのか匂いで分かった。自室、それも天蓋付きのベッドの中だ。


「そういえば……もうすぐでしたね」


 夢の内容を思い出し、リベリアは陰鬱な表情を浮かべて小さく呟いた。


 もうすぐ自分は成人する。その際、ホームハルト家の伝統儀式として、一番近しい者を喰らわなければならない。リベリアの場合、たった一人の兄が該当していた。


 今さらながら、兄が母を喰っていた時の気持ちを……泣いている理由を理解できた。


 離れたくなかったのだ。別れたくなかったのだ。


 母の死が……悲しかったのだ。


 正直なところ、自分はたとえ兄がいなくなったとしても、寂しいとは思えど泣くようなことはないと思っていた。


 だがしかし、とある出来事がリベリアの心境を大きく変化させる。


 幼い頃に読んだ、ヘンゼルとグレーテルという童話。


 自分が悪い魔女になりきり、人間の兄妹を監禁した記憶。


 兄という存在は腕力が強いだけでなく、何より心の支えになってくれる。


 たとえホームハルト家の伝統だとしても、兄と別れるのは嫌だった。兄がいなくなった後のことを想像すると、恐怖すら生まれてくる。


 ふと、再び扉を叩く音。その音のせいで自分は目覚めたのだと、リベリアはようやく思い出した。


「リベリア様。御夕食の準備が整いました」


 声の主は兄が唯一眷属にした女性、ミシェルだ。兄の眷属とあってか、彼女は許可なくリベリアの寝室に入ってきたりはしない。


「……はい。今、行きます」


 少しだけ声を張り上げ、扉越しに返事をする。


 ちゃんと伝わったのか、部屋の前から遠ざかっていく足音が聞こえた。


「はあ。憂鬱ですね」


 大きく息を吐き出したリベリアは、陰鬱な気持ちが晴れないまま、いつもの白いドレスへと着替え始めた。






 ホームハルト家は代々、欧州の山奥にある古城に棲みついていた。


 人間が訪れることは稀で、仮に興味本位で近づく者がいれば、何人狩っても咎められないことになっている。故に山の麓では、行く人が帰ってこない呪われた土地と恐れられていた。


 広い古城の中に住んでいるのは、わずか三人だけだ。


 当主のアラン=ホームハルトと、妹のリベリア=ホームハルト。そしてアランの眷属のミシェルである。


 陽が沈んで間もなく、兄と妹はミシェルが作った料理を粛々と口に運んでいた。


 いつも通り、特に会話もない夕食。だが、この時ばかりはアランが話を振ってきた。


「リベリア。成人の儀が近づいているな」


 まるで他人の夢を盗み見ていたかのようなタイミングに、リベリアも思わず身体を揺らしてしまった。


 だが言わねばならない。たとえ、どんな罰が待ち受けていようとも。


 ナイフとフォークを置いたリベリアは、決死の覚悟で兄へと宣言した。


「兄さん。私は……成人の儀を行うつもりはありません」


「……なんだと?」


 寝耳に水だと言わんばかりに、食事の手を止めたアランが眉を寄せる。


 リベリアは再度、大きく息を吸ってはっきりと口にした。


「私は兄さんを喰いたくないと言ったんです」


「…………」


 一字一句漏らさずに聞き取ったアランは、憤るでも呆れるでもなく、ただ難しい顔をしたまま眉間を抓むだけだった。


 そして少しだけ怒気を孕んだ口調で問う。


「我が妹よ、何故そのようなことを言うのだ? 成人の儀において近しい者を喰らうのは、我がホームハルト家の最大の試練なのだぞ? 先祖代々、そうやって伝統を紡いできた。お前の一存でどうこうなる問題ではない。お前は吾輩を喰い、子を成し、その子供が成人した際の儀で喰われる。これはもう決まっていることなのだ」


「何故かと問われれば、兄さんがいなくなるのが嫌だからです。私はこの寿命が尽きるまで、兄さんとともに生きていたい」


「そのような考えを抱くのは、お前がまだ未熟者だからだろう。成人の儀を執り行い、吾輩を喰えば伝統を理解できる。肉体的にも精神的にも、さらに成熟する。そしてホームハルト家を継ぐ立派な吸血鬼と為るのだ」


「ミシェルさんはどう思っているのですか? 自分の主が喰われるのを」


 アランの言葉を無視し、リベリアはミシェルへと矛先を向けた。


 ミシェルはアランの眷属。主人が喰われるのを黙って見過ごすというのか?


 テーブルの横で待機しているミシェルは、当然と言わんばかりの回答を口にした。


「私はアラン様の下僕。主人の決定には絶対服従です」


「兄さんが死ねば、ミシェルさんも生きてはいられないのですよ?」


「お優しいアラン様なら、成人の儀が行われる前に自害を命じてくださるでしょう。下僕は喜んで受け入れるのみです」


「…………」


 何を言っても無駄そうだった。


 半眼で二人を睨みつけたリベリアは、ほとんど手つかずの料理を残して立ち上がる。


「ともあれ、私は兄さんを喰らう気はありません」


「ならばどうする?」


「力づくで分からせます」


「……愚かな」


 呆れ落胆するも、反抗期の妹を正すためアランもまた立ち上がった。


 そうして始まる兄妹喧嘩。


 殴り殴られ、蹴り蹴られ、古城が半壊するほど大暴れする二人の吸血鬼。


 幼い頃とは違い、アランの動きが目で追えている。


 繰り出した拳が、避けられることなくしっかりと直撃する。


 しかし……リベリアの攻撃が決定打になることはなかった。


 結果として、アランの体力を極限まで消耗させたリベリアは、深手を負いながらも古城から逃げ出すことに成功したのだった。兄によって引き裂かれた、ボロボロのドレスをその身に纏いながら――、






 ――といったところで、天崎は目を覚ました。


 虚ろだった意識が徐々に現実へと引き戻されていく。薄暗い中、最初に視界に飛び込んできたのは、つい先日からお世話になっている新おののき荘の天井だった。


「今のは……夢、か?」


 妙にリアルな夢だった。


 ……いや、違うな。リベリアやミシェルはともかく、会ったこともないアラン=ホームハルトの顔まではっきりと認識できたのだ。あれが、自分が勝手に作り出したアラン像だとは思えない。となると、今のはまさか、自分と出会う前のリベリアの記憶……だったのか?


 何でこんな夢を? と疑問を抱くよりも先に、どうしても心配になってしまう。


 リベリアと殴り合うアランは本気ではなかった。妹に致命傷を負わせないよう、どこか手を抜いているように見えた。


 だが、その余裕が仇となる。


 アランはリベリアの成長度を見誤っていた。戦闘では敵わずとも、体力だけはすでに兄を上回っていたのだ。無暗に戦闘を長引かせてしまったせいもあり、アランは逃げるリベリアを追うことができなかった。


 だからこそ天崎は不安にならざるを得ない。


 仮に、その二人が本気でぶつかれば? かつリベリアに逃走の意思がなかったとしたら?


 ほぼ間違いなく、リベリアに勝ち目はないだろう。


 ……悪い方へと入り込んでいく想像を振り払い、天崎は上体を起こした。


 目覚まし時計を確認する。深夜零時すぎ。予定通りの起床時間だ。


 今日(といっても日付としては昨日だが)の朝、起床したらリベリアの姿がなかった。心配になり捜しに出たものの、特に手掛かりを掴むことはできず。結局、日中に活動できない吸血鬼を見つけるのは困難だろうという判断の末、昼間の捜索はすぐ打ち切ったのだ。


 そして深夜に捜索を再開すべく、天崎は夕方ごろから無理やり睡眠を取っていたのである。


 リベリアは未だに戻ってきていない。ならば、今もどこかで何かをしているはず。


 ……捜しに行こう。


 決意を固め、いざ立ち上がろうとしたところで……何かに引っ掛かり、天崎は中腰のまま静止した。見れば、隣で横になっている円がシャツの裾を摘まんでいる。


「悪い、円。行かなきゃいけないんだ」


 穏やかな声で諭す天崎。


 分かってくれるかな? と心配するも、どうやら杞憂だったようだ。


「りべりあ、ないてた」


「……ああ、任せとけ」


 円の頭を優しく撫でる。すると彼女は安心したように再び寝入ってしまった。


 準備を整えて、外へ。


 だが、扉を開けたところで天崎は二の足を踏んでしまう。嗅ぎ慣れない異臭が鼻を衝いたからだ。


「あれ? 空美さんってタバコ吸うんでしたっけ?」


 隣の部屋の正面で、空美が手すりに背を預けながらタバコをふかしていた。


「ん~あ? いや、普段は吸わねえよ。ちょっとイライラした時に嗜む程度だ」


「えッ! まさか俺、殴られる!?」


「何でだよ、殴らねえよ。あたしがイラついてるのは自分自身にさ」


 そう言って、空美は紫煙を夜空へと撒き散らした。


「まあ、なんだ。リベリアのために何もできない自分に……ちょっとな」


「今回ばかりは仕方ありませんよ。なんせ相手は吸血鬼ですから」


「分かっちゃいるんだけどね。こんな物に頼らなきゃ自分の感情をコントロールできないくらいには、あたしもまだまだお子様なんだよ」


 意外や意外。傍若無人の擬人化であるあの空美が、人前で落ち込んでいるではないか!


 あまりの珍事に、天崎の中で魔が差した。ふと、リベリアとの最後の会話を思い出してしまったのだ。


「空美さんって、なんやかんや言ってお人好しですよね」


「よーし、イラッときたわ。ちょっと殴らせろ」


「ひえっ」


 最悪な照れ隠しの標的にされるも、自業自得なので素直に受け入れる。


 身構えるのと同時、背中に凄まじい衝撃。どうやら平手にしてくれたようだ。


 振り返ると、空美はタバコを咥えながら悪戯小僧のように笑っていた。


「気張ってこい主人公。あたしらの分も頼んだぞ!」


「……はい!」


 喝を入れてもらった天崎は、円と空美の想いを背負い、一人夜の街へと駆け出していった。

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