第18話 リベリアの決意2

 立ち去った安藤と入れ替わるようにして、再び気配。


 だが今度は階段ではない――空だ!


 しかもアランとミシェル共々、この圧迫感には身に覚えがあった。


 突如として嵐が発生した。屋上の砂埃が狂ったように巻き上がり、二人の吸血鬼は両腕で顔を防護することを余儀なくされる。


 そして……見た。縦横無尽に吹き荒れる嵐の中心に降り立つ、一人の吸血鬼を。


 月光の如く輝く金の髪。威風堂々とした佇まい。己が狩る側だと信じて疑わない凛々しき顔立ち。服装は変わっているが、見間違えるはずもない。アランの妹、リベリア=ホームハルトその人だ。


 リベリアが地に足を着けたことにより、周囲に纏う風が徐々に収まっていく。そして夜の静けさが完全に蘇った後、彼女は物憂げな声で呟いた。


「……兄さん」


「おお、リベリアよ」


 対するアランの声は歓喜に満ちていた。


 無理もない。数日前に喧嘩別れした愛しの妹が、自分から戻ってきてくれたのだから。


「自ら姿を現したということは、ようやく帰る気になったのだな?」


「……違います」


 真正面からアランを射るリベリアの瞳には、不屈の意志が宿っていた。


「私は城に帰る気はありませんので、兄さんたちはこのままお引き取りください。今日はそれを伝えに来ただけです」


「我が儘な妹よ。これ以上、兄を困らせるな」


 手の平で目頭を覆ったアランは、深いため息を吐きながら夜空を仰いだ。


 だが、いくら困らせようともリベリアの意志に揺るぎはない。城へ戻り成人の儀を受け入れることは、すなわちこの手で兄を殺すことを意味する。ずっと兄に生きていてほしいリベリアにとって、絶対に受け入れるわけにはいかない要請だった。


 また、アランが諦めるまでここを退くつもりもなかった。


 退けば、再びおののき荘を巻き込むことになるだろう。これ以上、自分の都合であの心優しい人たちに迷惑を掛けたくはない。


 だからこそリベリアは、天崎に嘘を付いてまで一人で飛び出してきたのだ。


 手負いのミシェルがしばらく攻めてこないというのは嘘。

 あれくらいの怪我、吸血鬼なら一時間もあれば完治する。


 対策を立てるために時間を使うというのも嘘。

 近いうちにアランが来訪することは知っていた。


 そして……。


「リベリアよ。まだ成人の儀を行いたくないなどと腑抜けたことを口にするのか?」


「はい。私は兄さんを喰らいたくはありません。そのような時代遅れの儀式で兄さんが死ぬ必要はないと思います」


「時代遅れ、だと? ホームハルト家の先祖を侮辱するのも大概にせよ」


 アランの声音に少しだけ怒気が混じった。


 口調の変化に気圧されながらも、リベリアは毅然とした態度で答える。


「侮辱しているわけではありません。けど、儀式に意味があるとは思えないんです」


 事実、ホームハルト家以外の吸血鬼は、成人の儀などの決まった時期に近親者を喰らったりはしない。仮に意味があるとするならば、他の吸血鬼たちも進んで行っているはずだ。


「意味ならあるさ。近しい者の死は、それだけで精神を大きく成長させる。それが自ら手に掛けたとなれば尚のこと。次期当主たるリベリアには、吾輩の死を乗り越えて立派になってもらわねば困るのだよ」


「当主ならそのまま兄さんが引き継げばいいですし、儀式など行わずとも私は立派になってみせます」


「愚かな……」


 我が身を省みることすらできないのかと、アランは呆れ果ててしまった。


 嫌だ嫌だと駄々をこね、己の我が儘を貫き通そうとする姿は、まさに子供そのもの。とても成人前の吸血鬼とは思えない。当主を継ぐ継がないに関係なく、何か成長するきっかけがなければ堕落してしまうのが目に見えている。


 ホームハルト家の吸血鬼として、情けない限りだ。


「……告白しよう。吾輩も昔は気弱な吸血鬼だった。だが成人の儀にて母を喰らってからは、自分でも驚くほどの自信が満ち溢れてきたのだ。当主としての責任感が、吾輩の精神力に大きく影響したのだろう」


「知っています。兄さんは成人の儀を境にとても立派になられました」


「ならば……」


「でも、嫌なんです!」


 リベリアの訴えに涙が混じり始めた。


「兄さんを喰らうくらいなら、立派にならなくてもいい! 吸血鬼でなくなったっていい! 私は……兄さんと別れたくない!!」


「……………………なに?」


 瞬間、アランを纏う空気が一変した。


 幼い頃、度重なる悪戯の果てに厳しく折檻されたトラウマが、リベリアの中で蘇る。これはアランが激怒する一歩手前の雰囲気だ。あまりの恐怖に、リベリアは一瞬にして蛇に睨まれた蛙と化してしまった。


 アランの逆鱗は明白であり、それはリベリアの失言でもあった。


『吸血鬼でなくなったっていい』。ホームハルト家だけでなく、すべての吸血鬼を侮蔑する発言には、穏便に説得を試みようとしていたアランも咎めないわけにはいかない。


 だがしかし、今は平時とは状況が異なっていた。


 アランの頭の中で、様々な要素が一本の線になって浮かび上がる。結果、次に彼の口から出たのは分からず屋の妹を正す一喝ではなく、深い失望だった。


「リベリアよ。まさかとは思うが……貴様が『完全なる雑種』の元にいるのは、あの伝説が関係しているわけではあるまいな?」


 アランの疑問に、リベリアはビクッと肩を揺らした。


 偽る選択肢は……ない。アランはすでに確信を得ているよう。どのみち否定したところで、『完全なる雑種』と関わっている理由を問い詰めてくるに違いない。


 かといって沈黙は肯定を意味する。肯定することは、すなわち……。


 退路を断たれたリベリアの額に汗が浮かぶ。


 その時、アランの横からミシェルの怪訝な声が割って入った。


「アラン様。あの伝説とはいったい何のことですか?」


「ああ、そうか。元人間のミシェルは耳にしたことがなかったか」


 リベリアを眼で牽制しながらも、アランはミシェルに向けて説明を始めた。


「ホームハルト家に限らず、すべての吸血鬼の間にはこんな言い伝えがあるのだよ。なんでも『新月の夜に千の血を飲むことによって、吸血鬼はさらなる上位の存在へと進化ができる』というものらしい」


「なんと、そんな伝説が……」


「下らん戯言だがな。もっとも吾輩は、実際に上位の存在へと進化した者どころか、伝説を試してみたという者すら耳にしたことはない。そもそも一夜にして千の血を飲むなど、いくら吸血鬼でも不可能な話だ。が、」


 アランの軽蔑に満ちた視線がリベリアを貫く。


「大方この娘は、『完全なる雑種』の血で代用しようとしたのであろうよ」


「……成功するのですか?」


「分からん。しかし試してみる価値はあるだろうな。吸血鬼でなくなりさえすれば、成人の儀を行わずに済むなどと血迷った娘にとっては」


 即興で考えたリベリアのアイディアなど、アランにはすべてお見通しだった。


 己の謀略を暴かれたリベリアに、もう言葉はない。後は兄の審判を待つのみ。

 と、


「くくくく、ふははははッ……」


 何が可笑しかったのか、突然アランが笑い出した。


「なるほど、なるほど。これで合点がいった。ミシェルの口から『完全なる雑種』などという単語が出た時は首を捻ったが、まさかあのような伝説に縋るつもりだったとはな。やはりお前はまだまだ未熟だよ」


 吸血鬼は高らかに笑う。近所迷惑などドブ川に捨てた勢いで、雄々しく、威風堂々と。


 そして――、


「ふざけるなよ」


 絶対零度の双眸がリベリアを貫いた。


 喉が渇く。思考が曇る。産毛が逆立つ。呼吸が乱れる。


 魔眼ではない。ただ睨まれているだけなのに、全身から冷たい汗が滲み出てくる。


 人間であれば自害を選んだ方がマシと思わせるほどの恐怖が絡みつき、リベリアは身体の自由を奪われていた。


「成人の儀を拒むだけならまだしも、吸血鬼であることを放棄するだと? それはすべての吸血鬼に対する侮辱であり冒涜だぞ! 恥を知れッ!!」


 アランの咆哮が大気を揺らした。


 リベリアが屋上へ降り立った時とは違う。翼すら広げていないのに、周囲の砂埃が舞い上がった。それはまるで、無機物すらアランを恐れているかのように。


 ならば怒りの矛先を向けられているリベリアは、どれほどの重圧を身に受けているのか。


 遠くなりつつある意識を唇を嚙むことで繋ぎ止め、リベリアは無理やり言葉を絞り出した。


「に、いさん……私は……」


「もうよい」


 激怒から一転、アランの声が深く沈む。失望を通り越し、絶望に打ちひしがれているよう。


 再び夜空を仰いだアランの口から漏れたのは、己に対する反省と諦観だった。


「どうやら吾輩が間違っていたようだ。リベリア、お前を甘やかしすぎた。まさか、この歳になって本気で躾をする必要があるとはな」


 妹と過ごした日々を思い出しながら、ゆっくりと顔を戻す。だが次にリベリアを見据えた眼差しは、もはや可愛い妹に向けるものではなかった。


 敵。蹂躙すべき相手を前に、アランの瞳に闘気が満ちる。


「くくく。なるほど。あの悪魔、最後の一言こそが真の目的だったのだな? おそらく、こうなることを見越していたのだろう」


 それに加え、リベリアが到着するまでの時間稼ぎの意味合いもあった。安藤の無駄話がなければ、二人は結界の外で鉢合わせしていただろうから。


 どのみち感謝せねばなと、アランは不敵な笑みを見せる。


 対峙するリベリアも、すでに覚悟は決まっていた。今にも崩れてしまいそうな脚を気力で持ち堪えさせ、兄のスパルタ教育を真っ向から受け入れる。


「私は構いません。元よりそのつもりです」


 退くこともできない。従うこともできない。ならば戦うのみ。


 けど……天崎に付いた最後の嘘が脳裏を過る。


 負けないと豪語したはいいものの、今まで一度たりとも兄に勝ったことはなかった。


「決着を付けましょう。兄さんに勝って、私は自分の力を証明してみせます」


 負けるわけにはいかない。負ければすべてを失いかねないのだから。


 実の兄を屈服させるため、リベリアは自らの人差し指を噛みしめる。


「さあ、『吸血の時間ドラキュティックタイム』です」


 今宵、異界化された空間の中で、熾烈な兄妹喧嘩が人知れず始まろうとしていた。

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