第12話 闇夜の襲撃者1

 雲間からわずかに覗く月明かりが差し込む六畳の和室。


 あらゆる色が失われた薄暗い部屋の中、じっと佇むのは一人の少女。


 ただし、その姿形は人間のそれではない。


 微量の灯りに浮かぶシルエットには、翼があった。コウモリを連想させる漆黒の翼が、少女の背中で小さく折り畳まれている。


 彼女は微動だにしないまま足元を見下ろしていた。


 暗闇でも鮮明に映し出す縦に長い瞳孔は、布団の中で眠る人間を捉えている。


 否、彼もまた純粋な人間ではない。外見や肉体を構成する遺伝子の大部分は人間のものであるが、その実、彼は『完全なる雑種』と蔑まれ呼ばれている、伝説上に存在するあらゆる種族との混血だった。


 無防備な寝息を立てる彼を見つめているうちに、自然と生唾が落ちた。


 吸血鬼の少女、リベリア=ホームハルトは、ゆっくりと彼の傍らに膝を落とす。そして己の背中から生えている翼で包み込むように、彼の上へと覆い被さった。


 数時間前、有沢空美とした会話が思い起こされる。


 我慢も遠慮もする必要がない。ほんの少しだけ、ほんの数滴だけでいいのだ。『完全なる雑種』という珍しい生き血を味わってみたい。どんな味がするのか、確かめてみたい。空美の話により、天崎に対する興味が一段と強いものになっていた。


 決意を固めると、リベリアは自らの鋭い爪で天崎の手の甲を裂いた。


 少しだけ痛みによる脊椎反射を見せたが、天崎が目を覚ます様子はなかった。


 じわりじわりと、赤い鮮血が溢れ出てくる。


「う、うわぁ……」


 脈打つごとに皮膚を濡らす血液を見て、リベリアは生々しい吐息を漏らした。


 天崎が『胸』、安藤が『歌声』に性的欲求を駆り立てられるように、吸血鬼にもまた種族独自の嗜好があった。


 それは『出血』である。生物から赤い血が流れる光景に高揚感を覚えるのだ。


 もちろん、その中でも個体差によって趣向が異なる場合もある。頸動脈が引き裂かれ噴水のように噴き出す血液が好きな吸血鬼もいれば、指先から滴り落ちる一滴に興奮する吸血鬼もいる。


 リベリアの場合、どちらかと言えば後者の方に偏向していた。


 皮膚に針を突き立て、浮き上がった赤い珠が表面張力を失わないまま肌の上を滑る。それを地面へ落ちる前に、舌で絡め取るのが好きだった。


 しかしリベリアは、生きる目的以外の吸血をそう何度も体験したことはなかった。


 吸血鬼にとっての吸血行動の意味は、大きく分けて二つある。


 一つは対象を『殺し』、食糧として『食欲』を満たすもの。

 もう一つは対象を『生かし』、自慰として『性欲』を満たすもの。


 生きるための食糧調達は至極当然に行えるのだが、吸血鬼の中でもまだ未成年のリベリアにとっては、後者の経験はほどんどなかった。


 だからこそ今からやろうとしている行為に恥じらいを覚えるのだし、またわずかな出血を見ただけで熱に浮かされてしまうのである。しかもその血が、滅多にお目にかかれない『完全なる雑種』のものとなれば尚更だ。


 天崎の手の甲から滲む血を見ているだけで、自然と口の中に唾液が溢れた。


 もう一度大きく息を呑んで、自らの口元を舌で舐め回す。


 いったい、どんな味がするのだろう。


 ゆっくり、ゆっくりと、天崎の手の甲へと顔を近づける。恐れるように、歓喜するように、震える舌を伸ばす。


 そしてリベリアの舌の先が天崎の血に触れた、まさにその瞬間……、


 サッ! と、押し入れの襖が勢いよく開かれた。


「ひゃうわあぁっ!」


 あまりにも突然の出来事に、リベリアは奇声を発しながら飛び退いた。


 弾かれるように尻もちをつき、そのまま畳を擦るようにして烈火の如く後ずさる。果てには声にならない声を喉の奥から絞り出し、両腕は動揺のしすぎで奇妙な踊りを披露していた。


 だが気が動転してしまうのも無理なからぬこと。人間で例えるなら、エロ本に目を通しながら自慰行為に励んでいる最中だったのだ。己の秘なる部分を目撃されてもなお堂々としていられる精神力など、初心なリベリアはまだ持ち合わせていない。


 涙目になりながらも、激しく高鳴った動悸を無理やり抑え込もうと胸に手を当てる。


 そして空気を読まない押し入れの主に対して、リベリアは癇癪混じりの怒鳴り声を上げた。


「ま、円さん! 驚かさないでくださいよ!」


 しかしその叱咤は円には届いていないようだった。


 いつもの無表情ではなく、どことなく険しい顔をしている。それに円の瞳はリベリアを捉えてはいない。まっすぐに定められた視点はリベリアの横……窓だ。


「……?」


 不思議そうに首を傾げるリベリアと、ずっと窓の方を凝視し続ける円。両者の間に言葉はなかったが……円の一言が、その拮抗状態を破った。


「くる」


「――ッ!?」


 唐突な寒気に襲われ、リベリアは背中を震わせた。


 正体不明の恐怖心に足を竦ませつつも、元凶を視界に入れようと無理やり首を回す。


 そして……見た。


 窓辺に浮かぶは黒い影。月明かりを逆光に、人の形をした影はゆっくりと窓を開ける。


 夜行性の瞳を持つリベリアは、その人物の身なりを鮮明に捉えることができた。


 背の高い女だった。上等な給仕服に身を包み、丁寧に巻かれたブロンドの長い髪が夜風に晒され靡いている。憮然とした態度で口を真一文字に結んでいるが、気品ある佇まいは、どこぞの名家の令嬢と誤解されても不思議ではない。


 メガネの奥で光る、縦に割れた瞳孔がリベリアを威圧する。


 見覚えのある……いや、多くの時間を共有してきた人物を前に、リベリアは悔しそうに言葉を絞り出した。


「ミシェル……さん……」


「お久しぶりです。リベリア様」


 敬称を付けている割には高圧的な態度でリベリアを睨みつけるミシェル。


 対するリベリアは、まるでイタズラが見つかった子供のように歯噛みした。


「相変わらず雰囲気が似ていますね。てっきり兄さんが来たのかと思いましたよ」


「当然です。私はアラン様の眷属ですので」


「よく私の居場所が分かりましたね」


「何十年お仕えしてると思ってるんですか。リベリア様の匂いを追うくらい、訳ありません。とはいえ、至る所に匂いを付けられて随分と惑わされましたが」


 リベリアが毎夜毎夜外出している理由はそれだった。


 一ヶ所に留まってばかりではすぐ居場所を特定されると思い、遠出しては自分の匂いを残していたのだ。しかしこうして見つかってしまった今、結局それも無駄になってしまったわけだが。


「かくれんぼも、これで終わりです。さあ、アラン様の元へ帰りましょう」


「……イヤです」


「まだ我が儘を言うつもりですか?」


 駄々っ子を前に、ミシェルは困り果ててしまう。


 それでも尚、リベリアは拒絶を露わにした。


「私は……私は大人になんてならなくていい!」


「リベリア様がいくら拒もうとも、これはもう決定事項なのです。貴女がホームハルト家に生まれてきた瞬間から定められた運命。逃れることはできません」


「でも……」


 目尻に涙を溜め、リベリアは強く拒み続ける。


 しかしミシェルは必死に訴えるリベリアの目を見てはいなかった。彼女の視線はリベリアの身体。一通り眺め終えた後、ミシェルは鼻の頭に皺を寄せて嫌悪感を露わにした。


「リベリア様。私が見繕ったドレスはどうなされましたか?」


「……兄さんにボロボロにされましたので捨てました。貴女も見ていたでしょう?」


「だからといって、そのような下賤な衣服を着るべきではありません」


 険しい顔をしたまま、ぴしゃりと言い放った。


 ミシェルの言う通り、元々リベリアが着ていたドレスは、デパートで買った服とは比べ物にならないほど高価な物だったのだろう。だが、それはあくまでも新品での話。服としての機能面を見るなら、大半の布地が引き裂かれたボロ雑巾よりも、今のブラウスの方が遥かに有用だった。


「思うに、そこで眠っている人間に誑かされて購入されたのでしょうね」


 と、ミシェルの眼球が未だ熟睡中の天崎を捉えた。


 ……嫌な予感がする。


 ミシェルの意識を天崎から逸らすため、リベリアは安い売り言葉を口にした。


「ところでミシェルさん。貴女は私を連れ戻すためにここへ来たのでしょうが、本当にそれが可能だと思ってますか? この私が貴女如きに後れを取るとでも?」


「真っ向からの戦闘になれば難しいでしょう。四肢を折ってでも連れて帰って来いと申しつけられていますが、返り討ちに遭う可能性の方が高いかと。なので私としては、リベリア様が大人しく従ってくれることを願うばかりです」


「イヤです。さっきも言ったように、ミシェルさんの説得には応じません」


「……そうですか」


 目を伏せ、一考するミシェル。


 そして何かを諦めたように、大きく息を吐き出した。


「ならば仕方がありません。少しばかり強引な手段ですが……」


「あ」


 しまった! 挑発は逆効果だった!


 気づいた時には、すでにミシェルの姿が消えていた。否、消失したのではない。驚くべき速さで小さくジャンプしたのだ。


「なッ!?」


 目では追えていたが、あまりの突拍子のなさに身体の反応が遅れてしまった。


 ミシェルは部屋のど真ん中にいた。眠っている天崎の、わずか数十センチ上空。身を屈めた姿勢から、天崎の頭部を踏み潰さんと脚に力を込める。


「天崎さん起きてッ!!」


 叫ぶよりも早く、リベリアは天崎の腕を掴んでいた。


 力任せに引っ張り、無理やり布団から脱出させる。結果、間一髪のところでミシェルの踏みつけを回避させることに成功した。


 しかし……。

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