第4話 おののき荘3

「朝っぱらからうるせえんだよ! こちとら今から寝るところなんじゃい、バカたれがぁ!」


 二度目の爆発音とともに、耳を劈く咆哮が天崎たちを襲った。

 ビクッと肩を震わせた天崎とリベリアは、弾かれたように玄関の方を振り返る。

 開け放たれた扉から登場したのは、鬼も裸足で逃げ出しそうな形相をした女性だった。


 しかも何故かブラとショーツだけという下着姿で。


 元々はかなりの美人なのだろうが、憤怒の化身に取りつかれ歪められた顔は、直視もできないほど見るも無残な姿へ。亜麻色の髪はアニメの爆発に巻き込まれたように縦横無尽に飛び跳ねているし、目なんて完全に血走っている。視線を合わせただけで殺されそうだ。


 事実天崎は、下着姿の美人が訪れたことに対する喜びなど欠片もなく、ただ純粋に彼女の激怒を目の当たりにして恐怖していた。


「げぇ、空美うつみさん」

「げぇ、じゃねえよ! むしろ、げぇって言いたいのはこっちだよ! 飲みすぎたんだよ、吐きそうなんだよ、頭痛てえんだよ! 今から休もうかと思ってたのに、隣でてめえがうるせえから寝付けねえし……殺されてえのか!?」


 床に穴が開いてしまいそうなほど何度も地団駄を踏む空美。

 リベリアはただただ呆然と珍獣みたいな彼女を眺め、天崎に至ってはまるで現実逃避でもするかのように目を泳がせていた。


「うっぷ。……暴れたら気持ち悪くなってきた」

「ここで吐かないでくださいよ!」


 畳にぶち撒けられたら一大事だ。

 意識の逃避行から戻ってきた天崎は、すぐに袋か何かを探すため立ち上がる。


「……いや、大丈夫そうだ。悪いが飲み物をもらうぞ」


 家主の返事も待たず勝手に上がり込んできた空美は、勝手に棚からコップを取り出し、勝手に冷蔵庫から麦茶を拝借する。そして最後には、流し台で豪快に顔を洗い始めたのだった。


「タオル」

「はい」


 すでにいろんなことを諦めていた天崎は、素直にタオルを渡した。これ以上、彼女の機嫌を損ねても何一つ利がないと悟ったのだろう。


「ぷはぁ。何とか治まったぜ。ついでに眠気も吹っ飛んだがな」

「……すみません」


 とりあえず謝っておいた。

 顔を洗ってさっぱりしたのか、タオルから上げた空美は爽やか度が数段アップしていた。騒がしくしていた天崎の件も、まさしく水に流したといった感じだろう。


 さらに言えば、たったそれだけのことで彼女は数年も若返ったように見えた。


 原因は肌だ。水気を得ることで肌の弾力が復活し、とても二十代半ばの見た目では釣り合ないほど瑞々しいものになっていた。化粧も落ちているはずだが、それでも現役高校生に引け劣らないくらいだろう。


 ただ空美に対して肌の話題は禁句だ。褒めることでご機嫌を取れないのが悔やまれる。


「つーかよぉ……」


 怒りが霧散して良かったなぁと安心したのも束の間、流し台に背を持たれた空美は半眼で天崎を睨みつけてきた。先ほどの火傷しそうな激怒とはまた違い、今度は皮膚に突き刺さるような冷たく静かな怒りだった。


「お前はいったい何なんだ? 何でいつもそうなんだ?」

「えーっと……?」


 リベリアのことを問うているのかと思ったが、どうやら違うらしい。

 何なんだ? いつも? 俺また何かやっちゃったのか?


 空美と天崎はお隣さんだ。騒音で迷惑をかけることは往々にしてある。が、それ以外で空美の機嫌を損ねることなんて……ダメだ、まったく思い当たらない。


 天崎の熟考も虚しく、どうやら時間切れになってしまったらしい。

 空美の導火線に再び火が付いた。


「てめぇの下半身にぶら下がってる息子のことを言ってんだよ!」

「…………は?」

「普通は勃つだろうが! こんな美人が下着姿で部屋に押し入ってきたら、我慢汁でパンツ濡らすのが男の性ってもんだろ! それをお前ときたら……このダメチンが!」

「はうッ!!!???」


 急に接近してきた空美が、いきなり天崎のお宝を蹴り上げた。表現できぬ痛みが全身に奔り抜ける。視界が白ばみ、呼吸ができない。自然と涙まで出てきた。

 ……この痛み、どうすれば女性に分からすことができるのだろうか?


「ぐ、ぐぅ……」


 畳の上で蹲り、悲痛な呻き声を上げながら目の前の悪魔を睨み上げる。


 確かに空美は自他ともに認める美人であり、スタイルも女性として非の打ちどころがない。バストも豊満で、ブラジャーで締め付けられているにもかかわらず、彼女が身動きするたび小刻みに揺れるほど。


 彼女が普通に歩いているだけで、道行く男たちの視線を独占するのは間違いないだろう。

 本当に興味がないとなれば、その男はゲイか不能の恐れがある。


「なるほど、そういうことだったのか。すまなかった」

「ち、違う! 俺はどっちでもない! 普通でノーマルで正常だ!」


 乱れる呼吸で弁明するも、空美の目は疑いを深めるばかりだ。


「前にも言ったはずですよね! 俺は『完全なる雑種』だから人間以外に欲情することはないって!」

「あー……そういや聞いたな、そんな設定。けど、それがどうしたってんだ。血統を言い訳に自分の不能を正当化しようってか? はっ、男として情けねえなぁ」

「だから俺は不能じゃないっつーの!」

「じゃあ訊くけどよ、人間以外に欲情しないってことは、人間にはするって意味だろ? お前に彼女がいるとか聞いたことねえし、女に発情してる姿も見たことないんだけどな」

「してるよ! クラスの女子に対して毎日発情してるよ!」

「うわぁ。変態だ、コイツ」


 ドン引きされてしまった。

 股間の痛みとは違う意味で泣きたくなってきた。


「リベリア。俺はもうダメみたいだ。助けてくれ」

「えっ。残念ですが、私も変態さんの肩は持ちたくないです」

「チクショウ! やっぱ女ってやつは……」

「ん? なんだお前、見ない顔だな」


 天崎が泣き崩れる傍らで、ようやく空美がリベリアの存在に気づいたようだ。

 リベリアは一瞬だけ怯んだ後、空美に対して恭しく頭を下げた。


「はじめまして。本日より天崎さんの部屋でお世話になります、リベリア=ホームハルトと申します。以後お見知りおきを」

「ふーん。お前、吸血鬼だな?」

「いかにも」


 リベリアの瞳や翼に視線を巡らせた空美が、ほぼ断定気味に言った。

 そして彼女の全身を観察し終えるやいなや、何か合点がいったように頷き始める。


「ははーん、なるほどな。まどかといいコイツといい、実はお前、ロリコンだったのか」

「何でだよ! ってか、吸血鬼を前にして驚きさえしないんですかアナタは!」

「海外じゃあ吸血鬼なんてそうそう珍しくもないよ。お前、どうせまた面倒なことに巻き込まれてんだろ? んで、朝っぱらから騒がしくしてたのは、その吸血鬼に無理難題を押し付けられたから。いい加減、慣れろよ『完全なる雑種』。自分がそういう星の下に生まれてきたことを、そろそろ受け入れたらどうだ?」

「…………」


 先ほどとは打って変わって、優しげな声音で空美が諭す。

 対する天崎は、面白くなさそうに唇を尖らせてそっぽを向いた。


 不特定多数の種族の血が混じっている『完全なる雑種』は、その特殊な血統から一般人よりも他種族を引き付ける力が強い。今回のリベリアみたいに天崎の血そのものを狙うケースは稀だが、事実として、天崎の周りには人間以外が集まることの方が多かった。


 吸血鬼であるリベリアはもちろん、座敷童の円も、隣の部屋に住む空美も。


 引力、とでも言うのだろうか? 花形役者は生まれながらにして才覚を発揮し、他人から注目されるように、少々特殊な血を持つ天崎もまた、彼の意思とは無関係に人外を惹き寄せてしまうのだった。


「ま、お前の苦労も分からんでもないよ。けど、それとこれとは話が別だ」


 ドスの利いた後半のセリフとは裏腹に、ニカッと笑みを見せた空美が顔を近づけてくる。未だ動けず無様に尻もちをついている天崎は、彼女の胸の谷間が迫ってくるのをただただ呆然と眺めるばかりだ。


 そして額が衝突しそうなほど接近した空美が、酒臭い吐息を吹きかけながら言った。


「こっちも疲れてんだよ。今度あたしの眠りを妨げようとするなら……殺すぞ?」

「あっ、はい」


 去勢されそうな勢いで手をワキワキするのを見てしまえば、頷かざるを得ないだろう。


 天崎の返事に満足げに頷いた空美は、リベリアを一瞥した後、くるっと背を向けてさっさと去っていった。随分と穏やかになった足取りや扉の開閉とは比べ、背中から滲み出る不機嫌オーラは治めてくれなかったが。


 空美が騒々しかった反動からか、耳鳴りがするほどの静けさが部屋の中を満たす。まるで嵐が過ぎ去った後のような、妙に落ち着いた空気だ。


「…………」

「…………」


 隣の部屋へと戻った音を確認したところで、ようやく二人は言葉を取り戻した。


「な、なんだか情操教育的に良くない感じの方でしたね」

「それは種族柄仕方のないことだとしてもさ、いきなり急所を蹴るってどういうことだよ。次に何かやらかしたら、マジで殺されるかもしれん」

「あの方も人間ではありませんでしたね。……サキュバスですか?」

「よく分かったな」


 空美の容姿からは、サキュバスと判断できる材料はなかったはずだ。


 というよりも、人間そのものだったと言っても過言ではない。男性を誘惑し精を貪る種族の特性上、寿命や美貌以外は人間の肉体とまったく同じ構造である必要があるのだ。そういう意味では、空美の身体は『完全なる雑種』の天崎よりも、さらに人間に近いのかもしれない。


「私も主に人間を捕食している種族ですからね。人間とそれ以外は割と区別がつきます」

「……聞きたくなかった」


 その情報をわざわざ俺に伝えるなよと、天崎は肩を落とした。

 どちらにせよ、命を狙われている真っ最中の自分には関係のない話ではあるが。


「にしても、妙にお疲れの様子でしたね。今から寝ると言っていましたし、夜間に何かお仕事でもされてるんですか?」

「ああ。あの人はサキュバスらしくお水の仕事してるんだよ。どうせ興が乗って飲みすぎたってだけだろ。朝帰りはいつものことだ」


 そう言って、壁掛け時計に視線を移した天崎は絶望した。


 空美が帰宅して寝ようとしていたということは、あと三十分もしないうちに起床しなければならない時間だという意味だ。ほぼ毎日のように、隣の部屋の扉の開閉が天崎の目覚まし代わりとなっていた。


 油断すると意識が飛びそうになってしまう眠気もさることながら、腹の底から訴えてくる空腹感もヤバい。そうだ、完全に忘れていた。昨夜外出するに至った理由は、コンビニで食糧を調達するためだった。なんやかんやあって、結局何も口にしてはいなかった。


「しゃーない。授業中に寝るか」


 などと不真面目な決意を胸に、まずは朝飯をどうしようか考えを巡らす。

 とその時、機を見計らったように押し入れの襖がサッと開いた。

 未だ眠たそうに舟を漕ぎながら、着物姿の座敷童がのそのそと這い出てくる。

 寝起きの童女は、半分だけ開かれた瞳で天崎を見上げた。


「おなかすいた」

「あっ、お布団空きましたね? それでは私は遠慮なく休ませていただきます」


 円の背後で勝手に布団を敷き始める吸血鬼に、天崎は軽く殺意が湧いた。

 寝入ったところを包丁で刺してやろうか? いや、そんな簡単に吸血鬼が討伐できるなら誰も苦労はしない。それにこの場で戦闘にでもなれば、確実に隣の悪魔に殺されるだろう。今死ぬよりも、二週間くらいの猶予は欲しい。


 己の運命を呪いながら怒りに震えていると、ふとシャツの裾が引っ張られた。

 見れば、不機嫌な顔を露わにした円が急かしてくる。


「ねえ、あさごはん」

「ああ、朝ごはんな」


 肺の空気すべてをため息として吐き出した天崎は、疲労の溜まった身体を酷使して、昨日の残飯という名の朝食の準備に取り掛かるのであった。

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