第14話 花が雨に散る

 初めて見たアヤメの笑顔に、レイも累も言葉を失った。ただ顔を見合わせて立ち尽くす。


「ねえ、レイ! ジジのとこ、行きたい。今日までのこと、たくさん話したい」


そう言うアヤメの手を、レイは無言で掴んだ。


「レイ?」


そのまま何も発さないレイを、アヤメは不思議そうに見つめる。


「なあ累…アヤメは人間だって、言ったよな?」


レイの心臓は早鐘を打ち、頬には嫌な汗が伝った。


「…検査の結果は間違いなく、人間だ」


累も信じられないという表情のまま、現実を受け入れられずただ立ち尽くしていた。アヤメだけが、何を言わずに自分の手を握り続けるレイの手を振り払おうと動いている。


「じゃあなんで、あんな鬼を、親しげに呼んでいる…?」


レイはこれが間違いだと信じたかった。アヤメが、あの白い鬼を自分の大切な者と見間違えているのだと信じたかった。だが頭のどこかが冷静に告げる。白く大きな角を生やし、巨大な鬼に囲まれて尚、怪しく笑うモノを大切な者と間違う筈がないだろう、と。


「おい、レイ!どこに行く!?」


突然、レイはアヤメを抱えて飛び出した。興奮しているのか、薬の切れかけた体でも走れた。そのまま戦場の中腹あたりのビルに向かった。


「なあアヤメ、あれは本当にジジなのか? あの、巨大な鬼に囲まれた、白い奴がジジなのか?」


鬼まで約三十メートル。緑鬼の効果は届かない場所で、あの鬼がよく見えるビルの上までアヤメを連れてくる。


「うん、ジジだよ」


それでもアヤメは笑顔で頷いた。そればかりか「もっと近くに連れてって」とレイに強請る。自らが助け、幸せを願った相手が、自分の戦うべき相手だったのだと知って、レイの頭の中が真っ白に塗られていく。騒ぎを聞きつけた名取が、レイの元に駆けつけた。一足遅れて、累も来る。


「レイ、どういうことだ。この子はあの鬼と繋がっていたのか?」


「俺にも、わかりません…」


呆然と呟くレイの肩を「しっかりしろ」と名取が揺らした。そうは言われても、血の気のひいた指先に熱が戻ることはない。頭の中が、錆びた歯車のようにぎいぎいと軋み、思考が巡らなくなる。


 ヒュウと風が吹き抜けて、さらに熱を奪った。残った僅かな砂ぼりも吹き飛ばし、澄んだ視界が鬼とレイたちを繋ぐ。


「おお、アヤメ、そこにいたのか。久しぶりだな」


白い鬼の発した言葉が、空気を揺らしてここまで届いた。アヤメの見間違いであってほしいという、願いも風に溶けた。


「ジジ、ジジ!」


アヤメがレイの腕の中から駆け出す。古びたビルの錆び付いたフェンスに駆け寄り。大きな声で名前を呼んだ。


「ジジ、アヤメね、色んなことを見て、色んなことを聞いたよ」


アヤメはレイに言われた通り、嬉しかったこと、怒ってしまったこと、哀しかったこと、楽しかったことを全て、鬼に話そうとしている。対する鬼は、孫を見る年老いた男のように、優しい笑みを浮かべてそれを見ていた。


「そうかそうか。それはよかった」


しかしその笑みは、すぐに異様なものへと変わる。


「だが、ジジには時間がない。手っ取り早く、可愛い孫の話を全て残さず、もらうとしよう」


不気味に口角を歪め、鬼が巨大な両刃鋸を掲げた。鋸から白い靄が現れ、徐々に纏まると糸のように伸びてアヤメまで繋がる。アヤメを鋸と同じような白い靄が包んだ。


「ジ…ジ?」


その瞬間、アヤメの大きな黒い瞳がグリンと異様なほどに動いた。そしてそのまま白眼を剥いて床に伏す。閉じきらず、半開きの口からはつうと唾液が漏れた。


「アヤメ…?おい、アヤメ、しっかりしろ!」


数秒遅れてレイが駆け寄る。状況がつかめない。何が起きている?


「ほう、そこな者、レイと申すか。アヤメが世話になったようだな」


「…は…?」


突然、鬼に名前を呼ばれたレイの、ぼんやりと空いた口が塞がらなくなる。


「他の者にも随分と世話になったようだ」


訳のわからない恐怖が体を包んだ。


「てめぇ、何わけわかんねぇこと喋ってやがる!」


その冷たく凍った空気に、突如咆哮が割り込むと、嫌に興奮した一人の戌が鬼に向かって突っ込んでいった。男は手にしたナイフの鈍く光る刃を白鬼に向ける。しかし、その刃は周囲を囲む雑多な赤鬼の一体に阻まれ届かなかった。


 男の突発的な行動に釣られるように、複数の戌が追撃する。しかしどれも、白い鬼には届かない。それでもまずは、この雑多な鬼どもから潰さんと引き金を引く。ナイフに補正された弾丸が、鬼の体に引き寄せらた。酉も申もそれに続こう銃を構える。その時だった。


「まずはその、小さき刃を捨てなさい」


白鬼が、雑多な鬼どもにそう命じた。鬼たちは一斉に、自身に刺さった刃を抜くと明後日の方向に投げ捨てる。目標を失った弾丸が、あらぬ方向を破壊した。


「これはこれは、よく考えられたものだ。この小さい刃は鬼にとってはなんの威力もない。故に外さず放置していたのだが、これに弾が追従するとは。恐れ入ったね」


「は?」


突然の出来事に、その場にいた全員の思考と動作が停止する。その瞬間に、最初に飛び出した男を赤鬼の金棒が襲った。大きな衝撃音がして、男の体がビルの壁に向かって吹き飛んでいく。


「総員、一度距離を取れ!白鬼の能力は未知数なんだ、無闇に突っ込むな!!」


いち早く声を発したのは御堂だった。その声に反応した戌たちが一斉に引く。


「御堂さん、遠くからの攻撃なら構いませんよね。今ぶっ飛ばされたあいつ、俺の友人です! 俺はあいつに一発入れなきゃ気が済まない!!」


しかし乱れた統率はすぐには戻らなかった。興奮を隠しきれない申の男が遠くから引き金を引いた。しかし


亜鬼アキ、来なさい」


白鬼を狙った射線の間に赤鬼が一体入り込むと、身代わりになるように赤鬼が撃たれた。


「こちらの威力は脅威だったが、引き金を引いてから発射まで〇.一秒、いや二秒か、時差があるようだね。撃てるのは一度に三発。さらには光って発射場所を教えてくれる」


未だに倒れたままのアヤメを抱え、状況を見ていたレイには、今目の前で起こっていることが理解できなかった。いや、おそらく誰も理解できていない。


「一匹の馬鹿な小鬼が、アヤメをつまみ食いしようと攫った時には、九年を費やした私の計画も破綻したかと思ったがこれくらいなら及第点だろう」


白い鬼が満足そうに笑う。大して張っていないのに、奇妙なほどに響いて遠くまで届く声にも気持ち悪さを覚える。


「貴様、どうやってこちらの戦力を知り得た!」


名取が声を上げた。鬼のものとは異なる、よく通る澄んだ声だ。


「なあに、簡単なことさ。白鬼は記憶が共有できる。まあ、心が読める、そう捉えてもらっても構わない。私は今しがた、そこに眠っている可愛い孫 アヤメの心を読み、あの子が見聞きしたことを追体験しているのだよ。只、其れだけだ」


「記憶の共有、だと…!?」


名取の顔に緊張が走る。


「何かやましい、知られたくないことでも有るのかね? だがそう心配しなさんな。この力はそう便利なものではない、長年付き合った相手でなければ読めんのだ。そのために私は、九年もの間だ、そこなアヤメと共に生活してきた」


名取はアヤメに向き直る。この白い靄でつながり、記憶を共有しているということが容易に想像できた。名取は腰の刀に手をかけ白い靄に斬り掛かったが、ヒュンと空を斬る音がしただけで何もかわらない。


「しかし、たった数日分でも見るのは疲れる。私も随分といい歳のようだ。しかし、レイ、それから累、君達には感謝しよう。君達が見せてくれた戦闘訓練が随分と役に立ちそうだ」


そう言うと、白鬼は鋸を下ろした。たちどころに靄が消え、アヤメは咳き込むと目を覚ます。


「ゴホッ、ゲホッ、ジ…ジ…」


「おお、アヤメ、無理をさせて済まなんだ。だがお前はもう用済みだ。あとは好きに生きなさい」


「…ジジ…?」


「可愛い孫と呼んでおきながら、お前は私の孫などではない。適当に殺して食った人間の赤子だ。ふと人間の真似事がしてみたくなって育ててみたんだ。只それだけだとつまらんからな、ついでに大きくなったら人間の街に行かせて情報を抜き取る道具にしようと思った。そのために人間の生活を知りうる限り教えたんだよ。記憶の共有を使って適当な機会にこちらに戻るように刷り込み、私の元を離れたら、私のことを忘れるようにしてあった」


アヤメの顔が絶望に包まれる。


「アヤメ、そっちでの生活は楽しかったのだろう? だから、あとはそっちで好きに生きるといい。知らずとはいえ、鬼へ情報を渡すのに一役を買ったお前を受け入れてくれるのなら、だがな」


白鬼が下品に笑う。


「さあ人間ども、楽しい戦いの続きを始めよう」


嫌に空気が揺れた。


「総員、構えろ!!」


かき消すように御堂の声がする。


「さあ次は、我々から行こうかね。圭鬼ケイキ凱鬼ガイキ行きなさい」


二体の青鬼が火を放って、また戦場に轟音が響き出す。アヤメは静かに泣いていた。

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