第11話 大切なものを思い出す

「レイ、どう?」


神田を見送ったレイの元に、アヤメが寄る。それから頭を振って、濡れた犬のように髪を勢いよく揺らして見せた。


「似合ってるよ」


少し乱れた髪を、レイは手櫛で整えてやる。


「前が、よく見えるよ」


鬱陶しかった前髪がなくなったのが気に入ったらしい。


「レイは、なんで、髪切らないの?」

「母親の形見だから、かな」


普段ならば絶対に答えないような質問にも口を開いてしまうのは、神田の持つ雰囲気に当てられたからだろうか。それとも久しぶりに昔のことを、母のことを思い出したからだろうか。とにかく何故こんなのにも簡単に答えてしまったのか、レイにも見当はつかなかった。


「形見っていうのは、その人のことを思い出すためのものだ」


レイの答えに、首を傾げるアヤメを見て、レイは少し言葉を付け加える。


「レイの、『母さん』は今どこ?」

「いない」

「どうして?」

「俺がまだ、アヤメよりも小さかった頃に、死んだから」


レイがそう答えると、アヤメはそれっきり黙ってしまった。レイはそんなアヤメを抱えて椅子に座らせると、もう一つの椅子に腰掛ける。


「母さんの物はもう何一つ残ってなくて、残ってるのは同じ色のこの髪と瞳だけだ。何か残しておかないと俺は母さんのことを忘れてしまいそうで、こうして髪を伸ばしてる。髪が長ければ嫌でも目に入るだろ。そうすれば見るたびに、母さんのことを思い出す」


そう思って伸ばしていた髪なのに、見慣れてしまえばただの自分の髪でしかない。ここ最近は母のことを思い出していなかったとレイは思った。申し訳なくて寂しいと思う反面、仕方ないと思う気持ちもある気がして、レイは自分自身でもよくわからない感情になった。


「レイは『母さん』に、会いたい?」

「どうだろう。たぶん、会いたい、のかな」


よくわからない感情が、レイの答えの邪魔をする。


「アヤメはね、ジジに、会いたい」


ずっと前のレイならば、アヤメのように素直に会いたいと答えていただろう。


「会いたい人がいるのは、いいことだよ」


レイは朧げな記憶を手繰り寄せ、母の言葉を思い出した。


「次に会った時、会えない間の嬉しかったこと、怒ってしまったこと、哀しかったこと、楽しかったことを全部話すんだ。それから相手の話も全部聞いてあげよう。こうやって話したら笑ってくれるだろうか、この話を聞いたら涙を流して抱きしめてくれるだろうかって、次に会う日を想像するだけで、今を強く生きられる」


そう話した自身の母の顔を、レイはもうほとんど覚えていなかった。だが悲しそうに歪めながらも、なんとか口角を上げた桃色の唇だけは頭にある。レイは母が望んでこの国に来たわけではないことをわかっていた。海の向こうに、大切なものをたくさん残してきた筈だ。


「じゃあアヤメは、ジジにあったら、ここでのことを、たくさん話すね」


「そうだね」


そう答えたレイの顔は笑っていたが、描かれた感情は哀しみだった。


 

 今の日本に海の向こうの人間はほとんどいない。鬼の出現と同時にそのほとんどが国に帰ったからだ。もちろん事情がある者は鬼が出ようとここに残ったが、数はそう多くない。


 鬼の出現後、日本は混乱に包まれて、世界は日本を見放した。国土も狭く、エネルギー資源も乏しいこの国は他国の支援が必要不可欠だが、どの国も支援をしてくれなかった。理由はわからない。だが今や、日本は世界に存在しない国として扱われている。


 そしてそんな国でも、命と金の余裕も持て余せば強欲な人間が生まれる。だからここにレイがいて、その母がここにいた。



 レイはアヤメの全てを不思議そうに見つめる黒い瞳を見つめて、柔らかく指通りの良くなった髪を撫でる。純粋そうにレイを見つめ返すその瞳に、こんな薄汚れた話など映して欲しくないと願った。だがそれは施設に向かうこの子にとっは無理な話だ。施設で育ったレイは、それを一番よく知っている。だからこそ、ここにいる間だけはこの子に幸せでいて欲しいと願った。



 次の日、累や名取は予定通り遠征に出た。車両基地から飛び立つヘリを、アヤメの部屋の窓から見送る。


 今回の遠征には木野という若い桃と、それなりに経験のある申、酉、戌、それから数人の新人が連れて行かれることなった。情勢が落ち着きはじめたことを受けて、人の区域を拡大するための視察らしい。


「レイ、名取さんに、謝った?」


小さくなるヘリを見つめてアヤメが訊く。この間の話をまだ覚えていたらしい。


「まだ、かな」


レイは答える。正直に話せば、アヤメにそう言われていたことすら忘れていた。


「もどってきたら、言わなきゃね」

「そうだね」


 ヘリが見えなくなったのを確認して、二人は机に向かうと食事を摂る。アヤメがここにいる間は常に二人でまともな食事を摂るよう、累によって手配されていた。食事はうまいが、やはりレイは面倒臭さが拭えずにいる。しかし、それも間も無く終わる。遠征部隊帰還の翌日には、アヤメが施設に移ることが決まった。


 だが、アヤメとの日常に随分と気を許してしまったレイは、アヤメにそれを告げることができないまま、遠征部隊出発から三日目の朝を迎えた。

 別れの日は明日に迫っていた。

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