第10話 欲深さを知る
片付けを終えて訓練室を出る。レイはこの汗の染み込んだ衣服を早く脱いでしまいたかったが、更衣室には既に先客がいたので上着を羽織っただけで諦めた。とりあえずアヤメを部屋に送り届け、食事をさせている間に着替えに行けばいいと考えたのだ。手を繋いで、二人はゆっくりと廊下を進む。
「あ、戻られたんですね。ちょうどよかったです。食事の準備ができています」
無人だろうとたかを括り、ノックもなく開けた部屋の先には筧がいた。ベッドに備つけのテーブルではなく、部屋に準備された机の上に食事を並べている。
「あ、どうも」
アヤメはお腹が空いていたのか、レイの手を離すとパタパタと机に近づき鼻をすんすんと動かし始めた。
「じゃあ俺、着替えてきますね」
そんなアヤメの様子を見てレイは言った。しかし
「東さんの食事もと頼まれて、既に準備しています」
レイはすっかりと忘れてしまっていた。たしかに机の上には明らかに二人分の量の食事が配膳されている。
「あー…戻ったら、食べるよ」
レイは面倒臭そうに視線を逸らした。
「瀬尾さんから、東さんは食事を面倒臭がることがあるから、きちんと食べさせろと言われています。食べていただかないと、私が瀬尾さんに叱られそうです」
それだけは勘弁しろと、筧の生真面目な顔が言っている。椅子に腰掛け律儀に会話の終わりを待つアヤメの足が、ソワソワと浮き足立つように揺れていた。
「…ああ、じゃあ、食べてから、着替えに行きます」
「そうしていただけると助かります」
渋々といった様子でレイは席につく。それを確認したアヤメが箸と茶碗へ一目散に手を伸ばした。レイも続いて手を伸ばす。ゼリーや栄養補助用のビスケットばかりを食べるレイが食器に触れるのは、随分と久しぶりのことだった。
「それから、アヤメちゃんの髪を切ってくれる方が、二時頃ここに来てくれるそうです」
「あいつ、仕事が早いな」
「瀬尾さんも随分とアヤメちゃんを気にかけているみたいですね」
生真面目な瞳には羨ましいといった感情が僅かばかり滲んで揺れていた。レイは「お前も俺と同じようなこと言われてるぞ」と本人に伝えてやることを心に決めて、筧の言葉を忘れないように頭へ記録した。
「それ、たべない?」
不意に声をかけたアヤメの皿は、いつの間にここまで食べすすめたのか、ほとんど空に近い状態になっていた。さらにそれでも食べ足りない様子でレイの茶碗に収まる米を、アヤメはじっと見つめている。
「これ欲しいの?」
「うん」
「アヤメはよく食うな」
ふっと笑ってから、レイは茶碗をアヤメに差し出した。足りなきゃ後でゼリーやビスケットを食べればいい、レイにとって食事とはその程度のものだ。
「東さんが食べてくださらないと、私が叱られます」
しかしその茶碗は、部屋の隅で静かにそのやりとりを眺めていた筧によって阻まれ、アヤメの元には辿り着かなかった。
「アヤメちゃんも、急にたくさん食べると体がびっくりします。これをあげるので、ご飯は我慢してください」
筧はアヤメの手に飴玉を乗せる。それから「ご飯の最後に食べてね」と付け足した。すると、筧の目をじっと見つめていたアヤメが
「あ、りがと」
と小さな声でつぶやいた。筧は初めて言葉を返してくれたアヤメに驚いて一瞬固まったが、すぐ笑顔を作ると「どういたしまして」と答えた。そしてその様子を眺めながらレイは手と口を動かし続ける。
レイがこんなにも長い時間を食事という行為に使ったのも久しぶりだった。温かい食事は美味しいと、ふと自分が感じていることに自分自身で驚いていた。
「では、私は一旦失礼します」
二人が食事を終えたのを確認してから筧は部屋を出ていく。律儀にそれぞれがどのくらい量をどのくらいの時間で食べたのかまで記録して。レイはそこまで自分の自己管理に信用がないのかと、内心腹立たしくも感じたが、少し冷静になってみればそれもそうかと納得し始めた。正直先ほども美味しくはあるのだが咀嚼や箸を使うという行為がひどく面倒になり、何度かゼリーに変えてほしいと思った瞬間があった。そんなレイの亀のような食事を、アヤメは飴玉を口の中で転がしながら退屈そうに眺めていた。
「アヤメ、少し寝るか?」
「うん」
アヤメは椅子から立ち上がると、ヨタヨタとベッドにのぼった。布団をかぶって寝息を立て始めたのを確認すると、レイはようやく着替えに向かう。久しぶりに満足な食事を摂った身体の重さに少しだけ驚いた。
着替えを終えて部屋に戻っても、アヤメは変わらずすやすやと眠っていた。不具合を抱えた身体を無理やりに動かした代償からか、心地よい満腹の気配からか、寝息だけが響く静かな室内にいると自然とレイにも眠気が降ってくる。それに逆らうことなく、レイは先ほどの椅子に腰掛けると瞼を閉じた。
それからどのくらい時間がたっただろうか、レイはノックの音で目を覚ます。アヤメは未だに眠りの中にいるようで「失礼します」という控えめに落とされた声はレイの耳にしか届かなかった。「はい」と軽く伸びをしながらレイは返す。
「瀬尾さんにお願いされて来た
すると優しそうな表情の女がドアから顔を覗かせた。神田と名乗った五十代くらいの女は、優しそうな笑顔を見せながら部屋の中へと入ってくる。
「あら、アヤメちゃん、でよかったかしら?寝ちゃってるの?」
「はい。でも、すぐに、起こします」
「ごめんなさいね。この子には悪いんだけど時間があまりなくて…そうしてくれると助かるわ」
話す神田は終始にこやかな顔をしていた。しかしここには、レイに対してそうする人間は少ない。レイはどこか不思議な感覚に包まれていた。
「でももしも起きなかったら、あなたが抱えておいてくれれば大丈夫よ」
レイがアヤメを肩を優しく叩いていると、先ほどまで食事をしていた机に布をひいて、持参した鋏を並べる神田がレイに笑顔をむけた。やはりそれは、レイを奇妙な感覚にさせる。
「…あ、はい」
おかげでレイの言葉が詰まった。
幸いにもアヤメはすぐに目を覚ました。並べられた鋭い鋏たちに、初めは恐怖感じて表情を曇らせていたが、レイが丁寧に事情を説明して神田が優しそうな表情を向ければ、不安そうにはしながらも案外すぐに受け入れてくれた。
「今は本職じゃないから、あんまり凝ったことはできないけど我慢してね」
それから神田はそう言いながらも、椅子に座ったアヤメの髪を慣れた手つきで扱った。アヤメも自身の髪を優しく梳く手を気に入ったのか、その表情から不安の色を消している。
「じゃあアヤメちゃん、危ないから動いちゃダメよ」
神田が鋏を動かした。チャキンと音がして黒い髪が宙を舞う。それは重力に逆らうこと無く下に向かい、音を立てることなく着地した。神田がチャキチャキとリズムを刻めば、床の上に黒く意味のない形を描く。
「レイは、髪、切らない?」
切られた髪の一房が、座るアヤメの手元に落ちた。それを摘んで眺めながら、アヤメは訊く。
「俺は、切らないよ」
「そっか」
神田が一度鋏を置いた。部屋の中が妙に静かになる。
「私ね、昔は
少しソワソワと、居心地悪そうにするレイを察してか、櫛を手に取りアヤメの髪をまた梳きながら神田が言った。レイはまた言葉に詰まる。
新吉原とは、鬼との戦闘で疲れた者たちを癒すための、そういう店が建ち並ぶ一帯のことを指す。桃域の中に幾つか存在し、大半は国の認可を受けた正規の店だが、中には違法な店も存在する。
「いきなり馴れ馴れしく話してごめんなさい。戸惑うわよね」
しかし神田はと少しはにかんだような笑顔で謝罪するだけだった。
別の鋏を取り出して、また切り始める。この鋏では一度に切られる量が少ないのか、音も、落ちゆく髪の量も先ほどから随分減った。
「俺が昔住んでた新吉原は、ここから一番遠いところでした」
レイは漸く、言葉を神田に返す。
「そう。私は結婚を機に仕事を辞めてこっちに来たから、最後にあの場所に行ったのはもう二十年以上前になるわ。でも、どの吉原もいつの吉原も、きっと何も変わらないのでしょうね」
神田は笑顔を作りながらも、どこか悲しげな雰囲気が彼女を覆った。
「ねえ、シンヨシワラって、なに?」
静かに聞いていたアヤメが、二人の会話の隙間で問いかける。自分たちで話しておいてアレではあるが、この小さい子どもにどう説明すべきか、二人は迷う。
「そうねえ、アヤメちゃん、ここに来た時のことは覚えてる?」
「うん」
「どう思った?」
「良く、わからなかった」
「そう」
レイは二人の会話を静かに見守る。
「じゃあ、ここに来た時、アヤメちゃんはどうしたかった?」
「なんだか、少しこわくて、こわくないところに、行きたかった」
「じゃあ、今は? 今は、何をしたい?」
「うーん」
アヤメは黒い瞳をキョロキョロと動かしながら、考え始めた。神田は鋏を置いて、また櫛をとる。カランと金属が音を立てた。
「ごはん。ごはんが食べたい」
どうやら、アヤメは食にかなりの関心があるらしい。
「ふふ、そうなのね。ここのご飯は美味しいかしら?」
アヤメはぶんと頭を縦に振った。神田は驚いた顔をしてから「よかったわ、でも動いちゃダメよ」と笑った。手の中のものが櫛で助かる。
「ほかには?」
「ふかふかのおふとんが好き。あったかいお風呂も好き」
「そう」
神田はアヤメの正面に周り、前髪に手をかける。サラリと払って「可愛らしい顔ね」と微笑んだ。
「人はね、欲深いのよ。鬼にただ怯えていた時代は、皆生きるのに必死だった。でも戦い方を覚えて少しずつ余裕がて出てくると、やりたいことも思い出す。ゆっくりと眠りたい、美味しいご飯が食べたい、美しい物が見たい、愛されたいってね。新吉原っていう場所は、そういう欲を満たす場所なの」
「じゃあ、おいしいものが、たくさんあるの?」
「うーん、美味しいものもあるにはあるんだけど、あそこには美しい物や、愛を欲しがる人たちが集まってくるわ」
レイは欲望渦巻くあの街の、綺麗で美しい物と、汚く醜い物の両方を思い出していた。
「そっか。じゃあレイは、髪も目も、きれいだから、そこにいたの?」
瞼を閉じ、前髪を大人しく差し出すアヤメは、今度はレイに質問をした。
「俺よりも、俺の母さんがそうだった。俺と同じ色だけど少し癖のある長い髪、青空みたいに深い瞳」
今度は記憶の片隅に、ぼんやりと残るそれを思い出す。
「ふうん」
瞼を閉じたアヤメの表情はわからない。
「さ、難しい話はおしまい!アヤメちゃん、どうかしら? 頭が軽くなったでしょう?」
「うん」
アヤメは自分の髪に触れながら、楽しそうに返事をした。切りっぱなしの、ボサボサで毛先の揃わなかった髪はいつの間にか、肩よりも少し高い位置で綺麗に揃えられている。目にかかるほど長かった前髪も眉の辺りで綺麗に整えられ、一重なのに大きな黒い瞳が何にも阻まれることなくこちらを覗いていた。
「本当に可愛らしい子ね」
神田はアヤメを撫でると道具や落ちた髪を片付け始める。アヤメは心地よさそうに撫でられていた。
「日本はこんな国だから、見た目が少し違うと壁を作る人が多いの。私も初めて会った時はそうだったわ。でもたくさん話すうちに変わったの。あの子たちは皆、優しくていい子たちだった。私、今はここの炊事場で働いているのよ。あなた、ご飯をちゃんと食べないって瀬尾さんから聞いたわ。美味しいものを作るから、たまには食堂にも食べにいらっしゃい」
一通りの片付けを終えた神田は、ドアの前に立ちながらレイにそう言った。それから
「See you again」
と少し辿々しい英語で挨拶をする。
「Hejdå. 俺の母は、そう言っていました」
レイはそう言って彼女を見送った。
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