第8話 花の種は蒔かれた
トレーニングルーム横の更衣室を前でレイは少し困っていた。男性用の更衣室の中にトレーニング用の服があるのだが、アヤメを室内に入れても良いのか迷う。しかし、ここに一人残して行くこともレイは避けたかった。しばらく扉の前で逡巡していると
「レイ、どうしたの?行かない?」
腕の中のアヤメが、レイを少し見上げるようにして聞いた。
「あー、なんでもない。行こうか」
迷った末に、結局連れて行くことにする。
「ちょっとここに座ってて」
幸いなことに誰もいなかった部屋の中でアヤメを椅子に下ろすと、レイは立ち並ぶロッカーの中から『東』の札が貼られた扉を開けて手早く着替えた。着替えながらちらりとアヤメに目をやると、並んだロッカーや壁にかけられた古い振り子時計を眺めている。目に入るもの全てを不思議そうに見つめるアヤメを見て、こんなことなら普通にこの建物内を歩き回るべきだっただろうかと少し後悔した。
「あれは、なに?」
着替えを終えてアヤメに近づくと、振り子時計を指差してレイに尋ねる。
「時計っていう時間を測る道具。時計には色んな形があって、あれは振り子時計って呼ばれてる。ゆらゆら揺れて時間を数えるんだ」
「ふうん」と答えたアヤメの大きな黒い瞳は、行ったり来たりする振り子を捉えて共に揺れていた。九時半の辺りを示す時計を見て、レイはその読み方も教えようかと思ったが結局やめた。こういうことは、これから行く施設の中で嫌というほど叩き込まれる。
黒のピタッとしたノースリーブと、反対に緩めの黒いズボンを身につけたレイは未だ瞳を揺らすアヤメを抱えた。屋内は空調で適温に調整されているとはいえ、この薄着では流石に冷える。だがこの後すぐに動くことを考えれば、上着を着るのは面倒だった。外気にさらされた肩にアヤメの手からの温もりが直に伝わる。
「トレーニング、何するの?」
「まずは身体をほぐす」
アヤメを抱えたレイがトレーニングルームに入ると、中にいた人たちは怪訝そうな顔をした。しかしレイは気にもとめない。
「ほぐす?」
徐々に環境に慣れてきたのか、アヤメはレイが話すこと、瞳に映るもの全てにハテナを浮かべる。
「身体をゆっくり動かして伸ばすってこと。怪我をしないように」
しかしレイは、アヤメの疑問に一つひとつ丁寧に答えた。それからアヤメを床に下ろして実際に動いて見せる。するとアヤメは大きくて邪魔なスリッパを脱ぎ捨てレイの動きを真似た。
「身体がほぐれたら、今日は腕を鍛える」
一通り身体をほぐしてから、二人は部屋の一角に置かれた幾つかのダンベルに近づく。レイは十キログラムと書かれたその鉄の塊を色々な方法で持ち上げた。
「アヤメも、やる」
するとそれを見ていたアヤメも鉄の塊の一つに手を伸ばした。三と書かれた小さな物だったが、アヤメには持ち上げることができなかった。目をぎゅっと閉じ、眉間に皺を寄せて力を込めるアヤメの姿と、それでもびくともしない鉄の塊の様子にレイはふっと笑みを零した。
「もう少し大きくなったらアヤメにもできる」
それから不満そうなアヤメの顔に声をかければ、アヤメは小さく頷いた。
ひとしきり動いたレイは、鉄の塊を元あった場所に戻して首に纏わりつく金の髪を髪留めで器用にまとめる。晒された首筋には汗が滲み、キラキラと光を反射していた。
「次は、何するの?」
「鬼と戦う練習」
そう言って部屋の隅に置かれた棚に近づく。その棚は厳重に施錠されていたが、レイは慣れた手つきで解錠する。中から大型の銃とナイフ、そしてベルト型のホルダーとイヤホンを取り出すと扉を一つ
「あれは、なに?」
「練習用の的。中は干草とか布とか色々詰まってる」
「あれと、戦うの?」
「そう。本当は、俺みたいな戌たちは対人戦で動く物を相手に練習した方がいいんだけど、生憎俺と手合わせしてくれる人は少ないからね。これは最早、俺専用の練習」
「誰も、一緒に練習してくれないの、なんで?」
「うーん、俺がみんなと少し違うから、かな」
レイは初めてアヤメの質問にあやふやな回答をした。アヤメの顔にはまだハテナが浮かんでいたがそれ以上は何も言わない。代わりにレイは銃とナイフを手の中でクルクルと器用に回すと「危ないからここにいてね」と声を掛けて部屋の真ん中まで移動した。
レイは二、三度、背伸びする。それからクルクルと回していたそれらを握りなおす。すると銃は淡く白い光に包まれて
『訓練用銃のユーザー認証を完了。銃をアンロックします』
聞き慣れた音声をレイの耳に届けた。
「それじゃあアヤメ、始めるよ。少し大きい音がするから、怖かったら言って」
部屋の隅のアヤメに向かって声をかけたレイは、返事を待たずに目を閉じて集中した。深く息を吸って、吐く。もう一度吸って、そのままピタリと呼吸を止める。
床を強く蹴った。
ダンッと重たい音がする。レイは高く飛び上がって、一番高い位置にある布の塊にナイフを刺した。すると布の塊は大きく揺れ始めて、つられるように他の塊も動き始める。
レイは重力に従い床に足を付けると、膝を柔らかく使って衝撃を逃しながらも強く踏み込み身体を捻った。向きを変え、ナイフが刺さったままの揺れ動く塊に銃口を向ける。
『道標を確認。カラー グリーン。命中します』
引き金を引く。タァンと乾いた音がして、ベシャリと湿った音がした。布の塊が訓練用の弾丸に染め上げられて鮮やかな橙に染まる。
染まった布を確認すると、レイは素早くもう一度跳ねた。ナイフを抜き取り、すぐさま近くの布に刺しなおす。流れるようにまた、銃口をナイフに向けると引き金を引いた。繰り返すほどに部屋の中に橙が増えていく。
『人間離れしている』と呼べるほどではないが、それは十分すぎるほどに強かった。さらに長い手足が素早く、そして的確に飛び交う様は美しい。最後の一つにナイフが深く突き立てられ、放たれ弾丸によって染まった。
「はあ、はっ」
揺れる布の塊が鳴らす、ぎっぎっという音が響く空間にレイの呼吸の音が響いた。塊の揺れは次第に小さくなり軋む音は薄まっていく。比例するように、レイの呼吸も静かになった。
「どう、だった?」
振り返ってレイはアヤメに尋ねた。綺麗なラインを描く顎から、ぽたりと一雫の汗が滴る。アヤメは大きな瞳をさらに見開き、じっとレイを見つめていた。
「ごめん、怖かった?」
銃とナイフをホルダーにしまってから、レイはアヤメに近づく。アヤメはまばたきすらも忘れたように、黒い瞳を真っ直ぐにレイに向けながら首を横に振った。
「すごい…。すごく、きれい。おどってた、みたい」
「はは、よかった、ありがとう」
ようやく思い出したように、アヤメは瞬きした。
「ちょっと休憩」
そう言うと、レイはアヤメの隣に寝そべり四肢を投げ出す。多少は落ち着いたものの、レイの呼吸は自分でも驚くほどに上がっている。
「レイ、疲れた?大丈夫?」
「うん。大丈夫」
一度投げ出された身体は、もう一度起きあがることをひどく嫌がるようだった。
「なんか、気になること、あった?」
ただぼんやりと横になっていては退屈だろうからと、レイはアヤメに質問をした。
「あった」
「なに?」
「鬼は大きい。なのにどうして、そんなに小さいので、戦うの?」
アヤメはレイの腰に刺されたナイフを見ていた。レイは意外な質問に少し驚く。
「これは別に、攻撃するための物じゃないからね」
「じゃあ、なんのため?」
黒い瞳をナイフに向けて、アヤメの首が捻られる。
「狙いを定めるため。薬を飲んで戦う戌は、急に身体の動きが変化するから狙いを定めるのが苦手なんだ。でもこのナイフを刺しておけば、弾は勝手にナイフの方に飛んでいく。勿論、補正をしてくれるだけだから、全く別の方向を向いてたら当たらないけど」
「それ、すごいやつ、なんだ」
「まあ、便利なものではある。他にもこのナイフは、刺さってる鬼が生きてるのか、死んでるのかも教えてく…いたっ」
興味の視線を真っ直ぐに向けてくれるアヤメへ丁寧に説明していたレイの脇腹に、突然軍服のブーツが入った。
「そんなに強くは蹴ってないだろ」
ブーツの持ち主である累は、軽い蹴りを無駄に痛がるレイを見下ろして言う。
「子ども相手だからって、外部の人間にペラペラ喋るな。だいたい昨日身体をぶっ壊したばっかりの奴が、何を激しく動いてやがる」
「アヤメが興味あるみたいだったから、つい。あと俺は、薬を止められた覚えはあるが、動くことを止められた覚えはない」
レイは言いながら、漸くよいしょと身体を起こした。
「止めなくても普通はやらないもんだ。そもそも思うようにう動かなかっただろ?」
「まあ、重かった。それより、ここになんか用?」
首を回し、パキと小さな音を立ててレイが訊くと、累は白い何かをレイに向かって投げて寄越した。レイは慌てて受け止める。
「治す方の薬を出すと言ったが、渡すのを忘れていた。食後に一錠ずつ飲めよ」
「んー」
「それからその子の食事と一緒にお前の食事も出すよう言ってあるから、ちゃんと一緒に食えよな」
累は心底面倒臭い顔をしたレイを見なかったことにして、アヤメの方に向き直るとしゃがみ込んで視線を合わせる。
「アヤメちゃん、レイが戦ってるの見ておもしろかったか?」
「うん」
「そっか」
累は大きな手をアヤメの頭に乗せた。アヤメはくすぐったそうに目を細めた。
「なあ累、手合わせする?」
「阿呆。俺とお前は戦い方も違うし、身体がおかしい奴を蹂躙しても楽しくない」
アヤメから目を離した途端、冷ややかな目をして累は言う。レイはつまらない顔をして「冷たい奴」とこぼした。
「あ、そうだ。お前、ここで髪を切れる奴知らない?アヤメの髪を切ってやりたい」
「本業じゃなくてもよけりゃ、いるにはいる。後で頼んどいてやるよ」
「よろしく」
レイはそう言うと、また身体をドサリと倒した。
「ねえ、累は、どうやって戦うの?レイみたいに、おどる?」
今度はしばらく二人の会話を静かに眺めていたアヤメが、ぽつりと言葉を落とした。
「踊り?」
「アヤメはさっきの俺が、踊ってるように見えたんだとさ」
累は「へぇ」と呟いた。それから
「よし、じゃあ今度は俺の戦い方を見せてやるよ」
そう言って累は肩や腰をぐいっと伸ばした。
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