第7話 犬は花を腕に抱える
窓から差し込む光でレイは目を覚ました。東を向いた窓が一つのこの部屋は、この時間にもっとも眩しく日が当たる。その光に少し目を細めながら起き上がるレイは上半身に何も身につけておらず、朝日に照らされる金の髪と白い素肌は白く溶けてしまいそうだった。
少し手狭な部屋の中には今しがた起き上がったベッド以外に物はほとんどなくて、酷く
本部に程近い場所にあるここは、レイの自室だった。レイが生まれるよりも前に建てられた二階建てアパートの一室は快適と言い難かったが、ここで眠るだけなのでレイはあまり気にしていない。さらに言えば昨日のように警報が鳴ると、与えられた専用の端末を通じて呼び出されることもある。そうなると本部に近い方がいい。
歩きながら身につけている数少ない衣服を脱ぎ捨てたレイは、未だ眠りの淵にいるように霞んだ意識を取り戻すために頭からシャワーを浴びた。手早く身体を洗って水が滴らない程度に髪を乾かす。コップに注いだ水とエネルギー補給用のゼリーを流し込んでから軍服を着ると、本部に向かって部屋を後にした。
本部に着いたレイはまず累の部屋に向かう。レイと同様、周辺に自宅を持っている累だが、そちらにはほとんど帰らないので今訪ねてもいるはずだ。無駄な移動をしなくて済むので、レイも本部に自室が在れば間違いなくそうするだろう。
「いるか?」
レイは部屋の前にたどり着くと、ノックもせずにまたドアを開けた。それから今日は言われる前に、と既に開けたドアを二度叩く。
「順序が逆だ」
「すまん」
「心の無い謝罪はいらん」
「わるいな」
昨日と同じように、丸いに腰掛ける。
「今日はなんのようだ。体調不良か?」
「いや、べつに」
レイはこの部屋を頻繁に訪ねてくるが、そのほとんどに意味はない。累以外に親しいと言える人がいないレイは、暇つぶしがてらよくここに来るのだ。
「飯は?」
「食べた」
返事を聴いたが納得していないような顔でレイを眺めた累は、奥からおにぎりを一つ取り出すとレイに投げて寄越す。要らないと口を開こうとしたが累の有無を言わさない目線に負けて、言葉を吐く代わりに米を飲み込んだ。
「来たついでに話すけど、やっぱ内臓の具合が悪い。あの薬は肉体を強めて脳のリミッターを外すためのものだ。中身はそのままなんだから、負荷がかかって当然だろうな」
話しながら紙を差し出したところを見るに、今日もレイが訪ねてくるがのは予想済みだったようだ。書かれた内容をレイは眺める。並んだ数字のそれぞれが何を意味するのかわからなかったが、正常値と書かれた値から外れたものが幾つかあるのはわかった。
「これは後で名取さんのとこにも説明に行く。あと治療用の薬を出すから飯をちゃんと食って飲めよ」
「んー」
これで暫く任務に出されないことが確定だな、とレイは他人事のように聞いていた。それからすぐに話題を変えた。
「そういえば、昨日のあの警報はどうなったか知ってる?」
「ああ、赤が一体出たらしい。すぐに討伐されたって話だよ」
「ふうん」
話ながらおにぎりを食べすすめ、ようやく全てを飲み込んだ。レイは包みを部屋の隅のゴミ箱に向かって投げる。中を舞った包みはぽこんと淵に当たって床に跳ねた。
「捨てろよ」
「わかってる」
「そろそろあの子も起きるだろ。行ってやったらどうだ?」
「そのつもり」
「俺以外にも懐いてくれて助かった」
レイは包みを拾いあげて捨てなおす。
「お前にもアヤメにも、懐いたつもりはない」
「どうだかな」
ははっと笑ってから、累は「行ってやれ、あの子が待ってる」とまた背中を押した。レイは「おう」と同意する。
「お前、アヤメがいつごろ施設に送られるか知ってる?」
一度ドアノブに手をかけてから、思い出したように振り返るとレイは質問した。
「俺も詳しくは知らんが検査結果は悪くないみたいだから、一週間後ってところだろうな。身元のデータも見つからないままで、鬼街出身ってことで確定したみたいだ」
「そっか」
それだけ言うと、レイはドアに向き直る。
「俺、明日からいないけど、ちゃんとやれよ」
出て行こうとするレイの背中に累は声をかけた。『何を』とは具体的には言わなかったが、自分自身のこととアヤメの面倒のことだろうとレイは容易に察する。「わかってる」と答えながらドアを開けて、あと数日でいなくなることを思いながらアヤメの元に向かった。
ドアの前で今日も丁寧にノックする。昨日はなかった返事が部屋の中から聞こえたが、その声はアヤメのものではない。
開けたドアの先でアヤメはベッドに腰掛けていた。その目の前にはテーブルが準備され、筧が丁寧に食事を並べている。器に盛られた食べ物たちは、昨日よりもいくらか形があるものが多いように見えた。
「おはよう、アヤメ」
「お、はよう」
レイが声を掛ければアヤメはすぐに挨拶を返す。その様子を筧は静かに見つめていた。
「ご飯、美味しそうだね」
「うん」
やはりアヤメは筧に対してはあまり口をきかないのだろう。二人の間に流れる空気にどこかぎこちなさがあるのをレイは感じた。
「たくさん食べるといい」
その空気の中に、レイは自分のことを棚に上げて言葉を落とした。アヤメはこくりと頷くと箸に小さな手を伸ばす。気を遣ってスプーンも置かれていたにも関わらずお箸を手に取り拙いながらも使いこなす様を見れば、アヤメが誰かにそれを教わったのがありありとわかっか。これもきっとジジという奴なのだろうとレイは思う。
「筧さん、今日この後のアヤメの予定は?」
今度は筧の方に向かってレイは声をかけた。
「特にありません。問題は記憶だけで、身体に大きな異常はありませんから。時間にきちんと食事を摂ってもらうだけで大丈夫です」
「なら、部屋の外に連れ出しても?」
「かまいません。ただこの本部の外に行くのは控えるようにと言われてます。身元もはっきりしない子ですので」
「わかった。それから、俺が暫くアヤメと一緒にいるから、筧さんは離れるなら離れてもらってもいいよ」
筧は少し迷ったようだったが、持っていた書類を抱え直した。
「名取様からも東さんにアヤメちゃんの面倒見を頼んであると伺っていますので、お言葉に甘えて私は席を外します。十二時には食事にしますので、それまでには一度戻って来てください」
そしてペコリと頭を下げて部屋を出る。短く無理やり束ねられた髪がぴこぴこと跳ねていた。それを見届けてから、レイはアヤメのベッドの淵に腰掛ける。
「アヤメ、うまい?」
レイと筧の会話の間も食べ続けていたアヤメはコクコクと頷いた。
「今日は何がしたい?」
そう問いかけると今度はきょとんとした顔でレイを見つめた。その顔を見て、この子は『何をしたい』の前に『何ができるか』がわからないのだと、自身の古い記憶を辿ったレイは気がつく。
「とりあえず、食べてしまうか」
だから話を切り換えて、レイはぽんぽんの頭をアヤメの頭を撫でた。するとアヤメはまた頷いて、静かに食事を再開する。美味しそうに黙々と食べるアヤメを見ていると、栄養補給としてしか捉えてなかった食事の概念がレイの中で少し変わりそうな気配がした。
「レイ、食べた」
待ちながら少しぼんやりしていたレイに、食事を終えたアヤメが声をかけた。並んだ食器は全てきれいに空になっている。
「よし、じゃあとりあえず散歩にでも行くか」
「うん」
そう言って部屋を出たはいいものの、正直目的地のアテはなかった。本部には、いや桃域全体を見ても面白いものや場所はほとんどない。アヤメの髪をなんとかしてやりたいとは思ったが、この建物内に髪を切れる人をレイは知らない。とりあえず、レイは天気もいいし昨日の窓まで行って外でも眺めるかと歩き出そうとした。
「レイは、いつも、何してるの?レイが行くとこ、行きたい」
すると目的地に迷っていることを察してか、アヤメはレイの袖を引くと言った。
「いつもか…。トレーニング、とか?」
「トレーニング?」
知らない言葉に首を傾げるアヤメを見ながら、自分の日々の生活はなんの面白みもないとれいは思う。
「トレーニングは、体を鍛えること。戦うための身体を作るんだ」
「じゃあ、トレーニング、行く」
「えーと、それ、何も面白くはないよ」
「いい」
それ以外の目的地候補は結局見当たらなかったので、とりあえずトレーニングルームに向かうことにした。アヤメが飽きたら帰るだけだ。
「よし、行くか。楽しくなかったら言えよ」
目的地を定めて歩き出す。背の高いレイは小さなアヤメに合わせてゆっくりと歩いた。しかしサイズの合わない大きなスリッパを履いたアヤメはパタパタと大きな音を立てるばかりでなかなか前に進まない。レイはひょいとアヤメを抱き上げた。そんな二人をすれ違う人々はちらちらと見つめていた。
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