第6話 鬼と人と海の向こう

 廊下の先にある窓の前にレイはいた。ここから見える景色は名取の部屋とは正反対で、人の住む街だ。今はまだ、あちらとこちらに大した差などないように見えるが、日が落ちるにつれその差は大きくなっていく。もうじき鬼の街は闇に包まれて、人の街だけが人工的な灯りに包まれるだろう。


 見えないままの太陽は傾き出したようで、見上げる厚い雲の色が徐々に濃くなり始めていた。


「そろそろいいかな」


小さな声で誰に言うわけでもなく呟いたレイは、静かに来た道を戻る。向かうのはアヤメがいるあの部屋だった。


 今度は丁寧にノックする。しかし暫く待っても返事はない。


「アヤメ、いる?」


極力静かに尋ねながら、少しだけドアを開いて中を覗いた。明かりのついていない部屋は薄暗い。


「なにしてるの?」


その暗く何も無い部屋の中にアヤメはいた。病院着を纏った小さな身体を目一杯伸ばし、大きなスリッパの上につま先を立て、窓の外を見つめている。


「外、見てた」


小さな声で答えるその体をレイは持ち上げた。レイはその軽さに少し驚く。


 抱えられたアヤメの顔は、随分と綺麗になっていた。乱雑に切られた髪の奥に覗く瞳は、一重ながらも吸い込まれそうなほどに大きくて、白い肌の上では長く濃いまつ毛が一層際立っていた。レイはふと、次は腕のある者にこの髪を整えて貰わなければなと思う。


「何か気になるものでも見えた?」

「こんなに、高いところ、はじめて」


十二階に位置する部屋から見下ろすビル群にアヤメは言った。下は暗く黒い闇ばかりが目立っている。


「怖い?」


アヤメは首を横に振った。


「少し、この部屋の外に出てみようか」


問いに返事は無かったが、合わさった視線を同意と捉えてアヤメを抱えたままで歩き出す。向かうのは、先ほどまで自身がいた場所だった。


「こっち窓の方が、おもしろいだろ」


たどり着いた窓の前で、アヤメを抱えたレイは言う。闇に包まれつつある外の世界では、人工的な灯りがまばらに光り始めていた。美しい夜景のように無数の光がひしめきあっているわけではないが、先ほどの真っ暗で色のない世界よりは幾らか面白いだろう。


「わ…」


アヤメは目を大きく開いてそれを見つめた。全てを吸い込んでしまいそうに見えた黒い瞳は、街の灯りを反射してキラキラと光っている。


 不意にアヤメは外の光に向かって手を伸ばした。しかし透明なガラスにぶつかって止まる。少し冷えた窓ガラスが、触れた指先を縁取るようにうっすらと白く曇った。レイは「寒い?」と尋ねたが、アヤメは何も言わなかった。


「さっきの部屋の窓から見える場所には、ほとんど何も住んでいない。でもこっちは違う」


「どう、して?」


ようやくアヤメの視線がレイを捉えた。レイはその向けられた視線をまっすぐに見つめ返しながら話を続ける。


「この光ってる場所には、俺たちみたいな鬼と戦う人たちが住んでいて、このずっと向こうの方には、戦わない普通の人たちがたくさん暮らしてる」


ここまで話たレイは一度言葉を区切ってアヤメの表情を伺う。アヤメは真っ直にレイの話を聴いていた。


「そしてあの部屋の窓から見える場所にはほとんど何も住んでいない。ただずっと奥に進めば鬼の住処にたどり着く。だから俺たちはここにいて、この光の先のもっと明るい場所まで鬼が行かないように、戦ってる」


「じゃあここが、さっき話してくれた、新しい、桃太郎の壁?」


レイは少し面食らった顔をした。あの長々とした話をアヤメは覚えていたらしい。


「そういうこと。この場所以外にもこういう場所が幾つかあって、それぞれに俺たちみたいな戦う人がいる。そしていつも鬼がここから先に行かないように、みんなで見張ってる」


アヤメはじっとレイの目を見て「ふうん」と小さく呟いた。

 日本は岡山と呼ばれた場所から鳥取と呼ばれた場所に、五の本部と十の支部を並べて築いた。この縦に連なる一帯こそが桃域と呼ばれている場所だ。このレイがいる第三本部には、八名の桃と三十名の申、四十二名の酉、四十名の戌がいる。


 人は随分と鬼の住処を南に押し戻した。だが、南の果ての様子はまだ未知数だ。


「レイ、髪もヘンだけど、目の色も、ヘンだね」


じっとレイを見つめていたアヤメが突然、レイの長い髪に触れた。どうやら興味がそちらに移ったらしい。


「まあ、たしかにヘン、だね」


レイは一瞬驚いた顔をしてからへにゃりと笑った。


「顔もみんなと、少し違う。初めて見た」

「はは、アヤメにとって、見たことないものはヘンなものか」


窓の外への興味が薄れたのを確認したレイは、アヤメを抱えたまま部屋に向かって歩き出す。踏み出すたびに揺れる長い髪と、明かりを反射する青緑の目を、アヤメは部屋にたどり着くとその時まで不思議そうに眺めていた。


 部屋にたどり着くと、レイはアヤメをそっとベッドに座らせる。部屋全体を明るく照らす白い光を嫌そうにするので、レイはベッド横につけられた小さなオレンジの明かりだけを灯してやった。


「きらきら、してる。きれい」


レイが腰掛けたアヤメに布団をかけようと屈めば、オレンジに照らされて揺れる髪にサラリと触れてアヤメが言った。


「ありがとう。それは嬉しい言葉だ」


ぽんとアヤメの頭を撫でて、レイは笑った。


「どうして、色、みんなとちがうの?」


頭に乗せられた手を素直に受け止めながら、アヤメは小さく首を傾げた。


「アヤメは、海を知ってる?」


そんなアヤメにレイは質問で返す。アヤメは少し視線を泳がせてから、首を横に振った。


「じゃあ、川は?」


今度はこくりと頷く。


「川の先に、海があるんだ。海は果てが見えないほど向こうまで水に覆われた世界で、その海を渡って、ずっとずっと先に行くと、俺によく似た顔をしてる人たちが住んでる場所に着く」


アヤメは「ふうん」と呟いて、またまじまじとレイを見る。


「じゃあ、レイは、そこから来たの?」

「いや。俺はここで生まれたよ」


そこまで言ってからレイはベッドの端に腰掛ける。スプリングが深く沈んで、ぎいっと鳴いた。


「でも俺の母親は、海の向こうから来た。だから俺はここで生まれたけど、半分は海の向こうの血が流れてる。そのせいで見た目が違うんだ」


アヤメは「半分…」と、レイの言葉の一部を繰り返した。


「今度はアヤメの話を教えてよ。俺が助ける前はどこにいたのか、何をしてたのか、とかさ」


そう問いかけると少し考える様子を見せてから、アヤメはポツリポツリと話し始めた。


「アヤメは、ここよりも、ボロボロの家にいた」

「うん」

「夜は暗くて、寒かった」

「つらかった?」

「ううん。いつもジジと、一緒だった、から」

「ジジ?」


祖父だろうかと、不思議な前にレイは首を傾げる。それからあの時アヤメ以外に人はいなかった気がするが、助け損ねたのだろうか、と不安を感じた。そんなレイをよそに、アヤメは言葉を続けようとする。しかし


「ジジはね、えっと、ジジは…」


そこでアヤメの口がはたと止まった。


「えっと…ジジは、なん、だっけ…?」


鬼に襲われたことで少し記憶が混乱しているのか、眉根をきゅっと寄せて不安そうに瞳を揺らす。


「少し、疲れたのかもね。いっぱい食べて、たくさん休めばまた思い出す」


レイは優しく肩を撫でた。


「でも、ジジはアヤメと、ずっと一緒にいたの」

「じゃあいつか、また思い出せる。わからないことは明日にでも考えればいい。すぐに思い出す必要はない。だから今日はもう、眠ろうか」


未だどこか不安そうにするアヤメをそっと寝かせて、レイはその細い肩に毛布を掛けた。それから白い額を撫でながら「おやすみ」と優しく声をかける。その時だった。


 ビービーという大きな警報音が建物内に響く。続いて


『第三本部管轄区域内に鬼の侵入を確認。非番の戦闘員は緊急要請に備えてください。非戦闘員は有事に備えてください。繰り返します…』


と音声が流れはじめた。驚いたアヤメが強張った表情でレイのシャツを掴む。


「な、に…?」


音声が繰り返される警報音と音声にアヤメの手に力が入る。レイはそんなアヤメの手を優しく包んだ。


「大丈夫。さっき言ってたいつもは鬼も人もいない場所に鬼が入ってきただけだよ。桃太郎とその仲間たちがすぐになんとかするから、大丈夫」


優しく声をかけながら肩を撫でる。


「じゃあレイも、戌だから、戦いに、行っちゃう?」

「うーん、俺はよっぽどのことが無い限り行かないよ」


桃をはじめとする者たちは、交代で戦闘や警備にあたっている。相当なことにならなければ、非番のレイが呼ばれることはない。


「それに俺あの怖いお姉さんに、名取さんにちょこっとだけ怒られたんだよね。だからたぶん呼ばれないし、行けないよ」


「レイ、怒られたの?」


鳴り響く警報に、未だ不安そうな顔をしながらもアヤメは訊いた。


「うん、まあ、ちょっとね」


少しバツが悪そうな顔をしてレイは言う。ちょうどその時、警報音が鳴り止んだ。人員も集まり、討伐の目処が立ったのだろう。


「ちゃんと、謝った?」


突然静かになった部屋の中に、アヤメは不意の言葉を落とした。予想外だった言葉にレイは必死に返事を探す。


「まあ、えっと、一応?」


しかし大した答えはでなかった。


「ケンカしたら、謝らないとダメだって、ジジが言ってた」

「ジジのこと、思い出した?」


訊いてみたが、アヤメは首を横に振った。


「顔は、わかんない。でもそうやって、ジジが言ってたのは、覚えてる」

「じゃあきっと大丈夫だ。いつかちゃんと、全部思い出せる」


レイはそう言って、もう一度アヤメを寝かせると布団を掛け直す。身体を優しく叩きながら眠るまで側で見守った。眠りに落ちたアヤメを確認してから明かりを消すと部屋を出る。


「あー、カケヒさん、だっけ?あの子のことでちょっといい、ですか?」


 するとちょうど出会った彼女にレイは声をかけた。短い髪は解かれていて、結ばれていた跡だけがわずかに残っている。呼び止められた筧はわずかに怪訝そうな表情を浮かべながらも、立ち止まる。


「アヤメと少し、話してきた」

「ええ、瀬尾さんから伺ってます」

「少し、記憶が混乱してるみたいなんだけど、あれ大丈夫、ですか?」


レイが尋ねると、筧は手にしていた書類をパラパラと捲ってから答えた。


「先生はショックによる一時的なものだろうから、大きな問題はない、と。ただ、精神的なケアは必要ですね」

「そっか」


彼女はそれだけ答えるとすぐに立ち去ろうとした。が、少し迷ってからこの場に留まる。


「アヤメちゃんと、どんな話をされました?私や先生にはあまり話してくれなくて」


それから今度は筧の方から質問を投げかけた。


「俺も大した話はしてないよ。ボロボロで、暗くて寒い場所に住んでたこととか、ジジって奴と一緒に暮らしてたことを、そんなことを静かにポツポツ話してたくれた」

「ジジ?」


筧も先ほどのレイと同じような反応を示す。


「それが、ジジがどんな奴だったかは思い出せないらしいんだ。話したこととか一緒にいたことは覚えてるみたいだけど」

「なるほど。ありがとうございます」

「俺、名取さんにアヤメの面倒見るように言われたから、またなんかわかったら伝える」


それだけ伝えて、レイは「引き留めて悪かった」と挨拶もそこそこにその場を立ち去った。その背中に筧は少し戸惑いを含んだ「ありがとうございます」という感謝の言葉が投げられる。レイは振り返ることなくヒラヒラと手を振った。

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