第4話 出来損ないの犬と桃

 「アズマです」


木製の重厚な扉を二度たたいてからレイは声をかけた。


「どうぞ」


扉の奥から名取の声がする。レイは軽くネクタイを締め直すと扉を押した。右足を踏み出せば、毛足の長い絨毯にブーツが沈む。

 六畳ほどの狭い空間には、古めかしくて大きな執務用の机と椅子、木製のテーブルセットが置かれていた。そんな家具が立ち並ぶ小さな空間でも、不思議と狭さは感じない。きっと部屋の奥に広がる大きな窓のおかげだろう。しかし二人は綺麗な窓ガラスの外、背の低いビルが立ち並ぶあの世界にはほとんど人がいないことを知っている。あの奥に広がるのは、鬼の領域だ。


「座ってくれ」


名取はテーブルセットの椅子の一つを指差した。彼女の軍服のジャケットは壁のハンガーにかけられていて、余計な皺などない真っ白なパンツとワイシャツがレイの目に留まる。レイは少しだけ自身のよれたシャツを気にしたが、今更どうしようもないので言われた場所に腰を下ろす。古びた椅子がキシリと鳴いた。


 レイはここの家具たちは鬼襲来以前の物だと、名取が語っていたのを思い出す。「古い物は大切に扱わないとね。私たちの今の暮らしが、過去と現在の大きな犠牲の上にあることを忘れないためにも」確かあの時、名取は普段は鋭い瞳を少し伏せてそう言った気がする。


「私がレイを呼び出すのは、これで何度目か覚えてる?」


向かい合うように椅子に腰掛けて、名取は静かに訊いた。その声に、怒りの感情などは含まれてはいない。


「何度目、でしょうかね…」


ふざけているわけでもなく、本当に思い出せなくてレイは言った。それから、ははっと誤魔化すように乾いた笑みを落とす。名取はそんなレイをじっと見つめてから、静かに口を開いた。


「五度目だよ」


名取はレイから視線を逸らすとブーツに包まれた足を組んだ。静かな空間に、衣擦れの音だけが響く。


 ここは名取専用の空間だ。兵を取りまとめることも仕事の一つであるトウには、戦闘以外の雑務も多いためこうした執務室が与えられる。そして仕事が捗るようにと配慮されたこの空間は、ただただ静かだ。


「薬の誤った服用は負荷が大きい。いつか、取り返しのつかないことになる」


「…すみません」


静かに紡がれる言葉にはレイも返す言葉に詰まる。かろうじて返せたのは、ありきたりな五文字だけだった。


「これまで四度、叱責した。そしてその度に私も考えさせられたよ。レイの過剰摂取の責任は私にもあるということをね」


しかしこれ以上は、本当に言葉が出てこないようだった。


「私にもっと大きなトウとしての力があれば、レイを抑えられる。だが、それができないのは私が不出来だからだ」


それから名取はしっかりとレイに向き直って「すまないね」とこぼした。


「その言い方は狡いですよ。声を荒げて、怒られた方がずっといい」


レイは降参だと言わんばかりの苦い顔をした。


「それに、名取さんは悪くないです。悪いのは俺だけです。たぶん、俺の中に流れる異国の血が邪魔してるです」


 理由はわからない。わからないが、申、酉、戌の適正を持つ者は桃の言葉に強く従う。そして桃も彼らを護り、闘うために強く在ろうとする。その桃の姿が、申、酉、戌にさらなる忠誠心と力を与える。こうして現代の桃太郎たちは、互いが互いを鼓舞する事で力を得て戦ってきた。しかしレイにはそれが、うまく働かない。


「それに名取さんの声は、ちゃんと俺に作用してます。だから他の人の下につくよりは、ずっといい」


桃は、申、酉、戌と比べれば圧倒的に数は少ないが彼らと同様に複数人が存在する。そして、彼らの全てが人間だ。だから相性がある。苦手な相手に忠誠心は生まれないし、庇護欲が生まれるはずもない。だがこれほどにまで誰とも相性が合わない者はレイを除いては他にいなかった。


「レイ、新入隊員の入隊式には、きちんと出席してるのか?」

「はい、一応」


この桃域では適正のある者を全国から集め、一定期間の訓練を施した後に隊員として鬼退治に向かわせる。桃域に入れば手厚い補償を与えたれた。壁の東側でも食うに困るものは多い今、適正のある者の多くは喜んでこの桃域に来る。多くの桃に会えば、いつか合う相手に出会えるのではないかと、名取はレイに入隊式に出るように指示してきた。しかし


「それでもまだ、相性の良い桃には出会えないか…」

「まあ、そうですね」


レイは名取から目を逸らし、鬼街が広がる窓の外を見つめる。


「不出来なイヌですけど、もう少し飼っておいてもらえると助かります」


笑ったように口角を上げるレイだったが、あまり笑顔には見えなかった。


「飼うとは失礼だな。レイは共に闘う仲間だよ」

「ありがとう、ございます」


名取もレイにつられるようにして視線を窓の外に向けた。見つめた先の空はどんよりと曇っていた。


「俺、たぶん反抗期なんですよ」


レイは唐突な言葉を落とす。名取は「もうそんな歳でもないだろ」と笑った。笑ったあとで、少し深く古びた椅子に背中を預ける。ギッと乾いた音がした。


「名取さんの声を聴くと、やらなきゃいけないってちゃんと認識するんですよ。でもそれとは反対に、頭のどっかがいつも嫌がるんです。まるで反抗期の子どもみたいに。わかっていても、やりたくないみたいな、そんな感じです」


レイはようやく視線を名取の方に戻した。しかし名取はテーブルに乗せた自身の手を眺めていて、二人の視線がぶつかることはなかった。


「こういう言い方はよく無いけれど、レイと私たちは育ってきた環境が違う。学んできたことも違う。だから、合わない部分があるのも自然なことだと、私は思うよ」


ここまで口にしてからようやくレイの目を見つめる。


「ここ最近は兵の数も少しは増えた。情勢も好転こそしていないが、落ち着きつつはある。もしもレイがここ以外で生きていくことを望むなら、私は引き止めたりはしないよ」


そう言葉を紡ぐ名取を、レイは真っ直ぐに見つめていた。


「俺には戻る場所も、行きたいと思う場所もありませんよ。だからもう少し、名取さんのとこにいます」

「…はは、そうか。じゃあ次こそ、無茶な戦いはやめてくれ」

「了解です」


レイは首だけをコクリと曲げると頭を下げた。名取は優しく笑いつつ「頼んだよ」と呟く。どちらかの椅子が、小さな音できいと鳴いた。


「そう言えばあの子、アヤメはあの後どうだった?」


それから名取は思い出したように話題を変えた。


「今はベッドで休んでます。それから、いろいろ話を聞かせたんですけど、あの歳にしてはかなり知識が薄い気がしました。一時的に混乱してるだけって可能性もありますけど」


「いや、おそらく混乱だけが原因じゃない。こちらでも色々と調べたが身元が判明しなかった。それを見るに鬼街の子で間違いないんだろう。あっちじゃ生きていくのに精一杯でろくな教育なんてできやしないからな」


名取は一度立ち上がると、執務用の机の方に座り直した。重厚な椅子が音を立てる。


「じゃあこの後は施設に?」

「まあな」


レイの伏せた瞼を縁取る、金の睫毛が顔に影を落とした。


「体調等に問題がなければ、数週間のうちにそうなるだろう」


話す名取はやりかけの仕事でもあったのか、ペンを握って机の上の書面を睨み始めた。しかし一旦顔を上げるとこう付け足す。


「それまでは、あの子の面倒頼んだぞ」

「え、俺ですか」


伏せられていた瞼が大きく開いた。


「あたりまえだろ。レイが助けた子だし、あの子はレイに懐いてる。それにレイもあの子に懐いてる」


「いや、俺は別に懐いてないですし、俺だってやることが…」


レイはブツブツと反論した。しかし


「それに怖いお姉さんは、明後日から旧山口のまで遠征だし、過剰摂取したばかりの奴は連れていけなし、レイは私以外とは任務にいけないし…。と言うわけで私はあの子の面倒見はレイが適任だと思うんだ」


ピッとペンでレイを指しながら名取は言った。多分、根に持っている。それから「ね?」と有無を言わさない瞳をレイに向けた。


「あいあい…わかりましたよ」


仕方なし、と言った様子で金の美しい髪をガシガシとかき混ぜながらレイは答えた。


「もちろん基本的なことは医者に任せるつもりだ。レイはあの子の側にいてやるだけで良い」


今度は少し優しげな声で言う。


「…ちなみに遠征の期間ってどんなもんですか?」


「早ければ三日だ。今回は状況の確認だけだし、移動にはヘリを使うからな」


「…了解しましたよ」


レイが引き受けたのをしかと確認すると、名取はまた書類に目を戻した。その様子を見たレイは立ち上がり、扉に向かおうとする。しかしふと、足を止めた。


「そう言えば名取さんって俺の六つ上でしたよね?」

「去り際になんだ。しかも女性に歳を訊くなんて、失礼な奴だな」


そう言いながら唇を尖らせる名取の表情はこれまでで一番人間らしくて、少し失礼な言い方をすれば、ごく普通の女性のように見えた。


「はは、すみません。忘れてください」


ペコリと頭を下げて、レイは今度こそ扉に向かう。


「まあ、確かに私はレイや累の六つ上だが、それがどうかしたか?」


「とくに意味はないんですけどね。ふと、後五年で、俺は名取さんみたいにちゃんとした大人になれるのかなって思っただけです」


一瞬驚いたような顔を見せた名取は、はっと鼻で笑ってから


「ちゃんとした大人が何を意味するかは知らないが、レイもちゃんとした大人だよ。いやもしくは、レイも私も、ちゃんとして、はいないのかもな」


そう言った。その目は少し遠くを見つめていた。


「俺はどうかわかんないですけど、俺から見たら名取さんは、十分ちゃんとしてますよ」


レイはようやく扉に手をかけた。重い扉のドアを捻ると入ってきた時とは反対に扉をひく。部屋の中の空気が揺れた。


「忙しいところ長々とすみませんでした。薬の件も以後気をつけます。それからあの子のことも、きちんと面倒見ますんで」


そうやって一気に言葉を繋ぐと「失礼します」と口にしながら扉をくぐった。そのせいで「言いたいことを言うだけ言って出ていきやがって」という名取の恨みの言葉と「私からみればレイだって、十分すぎるくらいちゃんとやってるよ」という優しい声で紡がれた言葉は、レイの耳には届かなかった。



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