第6話 老法士
いつの間にやら眠っていた。
納屋の戸が開く音に驚いて、レーキは身を固くする。
老法士が立っていた。ランタンと籠を手に、彼女は近づいてくる。
「怪我をしているだろう? 薬と包帯をもってきたわ。手当させて頂戴」
レーキは黙ったまま、手負いの獣のように身構えて、彼女の身のこなしに不審がないかと睨みつけた。
「放っておくと化膿するよ」
レーキは答えない。やれやれ。老法士は鼻を鳴らして、何やら呪文を唱えた。
「!?」
体が動かない。自分の意志ではちょっとも身を動かせなくなった。金縛りだ。
老法士はレーキの縄を解いた。暴れかたの激しさを物語るように、手首にも足首にもすり傷ができている。水をかけて血を洗い流し、薬をつけて包帯を巻く。鎧を脱がせて、背中の傷にも薬を付けた。
「……ぐっ!?」
薬がしみる。口だけは動くようだ。このくらいで悲鳴を上げてなるものか、と、レーキは歯を食いしばる。
老法士は手際よく手当を済ますと、再びレーキの手と足に縄をかけた。
はい。おしまい。彼女が手のひらを払って言った途端に金縛りが解けた。
「……くそばばあっ!
噛みつくように半身を乗り出して、レーキは吠える。一つ残った紅玉色の
「暴れると傷口が開くよ」
レーキを見下ろす老法士。彼女の眸は蒼と翠が入り交じって、不思議な色。それがどこか面白がっているように微笑む。
「あたしの名はくそばばあじゃない。アカンサス・マーロンだ。マーロンとお呼び」
「うるせぇっ! くそばばあっ!」
口の悪いガキだね。マーロンは細い喉元を鳴らして笑う。
馬鹿にされているんだ。かっと頭に血が上る。せめて噛みつこうと、レーキは肩で床を這いずった。後ろ手にくくられた腕は自由にならない。我がことながら情けない格好。芋虫のようだと思った。
あと少し。マーロンの足に噛みつこうとした瞬間、突然、見えない壁にぶち当たった。動けない。壁は柔らかな何かで出来ているようで。めり込んだまま、行くも戻るもできなくなってしまった。
「くそっ! なんだよっ!?」
「……あんたが一番元気だね。それに、一番骨があるようだ」
無駄なあがきを鼻で笑われる。見えない壁は、もがけばもがくほど身に絡みついて
「はなせよっ! ばばあっ!!」
「おや。くそがとれたね。……あんた名前は?」
マーロンの口調はあくまでものんびりとしていて、圧倒的な優位を匂わせる。
不意をつく質問にレーキは老法士を仰いだ。はあ? いぶかしげな声とともに。
「あたしはちゃんと名乗ったよ。くそがき。あんたも名乗るのが礼儀さ」
名乗るまでは、くそがきと呼び続けるよ。こちらを見下ろして笑う老法士の顔に、そう書いてある気がする。
「……レーキ……ヴァーミリオン」
マーロンを睨みつけることをやめずに、レーキは
「そう。よい名だね。レーキ。大昔の法院長代理と同じ名だ」
法院長代理? 尋ね返す前にマーロンはにっこりと笑って
「飯時にまた来るよ」
「おいっ! まてっ!」
追いすがる。それも見えない壁に阻まれた。マーロンは振り返りもせずに、物置小屋を出ていった。
扉が閉まる。途端に見えない壁の気配が消えて、レーキは床へとつんのめった。
「……ってっ!」
窓のない物置小屋は、いっぺんに暗闇に覆われた。戸口の隙間からさす、微かな光だけが頼りだ。
ぶつけた顎をさすることもできず、レーキは細い明かりの線が示す戸口のほうに向かって悪態をついた。
戸口が開いた音で目を覚ます。反射的に身構えた。
暗闇の中で転がっていると、眠るより他にすることもない。何より体は傷ついて、休息を必要としている。
「飯をもってきてやったよ。レーキ」
マーロンだ。レーキは吠えかかる前の犬のように、表情を険しくした。
もう、辺りはすっかり夜になっているようだ。マーロンは、昼間は包帯を入れていた籠とランタンを
「腹が減ったろう?」
籠には布がかけられていたけれど。その下から、何とも食欲をそそるシチューの匂いがした。
ぐうーっ。匂いが鼻に届いたとたんに、盛大に腹の虫が空腹を訴える。
「おやおや。遅れてすまなかったね」
マーロンは笑って、レーキの側にしゃがみこんだ。正直すぎる腹の虫のせいで恥をかいた。レーキはぷいと顔を背ける。
「恥じることもないさ。食べ盛りなんだからね」
孫、子にでもするように、マーロンはレーキの頭を撫でた。その仕種があんまり自然で、レーキは一瞬自分が何をされたのかわからなかった。
「……さ、さわんなっ! ばばあっ……!」
顔が真っ赤になっているのが、自分でもわかった。
馬鹿にしやがってっ! 照れ臭さを憤りの表情に変えて、きっ、とマーロンを睨みつける。
「ほほほほ」
体ごと揺すってマーロンが笑う。口もとに笑みを残したまま、マーロンは腕の縄を
「……いいのかよ。外して。あんたを人質に取るかもしれねえぞ」
「犬みたいに這いつくばって飯を食いたくはないだろう? それともあたしに食べさせてもらいたかったのかい?」
どちらも嫌だ。むっとした表情のまま、シチューの入った皿と、この地方特有の薄くて固いパンを手渡される。
無言で食った。腹が減っていた。空腹は最高のスパイス。それでなくても、そのシチューは旨かった。
片手にスプーン、片手にパンを掴んだまま、猛烈な勢いで飯を食うレーキを、マーロンは微笑んで見守っている。
「たんとおたべ」
微笑みはやさしい。レーキは、じいさんのことを思い出した。じいさんの濁っていないほうの目は、今のマーロンと同じような表情をしていた。
「……」
止まってしまった手元に、どうしたのと声がする。
「……何でも、ねえ……」
不器用に答えて、レーキはシチューをすすった。
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