第2話 村の火
薪小屋が一杯になる前に、陽がすっかり傾いた。
レーキは、森の中ではもう物が見えない。
さいわいなことに、今夜、夜道は月に照らされていた。双子の兄弟月が、どちらも天に昇っている。
空腹で、もつれそうになる脚を
丘を越えて。もう直村が見えてくる。一休みしようと、レーキは足を止めた。
手に出来たまめが何度も潰れて、今ではすっかり固くなった手のひらをじっと見つめる。
──逃げ出してしまおうか。
そうだ。船乗りになろう。話に聞いた海に行って、こっそり船に忍び込み、船乗りに混じって働くのだ。
船に乗るうちに、
みんなが俺を罵らなくなる。優しく迎えてくれる。
養父母も、立派になって帰ってきた俺を見てうれしそうに微笑んで、俺を捨てた本当の両親ですら、俺を見て感激の涙を流す……
昔、よく夢見ていた
村の上空が不思議と明るい。否、むしろあれは赤だ。夕焼けの赤色。
すっかり陽も暮れたと言うのに、残照よりも明るく村が照らされている。
綺麗な色。胸がどきどきする。祭りの時みたいな気分だ。
ぼんやりと村を見つめて、レーキはそっと笑った。
祭りの最後はきまって夜。
村人はみな、広場に集まって、村祭りの飾りに使った竜人の像を火にくべる。
像を燃やすのは、祭りのために村へ降りてきてくれた竜人たちを、月におわします竜王様の所に返すためだ。
藁はぱちぱちと音を立て、火の粉を沢山飛ばしながらやがて燃えつき、それも夜半には火の気つきて、その一瞬前にひときわ大きく華々しい色で、巨大な炎が上がる。
養父母は広場に出かけていて、レーキは家の辺りからその火を見ていた。
彼にはご馳走も、お楽しみも何もなかった。
それでも、レーキは祭りが好きだった。
天空を舐めるように上がる
村中が何だかうきうきとして、まるで一時夢の国に迷い込んだみたいな。
誰もがみな浮かれ騒ぎ、誰もがみな優しくて、レーキの存在を
大きな
鳥人の大半は、彼らを創造したとされる赤竜王が象徴する火を祭り崇めている。
レーキも火は大切な、尊いものなのだと教えられてきた。
だからなのだろうか。こんなにも、あの赤い色に引き付けられるのは。
村が近づいてくるにつれて、一層空の赤みが増す。直にそれが、炎の赤であるとレーキにも分かった。
今は祭りの季節ではない。昼間聞いた嫌な噂が頭をよぎる。
レーキは
村が燃えている!
そりは打ち捨てた。身軽になった足が、飛ぶように走る。
微かな
村の入り口に建てられた
熱い。呼吸が速くなる。吸い込む度に、煙と熱の混じったきな臭い味がする。
祭りの時と少し似ている臭い。でも、人々の楽しそうな声は聞こえない。
広場には、大勢の見知った顔が倒れていた。誰もかもみな、血を流し
昼間、広場でこちらを見て逃げていった村人が、周りの者と同じような眼をしてレーキを見上げていた。今度は逃げられないだろう。彼には片足がなかった。
立ち
家まではもう少しかかる。泣きながらレーキは走った。
どうしていいか、何をするべきなのか。解らない。ただ走った。
「……ああっ!」
家は、すっかり炎に包まれていた。辺りに養父と養母の姿はない。二人とも無事に逃げたのだろうか。
だめだ……燃え上がる家を前にして、
こんな事になってしまえばいいと、願った訳じゃない。ただ、ここから逃げ出したかっただけ。
自分を
ばちんっと燃え尽きて、
なす術も無く後ずさった背に何かが当たって、レーキはそれを振り返った。
「……見つけたぞ」
見上げたその顔は、三軒先に住む大工だった。赤い炎に照らされて、恐怖と憎しみが入り混じったその顔には、血に飢えた者の狂気が
「見つけたぞぉぉぉぉ!!」
大工が不意に雄たけびを上げる。その声に弾かれるように、レーキは
振り返れば、一瞬遅れて手にした
「見つけた! あいつだ! あいつだ!」
口から泡を飛ばして大工が叫ぶ。言葉にもならない
その背に不吉な黒羽を負った少年。慎ましく暮らす山里に盗賊という大きな
それが本当に彼が成した事なのか、そんな事はどうでもよかった。やり場の無い怒りと憎しみに、ただ形を与えたいだけ。
「……はぁっ……あっ……はっ……!」
レーキは必死で逃げた。捕まればどうなるか。
どんなに言葉を尽くして、自分のせいでは無いと訴えても、彼らは許してなどくれない。
怒り狂った養父と同じだ。彼にはよく解っていた。
「……げほっ……ひっ……!」
必死で走れば走るほど、煙を吸い込んでしまう。
苦しくて苦しくて。とめどなく両の目から涙がこぼれる。
「……っ?!」
不意に、何かに足をとられた。
レーキはそのまま道に倒れこんだ。立ち上がろうともがく間に、追いついた大工の顔が、炎の赤い色を受けて少年を見下ろしていた。
大工は山刀を振りかざした。
一撃でこの忌まわしい少年を
いやだ。嫌だ。死にたくない。こんな風に死にたくない。こんな所で死にたくない。死にたくない! 死にたくない! 死にたくない!
「……止めろぉぉぉぉぉぉっ!!」
山刀が振り下ろされようと言う瞬間。
世界から音が消えた。
ただ自分の心臓が脈打つ音だけを感じて、鈍い切っ先が迫ってくるのを、不思議な心地で見つめていた。
不意に。右眼の奥で何かが弾けた。
大きく見開かれていた
燃え盛る炎が一瞬で大工を焼き尽くし、断末魔を食らい尽くし、鳥が羽ばたくようにゆらと震えて、そのまま辺りの火事場に紛れた。
「……!?」
恐怖に叫びだす
「……っ」
熱い。体中が熱い。心拍があんまり早くて息をする事すらままならない。
痛い。右眼では何も見えない。痛くて熱くて泣き出したいのに、何も感じない。
ばちっ! 家が爆ぜる音がレーキを正気づかせた。
ここにいちゃだめだ。逃げなくちゃ。逃げなくちゃ。
レーキはよろよろと立ち上がる。
奇跡的な事に、腕にも足にも傷は無い。ただ体中が熱くて、内側から燃え上がっているように熱くて、呼吸をする事さえ苦しい。
倒れてもなお燃え盛る家の
今を逃せば、直に空を飛べる若者が瓦礫を越えてこちらに来るだろう。
レーキは、村を囲む山に向かって走り出した。
追っ手を確かめるために振り返りもせず、何度も転びながら。
それでも、ただひたすら森の中を走り続けた。
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