六色の竜王が作った世界の端っこで「お試し版」
水野酒魚。
第1話 山の村の赤子
春も間近、今年初めての南風が吹いた日。
空はどこまでも白く淀んで、暖かな風さえ旅人の心を沸き立たせはしなかった。
裾の擦り切れたマントを着て、堅い杖をついた旅人は、薄汚れた雪の残る道を登って行く。
冬の間、
春を間近にした今でも、耳に遠く聞こえるのは気の早い春鳥の羽ばたきだけ。
旅人は新芽の兆す梢の先を見上げて、雨か
この峠を越えれば、目指す村まではもうすぐ。今日中にはたどり着けるはずだ。
そうすれば、この厄介な荷物ともおさらば出来る。
旅人は抱えていた籠を覗き込む。
その中には小さな赤子が、継ぎだらけの布にくるまって、静かに寝息を立てていた。
あんまり静かにしているので、旅人は時々赤子が死んでいるのでは無いかと思う。
死んでいてくれたとて構わないのだ。
旅人が頼まれたのは、ただこの赤子を遠く、遠く、彼の両親が知るはずもない土地の、知るはずのない誰かの元に捨ててくること。
それは、気味の悪い赤子だった。生まれたての癖に、髪も
一日の大半を眠ってばかりで、声を上げて泣いたとしても、他の赤子のように騒々しくはない。
そういえば、生まれて直ぐに死んでしまった一番小さい弟も、泣き声は弱々しかったな。こいつ、長生きは出来ないだろう。旅人は思う。
道の向こうに深い藪を見かける度、いっそこのまま捨ててしまおうか、と、そんな考えが脳裏によぎった。
だが赤子はとても小さくて、そのまま野の獣に喰わせてしまうのは、あまりにも不憫で。
旅人はぶつくさ文句を言いながら、それでも赤子を捨てずに、山奥の小さな村まで運んできたのだった。
その村には名前が無い。
『山奥の行き止まりの村』だとか『山の村』だとか呼ばれていて、村人たちも近隣の住人もそれで困りはしなかった。
公の地図上で、この辺りはグラナート国のテルム山地と名が付いている。
だが、ぐるりを山に囲まれたこの村の人々にとって、山はただ『山』だった。
北の山には水源がある。遠く霞にけぶる山々から清水が降りてきて、水は村を半分に分ける細い川になった。
川は村の南、丁度谷になった辺りから、さらに南を目指して下ってゆく。
海に行き着くまでに、さまざまな名で呼ばれるその川もまた、此処ではただ『川』と呼ばれている。
『川』の上を何かが飛んでいく。あれは背中に羽を持つ人々。鳥人。アーラ=ペンナだ。
アーラ=ペンナは、古代語で「鳥の羽根」を意味する。彼らは体に鳥類の特徴を備えた亜人種で、人間たちからは「
なかでも、ここ『山の村』に住む者は全てが鳥人であった。
彼らは信心深く、特に鳥人を生み出したとされる炎を司る
それ故に、水を象徴する黒い色は、赤竜王を崇める鳥人にとって、もっとも忌むべき色だ。
良い面を見れば信心深く、もう一面では迷信に陥りやすい。それが
旅人に背負われてきた赤子は、『川』の西側にある家の夫婦に貰われた。
僅かな養育費に目がくらんで、赤子を養子に貰うと言った、ペールという夫婦に子はない。二人の年の頃を見れば、これから生まれる可能性も低かった。
旅人は、厄介な荷物をおろせて清々したと言った顔で、ペール家を後にする。
「……こんなの貰っちまってどうするんだ? 気味の悪いガキだぜ」
夫が呟くと、妻はにぃっと歯をむき出して笑った。
「決まってるだろ。ちょいと育てて仕事をさせるのさ。育ててやった恩を返させるんだよ。おーよしよし」
赤子は見知らぬ場所でも、大きく泣くこともない。彼の背にある羽を見た妻は、自然に呪い除けの印をきった。
赤子もまた、背中に羽を負った鳥人で。
ただ、彼の羽は月のない夜と同じくらい『黒』かった。
赤子はペール夫妻によってレーキと名付けられる。特徴のない、鳥人にはよく有る名だった。
三歳になる前から、レーキは家の中の用事を言いつけられるようになり、五歳になる前に、畑仕事を手伝うように言われた。
ペール夫妻は飲んだくれの農民で、作物を売って作った金を、直ぐに酒と替えてしまう。
次第にレーキの仕事は増えていき、ペール夫妻は働かなくなっていく。
赤子は旅人の予想を裏切って、十一年生き延びた。
「薪小屋をいっぱいにするまでは飯抜きだからね、レーキ」
初秋のある日、養母に命じられた。この村の冬は寒い。冬の備えは欠かせない。
秋になって、薪小屋いっぱい薪を用意しても、春を迎える頃にはそれがほとんど空になってしまう。
「さっさとお行き。
目の前で、家の戸が大きな音を立てて閉められた。
否も応もないのだ。言いつけに背けば飯も食わせてもらえず、最後は養父に殴られる事になるのだから。
レーキは黙って、斧を載せた重い荷そりを納屋から引っ張り出した。村の周りを取り囲む森に入って、薪に出来る木を探すために。
ペール夫妻の家から森に入るためには、畑のそばを通る細い道を行かなければならない。
時刻は丁度、昼を過ぎた頃で、村人の多くが畑に出ていた。
近所に住む村人達は、背を覆うほど大きくなってきたレーキの羽の色を見る度、眉をひそめて嫌悪の混じった視線を向ける。
黒い羽。それとは対照的な白い膚。髪も膚も、色素を全て漆黒の羽に奪い取られてしまったかのように、レーキの顔は白かった。
それが一層、彼を不吉に見せているのかもしれなかった。
彼が通りかかると、村人たちはみな目をそらしささやきあう。『呪われた子が来たよ』と。
「……」
冬を前にして、収穫の終わった畑で遊んでいた子供たちも、レーキが通りかかると口を
子供たちは、大人たちの態度に簡単に感化されている。
かつて、彼らはこぞってレーキをいじめの的にしていた。
養父の代わりに畑に出ていると、よく石を投げつけられたものだ。
一度、口汚く罵る甲高い声と、あざ笑う視線に酷く腹を立てて、犯人をしたたか殴った事がある。その後で、しばらく立ち上がれなくなるほど養父に殴られたが、後悔はしていない。
だが。その時を境に、子供たちは誰も彼を表立って
どちらも苦痛には代わりなかった。
「……」
強くかみ締めていた唇が緩んで、微かに溜め息が吐き出される。
レーキは子供たちが楽しげに遊ぶ声を背中に聞いて、黙々とそりを引き続けた。
秋の森はとても穏やかで、ほんのりと湿った空気を吸い込むと、枯れた葉っぱの匂いがした。
この辺りは、赤く色づいて葉を落とす木ばかりが生えている。ちらりちらりと木漏れ日が、葉を落とした寂しげな梢の向こうで踊っていた。
地を這うツル草に、紫と赤が入り混じった小さな実が成っているのを見つけて、レーキはそれを拾っては口に運んだ。味はない。
腹いっぱいになるほどの量はない。ただひもじくて、何でもいいから食べたかった。
もう少し山の奥に分け入れば、甘い実をつける
薪にしやすい枯れた倒木を探しながら、レーキはそりを引いて山道を登って行った。
薪で一杯のそりは重い。力には自信があるといってもレーキは子供だ。歯を食いしばり、汗だくになって薪を運んだ。
そり一杯に薪を積んでも、一度では薪小屋の半分にも満たない。
二度、三度、終いには足取りをふらつかせながら薪を運ぶ。
今日はまだ何も食べていない。腹の虫が鳴く度、気力が萎えた。
レーキは同じ歳の子供に比べると、ずっと小柄だ。ろくろくものを食べさせてもらえないせいで、伸び盛りに入っても、体重はおろか身長も中々増えてゆかない。
家から森へと向かって空のそりを引きながら、レーキは細い溜め息をつく。
──夜は食わせてもらえるといいな……。
昨日は昼から飯抜きだった。目が気にくわないとといって、養父が腹を立てたせいだ。
『捨て子の癖に感謝をしらねぇ。かわいげのないガキだ。そんなだから実の親にも捨てられるんだ』
罵声と一緒に、拳が飛んでくる。
『お前は薄汚い捨て子なんだ』
幼い頃から、幾度と無く言われた言葉。その後は決まって、恩着せがましい台詞が続く。
『育ててもらって感謝しろ』と。
養父に殴られた頬は酷く痛んだが、もう泣く事はない。顔も心も、固く石になってしまえばいいと思った。傷つかぬように。
森に戻る途中で、小耳に挟む。近くの村に盗賊団が出たと。
数人の大人たちが集まって、深刻そうな顔で話し合っていた。隣を通りすぎた時、聞くとは無しに耳にした。
「……半分くらいは殺されたとさ。一切合切もっていかれたと」
「何ともおそろしいじゃないか……嫌だねぇ」
「この村も危ないかもしれん……何せアレが……」
「しっ……噂をすればだよ……」
立ち止まって、聞き耳を立てているレーキに気づいた一人が、鋭く合図する。
大人たちは顔をしかめて、呪い除けの手をすると、こそこそと散っていった。
──ふん。みんな盗賊にでもやられちまえばいい。
レーキは唇を噛んで空を仰ぐ。時刻は早夕刻に近い。急いで、養母の言いつけを済ませてしまわなければ。
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