中編

 うだるような灼熱の下北沢。予想していたことだが、彼女は時間通りに来なかった。


「ごめんなさい。1時間ぐらい遅れちゃうかも!」


 この手のやからは、1時間後になって『あと1時間遅れる』と平気で連絡を寄越すものだ。しかし想定内であれば腹も立たない。僕はピンキリの古着屋をうろうろしながら、適当な喫茶店を探した。


 そして、ちょうど手頃な喫茶店を見つけた頃、スマホのバイブレータがビリビリと通知を知らせる。


「ごめんなさい。あと1時間遅れそう! 本当にごめんなさい!」


 ほら見ろ、思った通りだ。少し意地悪なことに、僕は口を歪めて笑っていた。こんな人間は、僕のてのひらの上で自在に転がせるかもしれない。そんな浅はかな考えが、焼けたアスファルトに踊る陽炎かげろうのように、もやもやと頭に浮かんで来たのだ。


 それがただの傲慢ごうまんであり、甚だしい勘違いであることは、1時間後に来た彼女が証明してくれた。


「10年ぶり……かな? 君、垢抜けたねえ!」


 彼女はまるで変わっていなかった。日本人ならまず着ない、大きな花柄の黄色いワンピース。もちろんスカート丈は短い。おまけに胸元は大きくはだけていていて、豊満な膨らみが南国の果実を思わせた。


 だが目のやり場に困る身体とは裏腹に、厚化粧の下の顔色は青ざめている。彼女が母親と飼い犬に、同時に去られたことを思い出し、僕は頭の中の煩悩ぼんのうを振り払った。


「最近どう? パトリックとは話すことあるの?」


 故郷のニュージャージー州へと戻った旧友の名を、僕は自然と口にしていた。すると彼女はバツの悪そうな顔をして、まじまじとこう呟く。


「実は私、彼にはブロックされちゃったの」


 そこからは全て予想通りだった。

 彼女は想像通り、自由で奔放な人生を送っていたのだ。


 彼女の家庭は裕福だった。親の金で一人暮らしして来た彼女は、遊ぶ金が足りなくなるとキャバクラ嬢として働いた。父親は激怒したが、母親だけがそんな彼女を甘やかしてくれた。


「お母さんが居なくなった途端、やっぱり家賃と仕送りを打ち切られたの。あの男は冷血漢で、私のことなんかどうでも良いんだよ!」


 夕食の高級レストラン。外の蒸し暑さに、不思議と10年前のステーキハウスを思い出した。落ち着いた内装も、提供される料理も桁違いだが、今日の僕は支払いの心配などまるでない。


 涙ぐむ彼女に1ミリも同情出来ないまま、2人で店を後にする。もちろん僕のおごりだ。彼女も最初から、そのつもりだったろうから。


 そんなことより僕の頭の中では、果たして彼女にとって、母親はただの金蔓かねづるだったのか、それともそれはそれだったのか。そんな不毛な問いがぐるぐると、不法投棄されたゴミ山のようにうず高く積み上がっていた。


「ねえ、終電ももう無いしカラオケ行かない?」


 ホテルに行く気も起きなかったので、僕は彼女の提案に乗ることにした。


 その二次会は存外楽しかった。


 同い年の僕たち2人は、互いに良く知ったアニメソングを一晩中歌い続けた。


 彼女が酷い鬱病うつびょうになっていること。

 家族とは先月絶縁されたこと。

 パトロンの米軍人に別れられたこと。

 その前の男にストーカーされていること。


 そんなことをつらつら話されたが、僕を次のターゲットにしたいなどと、結局彼女は言わなかった。


「帰ろっか。何かスッキリしちゃった」


 いつの間にか始発の時間になっていた。彼女がお手洗いに行っている間に、僕は支援団体の連絡先を調べて、彼女のメッセージに送っておいた。


 駅の入口まで辿り着くと、地下へ続く階段から、ぬっとホームレスが姿を現した。どろどろに汗濡れたボロ服から、つんとした匂いが立ち上る。


「ちょっと、臭いんだけど!」


 彼女は冷徹に、ホームレスへそう吐き捨てた。花のような黄色いワンピースがヒラリと揺れる。ホームレスは振り返らなかった。


「明日は我が身」


 え、何か言った? と返す彼女に、僕は小さく微笑んだ。もう二度と会うことは無いだろう。そのふてぶてしさがあれば、君は何処でも生きていけるさ。


 それから何度か、彼女が会いたいと連絡を寄越したが、適当にあしらった。幸い彼女とは、SNSしか互いの連絡先を知らない。彼女の住んでいる場所も、どうやら神奈川らしいという程度だ。


 秋も深まって来た頃、僕は転職を機に、SNSを初めて引っ越すことにした。


「転職おめでとう。新しいSNSの連絡先、ぜひ教えて下さい」


 再び父親の援助を取り付けた彼女から、明るいスタンプと共にメッセージが届いた。ここでまた少し、心がきしんだ。

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