シュレディンガーの彼女

空良 明苓呼(別名めだか)

前編

『君死にたまふことなかれ』


 これをしたためた与謝野晶子ほど、清廉せいれんで重苦な祈りが僕には無かった。


 僕と彼女が出逢ったのは、ちょうど15年前。僕は世間知らずの大学生らしく、そこそこの知恵で手に入れた華やかな友人たちと、学生生活を謳歌おうかしていた。


 その中の1人に、アメリカからの留学生パトリックが居た。サブカルチャー好きが講じて、お近付きになったのだ。芸は身を助くとは良く言ったもので、彼とは日本人の学生よりも、仲が良かったかもしれない。


 僕たちは放課後、バイト代を握りしめてカラオケに行き、ファミレスで語り合い、互いの家で酒を呑んだりした。寄木細工で出来た絡繰箱からくりばこを、僕が貯金箱にしているのを見て、彼が「Coooolかっこいい!!!」と叫んだ声が耳に残っている。


 そんなパトリックのバースデー・パーティーに僕が招かれたのは、必然のことだった。


 うだる暑さの夏の夜。日本人がまず利用しないだろう、アメリカ式のステーキハウス。むせかえる熱気の中、彼は故郷の肉にこれでもかと想いをぶつけていた。


 どう考えても食べ切れないサイズに、目玉が飛び出しそうな値段。それなりに用意して来たつもりだったが、帰りの電車賃が頭をよぎる。


 額をつうと伝う汗の玉をタオルで拭うと、満面の笑みに目が合った。大きな向日葵のような笑顔。その人こそ、彼女だった。


 ひと回りは大きいアメリカ人たちに囲まれ、僕と彼女だけが日本人で、明らかに浮いていた。いや、僕の方が彼女よりも浮いていただろう。


 僕は出来るだけ清潔そうな半袖シャツにジーンズを着て来たが、そわそわして仕方がなかった。


 一方の彼女はホットパンツに、薄いキャミソール。胸の谷間はこれ見よがしに開いており、ちょっと見ないくらいには軽率な服装をしていた。まあそれは日本の話だ。こんな席に呼ばれたのだから、きっと帰国子女か何かなのだろう。


「彼女はこの間、僕が新宿駅で迷っていたら助けてくれたんだ」


 呆気ないほど単純な出逢いを、パトリックは身振り手振りで、感動的に語ってくれた。この時の彼の笑顔には白けたものだ。


「アメリカ人と友達になりたくて、語学学校に通っているの」


 彼女は高卒らしい。軽薄な服装とは対照的に、ピアスやワンポイントのネックレスは高級品に見えた。小さなオレンジ色の石がきらりと光る。


「シュレディンガーの猫? 何それ? 今の説明良く分からなかった〜」


 どうしてそんな話になったのか。誰かが確率の話をしたのかもしれない。そうだった気がする。


「猫を入れた箱の中で、青酸ガス……毒ガスが50%の確率で出るんだ。箱を開けるまで、猫は生きているし死んでいるという不思議な状態になるって話」


「う〜ん。やっぱり良く分からな〜い。パトリック、今晩教えて♪」


 端的に言おう。自分は不愉快だった。この淫乱で奔放そうな娘から、今すぐ離れたかった。


 自分が留学費用を稼ぐのにも苦労していたからだろうか。それとも、1年以上の付き合いであるパトリックの腕に、執拗しつように絡みつく図々しさに嫉妬したのだろうか。


 適当に盛り上がった一同は、最後にSNSの連絡先だけ交換して解散した。


 それから10年。彼女は想像通りの奔放さでSNSを駆け抜けた。夏になれば、あられもないビキニの写真をアップし、冬になれば南半球へと飛び、またビーチで脱ぐ。


 脱いでいなければ、彼女は四六時中、飼い犬の写真を投稿した。ぐりんとした目で愛らしさを振り撒くパピヨン犬は、実に彼女に似つかわしい。


 絡みつく男も目まぐるしく変わるが、いつも本物の米軍兵と付き合っているようだった。


 分かりやすい女だ。


 いつからだろう。彼女のSNS写真に、憐憫れんびんの眼差しを向けるようになったのは。大学を卒業して、そこそこの会社で疲弊ひへいする日々に、僕は生贄いけにえを求めていたのだろうか。


 勝手にさげすみ、あわれみ。彼女の投稿へ、しきりに『いいね』を押し続けた。写真の中でたのしそうに笑い続ける彼女への、せめてもの報いのように。


 転機が訪れたのは5年前の年末。


 母親が難病で倒れたとの投稿を後に、彼女の精神状態は、転がり落ちるように不安定になって行った。


 今思い返すと、彼女は本当の意味で孤独だったのだ。SNSのコメント欄には英語があふれ返り、気遣う日本語は自分だけ。この時初めて、僕は僕のして来た小さな報復を呪った。


「大丈夫ですか? お母様が少しでも良くなりますように」


 本心からだった……本心からだったが、その祈り虚しく、彼女の母親は急逝した。彼女と共に年を越えることも無く。そして後を追うように、彼女の飼い犬もこの世を去った。


「もう生きていけない」


 そんな彼女の投稿に、つい優しい言葉を返してしまったが、今となっては何と言ったのか思い出せない。放ったセンテンスが薄ぺらかったのではない。僕は今、酷く動揺しているのだ。


 その翌年の夏。


「いつも優しい言葉をありがとう。ねえ、久しぶりに会ってくれませんか?」


 個別に届いたメッセージに、少し迷ってからOKを返した。これが間違いの元であった。

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