第26話

 駅の改札では、ミサが重そうにトランクを引きずっている。逆に僕は手鞄一つと身軽なものだ。ミサは「じゃあ、ここで、私は北出口から、先輩は南出口から出て、2日後の9時にまたここに集合。これでいいですか?」と言った。

 僕は「問題ないよ。それよりトランク重そうだからタクシーまで運ぼうか?」と小柄なミサを気遣った。

「大丈夫です。私、もうちょっとしっかりしなきゃいけないなと思ってるんで」と言った。

「わかった。じゃあここで別れよう」

「はい。さようなら」

「おいおい、またねでいいだろう?」

 彼女は無表情に瞳の中に僕を写し「またね」とポツリと言って、トランクを一生懸命に抱えながら北出口の階段を降りて行った。


 僕はもしミサが別れを告げても、何も言わずそれを受け入れるつもりだ。それでもその時が来たら名残惜しい気持ちになるのだろう。

「さて・・・」と僕はあえて口にだして、南出口へと向かった。

 駅は僕が住んでいた頃とは違い、すっかり新しく無個性な箱型の物になっていた。南出口を出ると、ロータリーがあり、バスやタクシーが停まっている。僕は鍋底にでもいるかのような暑さに辟易とし、タクシーを使おうかと考えた。けれど思い直した. 特に目的地もないので、けだるそうに発車時刻を待っている市内循環バスへと乗り込んだ。そして鞄からスマホを取り出し、何度も聞いている曲をバスの小さな椅子に腰かけて聞いた。2曲くらい聞き終わると、ブーというくぐもった発車音とともに、ドアが閉まり、バスが低血圧の中年のようにノロノロと動き出した。窓からは直射日光が入ってくるが、景色を見たかったので、日よけのブラインドは閉めなかった。けれど客は僕の他、後部座席に一人だけだったので、僕一人日光に顔をしかめれば、それでよかった。

 バスが動き出し、駅を離れると懐かしい景色がちらほらと顔を出す。その景色は僕に特別な感慨はもたらさなかった。ただ通っていた高校の坂に差し掛かろうとした時、僕の鼓動は早くなり、とても消化できそうにない苦い思い出が、胸の底から湧いた。その時イヤホンからは、くるりの『東京』が流れていた。


 僕はたまらずバスを降りた。降りたくて降りた訳じゃない。出来れば降りたくなかった。でも降りなければいけなかった。

 高校時代は意地でも自転車で登っていた坂道を歩いて登る。今年の夏は残暑が厳しく、ジリジリと頭が焦げるようだ。高校時代よりも長く感じる坂道を、寂寥の思いで登っていく。すると何一つ変わっていない学校へと着いた。

 学校のグランドでは、部活動をしている学生が何人かいた。僕は見学の申請を行おうと思い、グランドを突っ切って校舎へ向かい歩いた。その途中で学生3人と顧問であろう教師がじゃれ合って、プロレス技を掛け合っているのが見えた。僕がそれを何気なしに見ていると、その教師が僕を不審な目でじっと見て来た。僕もつられてその教師の顔をまじまじと見た。

「おい、清水じゃないのか?」教師は僕の名前を呼んだ。

「えっ、松田?」

 僕は驚いた。彼は僕の高校の同級生の松田だった。松田は僕の方へ歩み寄って、ニコニコとしている。昔は熊のプーさんのような体型だったけれど、今は短髪でよく日焼けをし、筋肉隆々だ。けれど優しそうな目は昔のままで、松田と気付かせてくれた要因になった。

「すごい筋肉だな・・・」まず僕の口からはその言葉が出た。

「凄いだろ。大学の時にウエイトリフティングにはまってさ。それより久し振りだな。今日はどうしたんだ?」

「まあ、里帰りって奴かな?久し振りの母校だから、見学させてもらおうと思ってさ」

「そっか、そっか。しかし清水、もう少し連絡してくれよ。同窓会にも来ないし、確か東京に行ったんだよな?東京からは遠いけどさ」

 松田は見た目こそ変わったけれど、ゆっくりとした喋り方は変わっていなかった。おそらく人気のある教師になったに違いない。

「ごめんな。でも、ここにはもう家もないんだ。帰るのは腰が重くて」

「おばさんは?」

「再婚した」僕は笑って言った。

「そうなんだ」松田も笑って言って「綺麗な人だったもんな」と言った。

「今は岡山にいるよ。妹も同じ年に結婚して3人の子持ちだ」

「いやー、もう3人いるのか?凄いなー」松田は目を丸くさせ「そうしたらさ、今日はどこに泊まるんだ?泊まる所なかったら家来いよ。両親と婆ちゃんいるけど」と言った。

「いや、悪いよ。それにホテルもうとったからさ」と僕は言った。

「そっか」松田は解り易く残念な顔をし、そして「で、吉井にはもう会ったのか?」と言った。

「いや、まだ」と僕は答えた。

「お前ら高校の時、いつも一緒だったのに最近は連絡とっていないらしいな。吉井とはたまに会うんだけど、お前の事心配してるぜ。家すぐそこなんだから行ってやれよ。多分いるはずだからさ」

「そうだな・・・」

 吉井と会うのは5年ぶりだった。やはり会いたいなと純粋に思った。松田と別れ、吉井の文房具屋へと向かう事にした。

 吉井の自宅である文房具屋は、間口が狭く、商品が所狭しと並べられている。夏休み中のためか、店番には誰もいなく、代わりに小さなベルがあり、御用の方はベルを鳴らしてくださいと書かれた札が貼ってあった。僕はそのベルを鳴らした。店内に金属音が響き、奥から「はい、はい」と聞き覚えのある声が聞こえて来た。

 僕は少し緊張した。

「いらっしゃい」と現れたのは、間違いなく吉井だった。

「やあ」僕は手を挙げ、はにかみながら言った。

「あっ・・・」吉井は口をあんぐりと開けている。とても間抜けな顔だった。しかしその顔とは裏腹に頭は高速に回転しているようだった。

 吉井は真顔に戻り「清水・・・」と言った。

「久し振りだな」と僕は言った。

「本当に・・・、元気か?」と吉井は顔をほころばせた。僕はその表情に安心し「まあな、そっちは?」と笑顔で言った。

「ぼちぼちやってるよ。まあ・・・、話したい事は山ほどあるけど」そう言うと吉井は周りを見て、やや長めの髪を掻き毟り「行こうか」と言った。

 僕はポカンとし「どこに?」と聞いた。

「・・・川!釣りに行こう」吉井は明らかに今思いついたであろう事を言った。

「なんで?仕事は?」僕は急な事に笑いが出た。

「いいよ。今日くらい。せっかく友達が来てくれたんだから、一日くらい仕事休んでも、労働の女神は怒らないよ」

 僕は、まだ友達と言ってくれる吉井に有難さを感じた。

「奥さんは?」吉井が大学の時、学生結婚をした事をメールで知っていたので、吉井に聞いてみた。

「あー、半年前に別れた」吉井は気恥ずかしそうに言った。

「そっか」と僕は苦笑いをした。

 髪型くらいしか変わっていない吉井を見ると、5年なんて大した時間でもないように思うが、やはり話す言葉の端々に5年という長さがこびりついていた。僕は出来るだけ明るく「川へ行こう」と言った。

 吉井は車を出してくれた。ダイハツのタントカスタムだった。

「釣り道具は?」僕は助手席に乗り込むと吉井に聞いた。

「ないよ。だって釣りなんてやった事ないもん」吉井は当然のように言った。

「お前、無茶苦茶だな」僕は笑った。

「どうだ、高校の時を思い出さないか?」

「そうだな」

 高校の時は行き当たりばったりで、色々な事をしたように思う。でもいつの間にか、何かに遠慮し、できなくなってしまった。でも今だけは誰も咎める者などいない。何も気にする必要はない。吉井といるとそう思えた。

「なあ、松田も誘おうか、さっき学校であいつに会ったんだ」僕は言った。

「よっしゃ」と吉井は言った。

 殆ど悪乗りだった。

 吉井は学校のグランド脇へと車を停め、窓を開け、グランドの端にいる松田に「おーい、松田、釣りに行かないか?」と大声で叫んだ。するとそれに気付いた松田は大声で「仕事中だ!」と叫び返し、手を振った。僕と吉井は松田を挑発するように握り拳を作り、縦に振った。松田は何か言っていたが、遠くてよく聞こえなかった。バカとでも言っていたのだろう。

 途中、ホームセンターで車を停め、釣り道具を一式そろえ、それとついでにプラスチックのバットとゴムボール、フリスビー、花火なんかを買って河川敷へと向かった。

 川へと着くと早速、見様見真似で初めての釣りを始めた。川はあまり綺麗と言えず、所々ゴミが引っかかっていたり、白い泡が出来ていたりしたので、案の定中々魚は釣れず、いつの間にか僕らは野球を始めていた。

「次、カーブな」

 僕は、カーブの握りをし、セットポジションに入った。すると吉井は元ヤクルトのラミレスの物まねをした。

「なつかしい」僕は笑った。

 暫くして、遊び疲れた僕らは、自然とまた釣りへと戻った。

「なあ、なんで離婚したんだ?」僕はピクリともしない釣竿を川へ向けながら吉井に聞いた。

「うん?そうだな」吉井は懐からタバコを出し、僕にも一本渡し一息吸ってから「敢えて言うと、俺の浮気だ」と言った。

 僕は、タバコを咥えながら吉井を凝視した。

「それが全てじゃないけど、やっぱ、それが一番だろうな」

「あちゃー、それで今は彼女いるのか?」

「うん、いる・・・」

「へえー」

「高校の時、酒井サヤカっていただろ?」

「ああ、うん」

 篠崎の友達の明るい奴だった。

「そいつ・・・」

「本当か。酒井とか。驚いたよ」

「同窓会で再会してさ、流れでな」

「いいじゃないか。お似合いだと思うよ」

「ありがとう」と吉井は顔を赤らめた。相変わらずシャイな所がある。

「お前は?」

「東京で玉野と一緒に住んでいるよ。今回も玉野と一緒にこっちに来たんだ」

「へえ、そうなんだ。長いな」

「・・・まあな。ごめんな、あまり顔出さずに・・・」

「色々あったんだろ?」

「ああ・・・」

 吉井も言いにくい事を言ってくれたから、僕は全てを白状するつもりでいた。いや誰かに聞いて欲しかったのかもしれない。

「篠崎だろ?」吉井は言った。

 僕はギクリとした。言葉が胸に刺さって、声が出なくなった。

「やっぱり正解だったか・・・」吉井は晴れ晴れとした顔をした。そして「俺だってさ、色々と考えたよ。お前、高三の夏休み頃から急によそよそしくなっただろ?まあ原因は篠崎くらいだろうなって想像は着くだろ?」

「ああ・・・」

「好きだったんだろ?」吉井は僕の顔を覗きこんだ。

 僕は吉井の目を見て「そうだよ」と言った。

「告白しなかったのは、俺に気兼ねしての事か?」

「それもあるけど、それが全てじゃないよ」

「今でも好きなのか?」

「好きか、好きじゃないか、正直わからない。でも笑うだろうけど、今でも忘れられないんだ。自分でも嫌になる」

「人間てさ、人生で否応なく惹かれる人が1人か2人いると思うんだ。それはその人の性格、環境、人間関係なんて無視した、言ってしまえば理不尽な自然災害のようなものだ。それがお前にとっては篠崎だったんだよ」

 僕は黙った。

 僕はいつも、篠崎の印象的な物憂げな目を思いだす。僕は何度も何度もその目を思い出す。寝る前に思い出す。電車に乗っている時に思い出す。何の予定も無い雨の日に思い出す。彼女とセックスしている時にだって思いだす。

「会うか?」突然吉井は言った。

「いいよ。もういいんだ」

「本当にそう思えるのか?」

 僕は吉井の前でだけは真摯になろうと思った。だってそんな相手は人生で1人か2人くらいだ。

 僕は正直に「会ってみる」と言った。篠崎の事を忘れる事なんて出来ないだろう。

「それがいい。なんでだかわからないけど、お前らは会った方がいい。俺の魂が囁いている。酒井が、篠崎、今こっちに住んでるって言っていたんだ。連絡先知ってるから、電話してやる」

 そう言うと吉井はスマホを取り出し、すぐさま電話をかけた。僕は止めなかった。吉井は電話口で一言二言言うと、僕に電話を渡した。僕の手は震えていた。

「もしもし」僕の声は情けない事にかすれていた。

「清水君?」間違いなく篠崎の声だった。

「覚えている?」

「当たり前でしょ」

「そっか」

「今こっちにいるの?」

「ああ」

「私に何か用があるの?」

「会えないかな?」

「私に?」

「ああ・・・」

「へー、うれしいな」

 本当に嬉しいのかどうか、電話では測れなかった。

「明日時間あるかな?」

「そうね・・・。午後からなら」

 僕は約束だけして電話を切った。

 吉井はどうだったと僕の顔を覗き込んだ。

「ありがとう。明日会う事になった」

「よし」そう言って吉井は僕の肩を叩き、それ以上は何も言わなかった。

 吉井とはその後、飲みに行き、学生の頃よく行った尾道ラーメンの店へ行った。そして一時くらいに吉井と別れ、僕はビジネスホテルへ泊まった。ビジネスホテルのベッドで横になりながら、篠崎の事を考えた。でも篠崎に対する気持ちの中で、以前にはあった何かが消えていて、僕はそのせいでとても空虚な気持ちになった。不思議だった。そしてミサの事を考えた。 

 今何をしているのだろう・・・。

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