第24話
朝起きると、ベッドに篠崎はいなかった。どこかに出ていて、すぐに戻ってくると思った。そして昨日の夜の事を思い出した。篠崎の寝返りの度に聞こえる絹の擦れる音や、寝息などで、悶々と性的な妄想を何度もし、全く寝られなかった。僕はソファーから起き上がり、冷蔵庫へと向かった。その際見た篠崎はまるで自分の中の何かを大事に守るように、小さく屈んで寝ていた。
僕はそんな篠崎に性的興奮を覚えるのは、間違っている気がして、篠崎の布団を直し無理にビールを飲んで寝た。
シャワーを浴び、ドライヤーで髪を乾かし何だかんだしていると、チェックアウトの8時が迫って来た。僕は篠崎に電話を掛けた。電話に出ない。篠崎とは今日帰るのかどうかも話していなかった。篠崎の荷物は出しっ放しであったので、仕方なく部屋の延長をするためにロビーへと向かった。すると受付担当者に、すでに延長されていて、代金も支払われているという事を聞かされた。僕がそれはいつの事かと尋ねると、一時間前の事で、もし受付に僕が訪ねてくるようなら、夕方には帰るという事を伝えて欲しいと、篠崎に言われたそうだ。
篠崎はいつも思うようにはいかない。本当に風のような奴だ。僕は僕で受付に言付けをして先に帰ればいいのだろうが、何か篠崎を今日放って置くと、後悔しそうな気がして、仕方なく篠崎が戻るまで時間を潰す事にした。
テレビを付けるとワイドショーが始まった。見ても良かったけれど、あまりにもくだらなかったので、映画チャンネルがあったので、ゴッドファーザーを見た。寝心地のいいダブルサイズのベッドは篠崎の匂いがした。そのせいか結局ゴッドファーザーは内容の半分程しか頭に入らなかった。
スマホの時計は11時だった。何かを待つ時、時間の進み方が遅いように感じる。それを誰かが相対性理論だと言っていた。ただでさえ慣れない部屋で、一人きりなのだから、時間の潰し方に迷ってしまう。スマホをいじり、ネットで芸能人が熱愛!と書かれたゴシップ記事などを見て、いつも芸能人は熱愛だな。穏やかな恋愛や打算的な恋愛だってあるだろうにと、無駄な事を考えていると11時半になった。
僕は腹の減りを感じ、ルームサービスでカレーピラフを頼んで、赤いソファーに座って一人で食べた。まだ12時を回った所だ。映画チャンネルではゴッドファーザー2が始まっていた。
僕はテレビを消して、鞄から文庫本を取り出した。有島武郎の或る女だった。今の状況ではあまり頭に入ってこないだろうなと思っていて、手を出さなかったけれど、やる事が無くなったので、仕方なく読み進める事にした。やはり初めは雑念が頭を過り、何度も同じ行を読まないと話が入ってこなかった。けれど徐々に話が頭に入って来て、というより話に入って行くような感覚になり、時間から解き放たれた。
次に時計を見た時は、夕方4時になっていた。僕は暇つぶしに一度、本の持つ意味というものを考えてみた。そこで本を読みイメージする事と、過去の出来事を振り返る事に明確な違いが無いという事に気付いた。
映画だとそうはいかない。ゴッドファーザーを思い返してみると頭に浮かぶのは、あのアル・パチーノの顔だ。小説を読む行為は、自分の過去や未来の想像と、明確な違いが無いのだ。過去の出来事も妄想も変わらない。過ぎてしまえば、同化する。大事なのは、今に働く力なのでは無いだろうか。
篠崎はそういう考えで、今を生きているような気がした。けれどそんな事篠崎になってみないとわからなかった。
その時、部屋がノックされた。
僕はゆっくりドアへ向かった。
「清水君・・・」
篠崎はまた一日中歩いていたのか、汗を掻き頬は紅潮していた。そして何も言わず、ただ僕を物憂げな目で見つめた。
「一体どこに行ってたんだ。そろそろ目的を・・・」
篠崎は僕の言葉を遮るように、いきなり僕に抱き付いた。篠崎の汗とシャンプーの匂い、華奢でいて柔らかな躰、伝わる体温、僕は理性が遠のくのを感じ、篠崎の肩を掴み、躰を遠ざけた。
「いきなり何だよ」
「ごめんなさい。清水君の顔を見たら、体が勝手に・・・」
「なあ、何があったんだよ。話してくれよ」
僕は篠崎の小さな肩を揺すった。
「今日、この街でお祭りがあるの。それを一緒に見て欲しいの。それが私の最後のお願い。なんなら玉野さんには、私から謝ってもいいけど」
「そんな事いいから、この旅の理由は話してくれるんだろうな?」
「ええ、お祭りの後に」
一度シャワーを浴びさせて欲しいという事で、篠崎はシャワールームへと入っていった。僕はシャワーの音を聞きながら、赤いソファーで待った。荷物をまとめ、5時に二人でホテルを出た。
この街の祭りは、坂の上の見晴らしのいい神社で行われていた。提灯、屋台、浴衣姿の人。どこにでもあるような祭り。でも縁のない土地の小さな祭り。人々はみな顔なじみなのか、親密そうに喋っている。僕らは場違いなような気がした。
祭りの締めくくりとして、50発程の花火が神社の近くの河川敷から打ち上げられた。僕と篠崎は、神社の境内にある石のベンチに座ってそれを見た。花火が終わると、潮が引くように人々はいなくなった。後は屋台を解体する人達だけになった。
「夏が終わる」篠崎は呟いた。何となく、篠崎がそう呟いた瞬間に夏が終わったような気がした。
「ここは・・・」篠崎は雨どいから落ちる雨のようにポツポツと喋りだした。
「ここは、私の母の生まれ故郷なの。母の浮気が原因で私が小学校の頃に離婚して、それっきり会ってなかった母だけどね。父が断固として会わせないようにしたの。そんな母がこの前病気で亡くなって、遺品をこっそり、母の妹さんから貰ったの。その遺品は写真や日記で、特に日記は沢山あって、殆どがこの街での出来事で、一度ここに来て見たくなったの」
「そうだったのか・・・」
「そして、ここでひとつの答えを探そうと思ってね」
「何?」
「私、妊娠してるの」
僕は反射的に篠崎を見た。篠崎はチラリとだけ僕を見て、話を続けた。
「噂はあったみたいだから、もしかしたら清水君も知ってたんじゃない?」
「でも、吉井から嘘だって聞いたから・・・」
「うん・・・、吉井君には嘘言ったの。本当に吉井君には悪い事したって思ってるわ。清水君、こんな私が吉井君とよりを戻せると思う?」
「・・・、なんでそんな生き方をするんだよ」
僕は目頭が熱くなった。
「なんでだろうね」篠崎は「ただ、私はその時正しいと思う事をしてるだけなんだけどね。お腹の子の相手だって、初めは素敵な人だと思ったのよ。でも全然見る目が無かったわ。私、多分自分で思うより弱くて臆病で馬鹿なんだと思う。吉井君と付き合ったのだって、誰かに頼りたかっただけ。清水君にも頼って、色々迷惑かけた。一人じゃ怖かったの。最近本当に反省してばっかり」と自嘲気味に悲しげに笑った。
「これからどうするつもりなんだよ?」
そんな事を言いたい訳じゃなかった。ただ僕の中では言葉では表せない、複雑な感情が心を支配していて、月並みな言葉しか出てこなかった。
「私、この旅で色々な事を考えた。でね。さっきの花火が終わったら、何故か産もうと思っちゃったんだ」その覚悟に相反するように篠崎は明るく、軽く言った。
「子供の頃ってさ、夏が終わると寂しい気持ちになったでしょ?夏休みが終わるからかもしれないけど、あれって多分夏が終わって、命が枯れていくのを無意識に感じ取っているからだと思うの。でも季節は回っている。秋が来て、冬が来ても、春がちゃんと来る。それに慣れてしまうから成長すると寂しくなくなるのよ。それは大人になった証拠で、自分の夏の終わりを意味するんじゃないかな?だから次はこの子に回さなきゃいけないって思ったの。人の夏って思ったより短いものなのかもしれないね」そう言って篠崎は愛おしそうに自分のお腹を触った。そして僕の方を見て「ごめんなさい。迷惑かけました。清水君に着いてきてもらえて嬉しかった」とペコリとお辞儀をした。
僕は、これから学校はどうするんだとか、好きでもない奴の子を産む気なのかとか、言いたい事は沢山あった。けれどそんな事より、恐くもなければ、特別でもない、目の前にいる普通の弱い女の子を、今すぐに抱きしめられたらどんなに良い事だろうと思った。
実際はただ、ヒグラシの声と風が運んでくる火薬の微かな匂いの中、二人で石のベンチが冷えてしまうまで、残り僅かな夏の終わりを静かに感じていた。
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