第18話

 蝉が五月蝿い。自転車で誰もいない木漏れ日が揺れる坂道を登り切り、学校へと着いた。駐輪場では吹奏楽部の奏でるクラリネットの音や、金属バットの音、掛け声などが、四方から聞こえてくる。当たり前だけど、夏なんだなと思う。夏には活気の中に哀愁のようなものが紛れ込んでいる気がする。僕は薄い雲が広がる空を眺めた。流れる雲が刻々と過ぎる時間を感じさせた。そしてあと残り僅かな自分の青春の時間を惜しく思った。

 教室で僕を入れて9人の就職希望者と共に、礼の角度や言葉使いやマナーなどのくだらない面接訓練を行った。そしていくつかの職業体験を見せてもらう。ガソリンスタンド、食品工場、鉄鋼業などがある。夏休みの間、これらの企業で働き企業側が自分を気に入ってくれたら、そのまま就職する事も可能だそうだ。本当は目をつぶって選んでもいいのだが、ここは流石に親も友達もいるのだから相談してみるのがいいだろう。

「清水も就職するんだな」

 就職希望者の1人に、中学が同じ細川という色白の優男という表現がぴったりの奴が僕に話しかけてきた。

「細川も就職か、意外だよ」

 細川は確か中学の時、成績が良かったように思う。

「大学なんて馬鹿らしくて行ってられないよ。これ以上意味のない勉強なんてしてたら頭が悪くなる。それより本読んでた方がいい。為になるよ」

「本か。俺はたまに漫画読むくらいだな」

「出来れば活字の方がいい。漫画のように想像力を全て押し付けられる事ってあまり良い事じゃないからな。それより清水、俺、高校卒業して金貯めて起業しようと思うんだ。もし興味あったら連絡してくれよな」

「起業?そんな事簡単に出来るのか?」

「簡単じゃないよ。大変だと思う。けど努力はするつもりだよ。ただ俺の道はこの道だと思うんだ」

「自分の道か。それがあるといいな。俺にはわからないんだ。だから就職だって適当に決めようとしている」何故だか、細川には僕の気持ちを共感してくれそうな気質があった。僕は本音が言えた。

「今は可能性がいくつもあるから、逆に選べないんだと思うよ。その内にどんどんと自分に合うもの、合わないものが見えて来ると思うからさ。それまで悲観的にならず何でもやってみる事が大切なんじゃないかな」

 細川の言葉は的確だった。彼なら僕の事を本当に理解してくれるような気がして僕は期待した。

「そっか、少しだけ楽になったよ。でも何で、久しぶりの俺に連絡してくれなんて言ったんだ?」

「人脈は金脈っていうだろ?最近は手あたり次第に声かけてるんだ。やっぱり出来る事はやっとかないと、いつ金になるかわからないからな」

「そっか、金か・・・」

 生きるためには金が何より必要だ。そんな事はわかっているつもりだ。けれど僕はとてもがっかりした。

 やる事も終わった。僕は何かつまらいないというより、物足りない気持ちに襲われ、細川の言葉に釣られたのか、気晴らしに図書室に向かった。

 図書室の中には案外沢山の人がいて、殆どが3年生だった。見知った顔もちらほらといる。

 受験勉強とは縁が無い僕は場違いな感覚になり、そっと本棚の影に隠れ何か読んでみようかと本を流し見ていた。

「あら、清水君」

「げっ、篠崎」

 篠崎は本棚の脇に設置されているパイプ椅子に座り、足を組んで一冊の本を読んでいた。

「なによ、げって、言っておきますけど私より清水君の方が場違いなんだからね」篠崎は眉間に皺を寄せ言った。

「すまん、勉強してたのか?」

「そう、サヤカと一緒にね。でも私誰かと勉強するのって苦手で、集中出来ないから本読んでたの」

「何読んでたんだ?」

「有島武郎の生まれ出づる悩み」篠崎は本の表紙を僕に見せた。

「有名な小説なのか?」

「明治、大正期の文豪らしいんだけど、正直タイトルが面白そうだったから読んでみただけなの。この主人公にはどんな悩みがあるのかなってさ」

「ふーん」

「正確には、主人公は作家で若い画家見習いに悩みを打ち明けられる立場なんだけどね。夢である画家を目指すか、家業である漁師をそのまま次ぐか、つまり進路を悩んでいる訳、私達と一緒じゃない?」

 僕は興味が湧いて「その青年は結局どうなった?」と篠崎に聞いた。

「まだ途中だもの、わからないわ。よかったら貸すわ。そんなに長くないし、今日一日で読めるんじゃないかな?そろそろサヤカの所に戻らないと」篠崎はそう言って、僕に本を差し出し去っていった。

 僕は篠崎から渡された有島武郎の生まれ出づる悩みを、篠崎の座っていたパイプ椅子に座り読んでみた。椅子にはまだ篠崎の温もりがあり、あの篠崎の白い太ももを思いだした。僕は頭を振り、雑念を振り払い本に集中した。


 話の内容はこうだ。おそらく作者自身であろう主人公である作家に、画家見習いの少年が訪ねて来て、自分の描いた絵を見せ感想を求める。作家はその絵に、拙さの中にある、はっきりとした才能を感じ、彼の今日のパンを食べるのもやっとの生活を、不憫に思う。それから手紙のやり取りが始まり、10年後2人は再会する事になる。作家は、彼の漁業により逞しくなった体と、彼の磨き抜かれた絵を見て感動をする。それでも青年は絵を描くこともままならない、貧しく暇のない漁師としての生活を送っていた。おそらくここで作家は創作意欲を刺激されたのだと思う。作家は青年の絵に負けじと、作家の知らない青年のその後の生活を、自分の舞台である小説という形で、想像し、物語として表す事になる。これがそのままこの生まれ出づる悩みの後編部分となる。それは、青年の貧しい漁師としての生活、夢と現実の葛藤を、見事に実際見て来たかのように、具に、切実に書かれている。その物語の最後に青年が夢と現実に追い込まれ、自殺を試みるが思い止まる所で終わる。最後に作家は冬の後には春が来る。君の上にも春が来る。僕はただそう心から祈るとエールを送り話は終わった。


 僕は本を閉じ、一息ついた。


 スマホの時計を見ると、6時半だった。2時間以上経っていた。西日が差し込む中、僕は本の中に魂を置き忘れたような読後感を味わっていた。

「どうだった?結局画家の悩みは解決できた?」

 篠崎が逆光の中、蜃気楼のように立っていた。

「さあ?」僕はまるで夢の中のような感覚でいた。

「なにそれ?」

 僕は頭を掻くことにより現実に戻り「書かれていないんだから仕方ない。ただ・・・、共感ってなんだろうな」

「共感?」

「この小説を読むと苦しさや悩みの共感って、勝手な自分の解釈でしかないと感じたんだ」

 僕が細川に感じた親密さのように。

「人間は自分を代表にしてしか物事を考えられないからね」篠崎は言った。

「そうだね。人間は本当の共感も同情も出来ない、孤独で出来損ないの生き物だね。人の悩みはその人にしかわからないし、地球が回っている以上悩みが無くなる事はない。解決していくのも自分でしかない。人にできる事は正解を教えるのではなく、寄り添う事だけなんだね」

「寄り添う・・・。うん、そうだね。もしかしたらと思ったんだけど、その本では清水君の悩みは解決出来なかったみたいだね」

「俺の悩み?」改めて見る篠崎は、膝と膝がぶつかる程、近くに立っていて、優しく僕を見下ろしている。

「いつも悩みのある顔してるよ。私で良かったら言ってみてよ。共感や同情はしないけど、寄り添ってわかったふりならしてあげるよ。でも・・・、私清水君に嫌われてるんだった」

 西日が本達を照らし出す中、沈黙が訪れた。手を伸ばせば簡単に篠崎に触れ、抱きしめ僕の物にできる。

 僕は沈黙に背中を押されるように「俺は・・・」と言いかけた。すると「マリー、どこー?」と遠くから聞こえる酒井の声でふと我に返った。

 篠崎はニコリと微笑み「残念、時間切れ、また聞かせてね」と行ってしまった。

 夕暮れの図書館に僕は取り残された。

 僕は今何を言おうとしたのだろうか・・・。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る