第17話

 茹で上がるのではないかと思う程の熱気のこもった体育館の中、校長の有難い言葉が念仏のように続く。体育館の上部に設置されている窓は全開になっているが、カーテンはヒラリともしない。一人倒れようが死のうが、この終業式という封建的な式が無くなることはないだろう。

 そう愚痴ばかり考えていても気分が滅入るので、僕はこう考える事にした。運動の後のスポーツドリンク。サウナの後の水風呂。空腹時の最初の一口。そのように終業式も夏休みの魅力を高める儀式だと思い込むようにした。そんなどうしようもない事を考え、校長の有難い言葉は一言も頭に入らず式は終わった。

 吉井が体育館から教室に戻る際に「なあ、今度お前とマリと、ミサちゃんでどっか行かないか?」と言ってきた。

 篠崎と付き合いだしてから吉井は表情が良く言えば柔らかくなり、悪く言えば締まりが無くなっている。

 僕は「玉野に聞かないとわからないな。一人だけ後輩なんだから気を使ってやらないと」と言った。

「確かにそうだな」

「それにしても、遊んでばかりでいいのか、沖縄にだって行く訳だろ?」

「大丈夫だよ。マリと勉強するから」

「なんの勉強だか・・・」僕がそう言うと「はは・・」と吉井は照れ笑いを浮かべた。そして「そっちはどうなんだ?ミサちゃんとは上手くやってるのか?」と言った。

「上手くって言われても・・・」僕が言い淀むと、吉井は「キスしたか?」と言った。

 僕は正直に「まだだよ」と言った。

「なんで?」と吉井は不思議そうな顔をした。僕はそんな吉井の軽薄な顔を、イライラしながら睨み見て「そう聞くって事は、お前はしたって事だな」と言った。

「ははは」吉井は顔を赤らめ、照れ笑いを浮かべている。

「照れるなら聞くなよ」

「まあ、遊びの事、ミサちゃんに聞いといてくれよ」

「ああ」

 僕はまともに吉井の顔が見れなくなった。

 自分の席に着くと前の席の篠崎がくるりと後ろを振り返った。

「ねえ、清水君」

「何?」

 僕は篠崎の目を見てすぐに反らした。

 篠崎は前のめりになり無理に僕の顔を覗き込み「私の事嫌いだから話したくない?」と言った。

「別に・・・」

「ふーん、じゃあ目を見て喋ってよ」

 僕は言われるままに篠崎の目を見た。篠崎の目は淡い朝焼けのように儚く、危なげに見えた。それでも見てしまえばずっとこのまま見続けていたい気分になった。

「急に私に冷たくなったよね?」

「そんな事ないよ」

「そんな事あるよ。なんかよそよそしくなった」篠崎は不服そうに目を細めた。

「気を使っているんだ。俺と君が親しげに話したら、嫌な気持ちになる人間がいるだろ?」

「吉井君の事?」

「言わせるなよ」

「ねえ、恋愛って楽しむものだと思わない?」

「何が言いたいんだ?」

「何かを犠牲にするものじゃないって事。つまり、私はもっと清水君と喋りたいのよ。言わせないで」

「俺は君より吉井との関係の方が大事なんだ。だから、からかうのはやめて欲しい」

「私の事興味ない?」

「ないね」

「へえぇ」篠崎はそう言って僕の右手に自分の手をそっと乗せた。僕は「なんだよ、いきなり」と焦って手を引っ込めた。

「私の事、興味ないんじゃないの?」篠崎は面白そうに笑った。そして一早く「怒った?」と言った。

「何がしたいんだよ?」

「清水君の手を触りたいと思ったから、触っただけよ」

「頼むから、もう俺に構わないでくれ」

「嫌よ」

 篠崎はじっと僕の目を見た。僕はいつもその目に引きずりこまれるような感覚になる。いっそ引きずり込まれた方が楽になるのかもしれない。しかしそれを止めてくれたのは、担任が教室に入ってくる扉の音だった。僕はなんとか逃げ切れたような気がして安心した。

 僕は篠崎に惹かれている。けれど同時に恐れてもいた。僕は篠崎の背中に聞いた。

『篠崎、何故吉井と付き合ったのだ。本当に吉井の事が好きなのか?何故僕をからかうんだ。何故僕はこんなにも篠崎に惹かれなくちゃいけないのだ。一か月前までなんとも思っていなかったではないか』

 僕は篠崎の背中をじっと見つめた。この一か月の間ずっと見続けてきた背中だ。細く、すっと伸びて、艶のある黒髪から微かにシャンプーの匂いがする。この背中とも今日でお別れだ。その時、ふいに篠崎はこちらを向いた。まるで交通事故のように視線がぶつかった。篠崎は口元を少し緩め、そしてすぐにまた前を向いた。

 僕の鼓動は高鳴った。全て悟られたような気がした。


 一学期最後のホームルームが終わった。僕は篠崎から逃げるように教室から出た。急いで廊下を抜けて、靴を履き替え、校門まで来た。その先にいたのは玉野だった。僕はそれがとても幸福な事だと思うと同時に罪悪感を感じた。

「早いな」と僕は玉野に言った。

「先輩のクラスが遅かったんですよ」

「それもそうだな」

 確かに連絡事項に時間がかかっていた。

 玉野は手を一杯に広げ、夏の空気を抱きしめるかのように「先輩、今から夏休みですよ」と言った。

「そうだな。2年なら遊びたい放題だもんな。羨ましいよ」

「先輩って、たまにおじいちゃんみたいな事言いますね」

「ははは」と僕は笑った。

「なんだよ、清水。早くミサちゃんに会いたくて急いで帰ったのか」

 振り返ると吉井とその後ろに篠崎が立っていた。

「こちらが清水君を落とした彼女か」

 篠崎は玉野をジロジロと見た。玉野は背の高い篠崎に見下ろされ、たじろいでいる。

「ごめん玉野、こいつは同じクラスの篠崎」僕は玉野に紹介した。

「はじめまして・・・」

 玉野は恐る恐るといった感じで、篠崎に頭を下げた。

「こちらこそ、はじめまして。玉野さんって小さくて可愛いね」

「いえ、そんな・・・」

 玉野は照れるというより、緊張しているようだった。

「ねえ玉野さん、突然なんだけど、この4人で今度遊びに行かない?」

 玉野は「えっ」と目をパチクリさせた。

 僕は慌てて「あのな玉野、今日吉井と4人でどっかに行けたらいいなって話してたんだ」と玉野に説明した。

「そうですか。是非お願いします」玉野は笑顔で篠崎に言った。

「えっ?」っと、僕は驚いた。

 そんな僕を見て玉野は「行かないんですか?」と言った。

「玉野さえよかったら計画立てるけど・・・」と僕は言った。

「問題ないですよ」

「ミサちゃん付き合い良いね。またどこに行くか、清水と決めるから楽しみにしといてよ」吉井は言った。

「はい、それじゃあ先輩方さようなら」玉野は吉井と篠崎に一瞥し「行きましょう、先輩」と僕の手を掴んで歩き出した。

「玉野、本当にいいのか」僕の手を離さず、速足で歩く玉野に僕は言った。

「何がです?」玉野はぶっきらぼうにそう言った。

「勝手に予定して怒ったのか?」

「違いますよ。そんな事で怒る訳ないですよ。ただ・・・」

「ただ・・・?」

「何でもないです」

「何だよ、教えてくれよ」

「言いません。先輩の鈍感」

「俺、鈍感なのかな?」

「鈍感ですよ。世界一鈍感ですよ」

 話す内に玉野の機嫌は直っていった。

 僕は頭を掻いた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る