第6話

 次の日も雨だった。僕と篠崎はこの席順になって初めて挨拶を交わさなかった。篠崎には目も合わさないという意志があった。だからと言ってこちらもはらわたが煮えくり返っている訳でもなかった。喧嘩の概要は思い出すけれど、その時の怒りなんてどこかへ消えていた。あとは意地だけがしつこくぶら下がっているだけだった。

「おいおい、篠崎に一体何やったんだよ」

 一限目の終わり、吉井に廊下に呼び出された。

 僕と篠崎の険悪な雰囲気はどうやら周りにもばれているようだった。

「無神経に、土足で篠崎の大切な砂場に入って、俺はその砂場の価値がわからず、注意する篠崎を五月蠅いとどなりつけた」と僕は吉井に言った。

 吉井は怪訝な顔をして「わかりにくい例えだな」と言った。

 僕はため息をつき「ただの口喧嘩だよ」と言った。

「嘘だろ、あの篠崎が喧嘩?篠崎が怒る所なんて想像つかないんだけど」

「あいつ見た目ほど、清楚って訳じゃないぞ」

 口からは自然と嫌味な言葉が出てくる。

「おいおい、いい所で仲直りしとけよ。喧嘩なんて長引けば長引く程、厄介になるんだから」吉井は僕以上に大事に捉えているようだった。

「別にいいよ。朝に挨拶するくらいの関係なんだから」

「毎日挨拶してくれる美少女を失うのは、人生において大きな損失だぞ」吉井は真面目な顔でそう言った。

「大袈裟な・・・」僕は呆れた。

「それで、喧嘩の原因は一体何なんだよ。音楽性の違いか?」

 僕は篠崎との会話を覚えている限り客観的に吉井に伝えた。篠崎は僕の事を贅沢だと言った。大学に行きたくても行けない人だっているのだと。でも、篠崎程の成績なら意中の大学へ進学する事は、さほど難しいとは思えない。

「篠崎はそんな事言ったのか?」吉井は眉間に皺を寄せて難しい顔をした。

 僕は吉井に「俺が悪いのかな?」と聞いた。すると吉井は「まあ、お前にも言い分はあるだろうけど、ここは男のお前が謝っとくのが筋だよ。そうやって男女は昔からバランスを取っているんだ」と、僕の肩をポンと叩いて、教室へと入っていった。

 僕は吉井に対してつれなさを感じ、男の友情なんて恋の前では砂の城のように儚いものだなと一人で達観し、寂しい気持ちになった。


 雨は放課後になっても止む気配が無かった。それどころかますます激しくなって、風も強く吹くようになっていた。僕は頼りないビニール傘でボタボタと打ち付ける雨を防ぎながら、自転車で不安定に坂道をヨロヨロと下り、家路を急いだ。

 この日も結局、最後まで篠崎と話す事は無かった。吉井に言われたように僕の方から謝ろうと思ったけれど、篠崎は明らかに僕を避けていて、謝るような隙が無かった。僕はその態度にイライラし、僕らの関係なんて次の席替えまでの関係なんだからと、もうどうでもいい気持ちになっていた。

 そんな気持ちの中、前を歩く傘の集団の中に懐かしい後姿を見つけた。僕は自転車を降り「玉野」と後ろから声をかけた。

 振り返り明るい顔を見せてくれたのは、僕の一学年下の水泳部の後輩、玉野ミサだった。

「あ、先輩、お久しぶりです」

 玉野は表情が良く出る目と、少し垂れた眉毛と、健康的な色の腫れぼったい唇をした小柄な女の子だ。

 僕は水泳部の時、玉野の事を実の妹より妹らしく感じ、見ていると何故か構いたくなって、よくからかったりしていた。

 玉野は、友達数人で帰っていたみたいだ。その友達が水泳部の後輩なら良かったのだけれど、面識の無い連中だった。僕は、中に割り込んで玉野と話すのも気が引けたので、玉野に「気をつけてな」とだけ言って、すぐに立ち去る事にした。

「先輩、また部活に顔だして下さいね」玉野はにっこりと微笑んで、手を振ってくれた。

 玉野の笑顔は、いつも僕の鬱々とした気分を晴らしてくれる。僕は少し暖かい気持ちになり「わかった」と言って、よろよろと自転車を発進させた。


 帰り道、雨と風に存分に煽られ、帰る頃にはビショビショになってしまった。家に着くとすぐにシャワーを浴びた。そしてリビングのソファーでスマホをいじっていると、吉井からのラインメールが入った。日曜に遊ぼうという内容だった。僕は了解とだけ送って、スマホをソファーの端へとポイと投げ捨て、物思いに耽った。

 考える事は就職の事や、吉井の事でもなく、篠崎の事だった。篠崎の事をこんなに意識した事は初めてだった。毎日挨拶をしてくれる、気さくで可愛いロックミュージックが好きな前の席の女の子。そんな印象だったが、実はそれ以外に篠崎の事で記憶に残っている事がもう一つあった。

 それは3か月くらい前のある春の日の事だった。広島市へ行くため駅のホームで電車を待っていると、篠崎が反対側のホームのベンチに静かに座っていたのが目に入った。スマホや音楽を聴く訳でも無く、どこを見るともなく、物憂げにぼんやりとしていた。

その時は篠崎のその表情に特別な思いは抱かなかった。けれど、今、こうやって家のソファーでその光景を思いだすと、その光景は以前とはまた違った色を持って思い出される。


 あの時、篠崎は何を考えていたのだろう。

 そして今、何を考えているのだろう。


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