第5話
次の日は朝から雨が降っていた。傘を差しながら自転車に乗り学校へと向かった。いつもの坂道を自転車から降りて、ゆっくりと自転車を押しながら登った。湿気が蜘蛛の巣のように体中に纏わりつき、水滴や泥が跳ねて不快だが、心の方は穏やかだった。
教室に着くと、前の席に篠崎が来ていたので、僕はおはようと挨拶をした。すると篠崎は僕の顔を見て微笑み「何か良い事でもあった?」と言った。僕は驚き、そんな必要もないのに、高揚感が顔に出ないようにと気を正し、篠崎に「聞いてもいいかな?」と言った。
篠崎は気さくに「なあに?」と答えた。
「篠崎は大学に行くんだよな?」
「私?そうだよ。だから勉強しないと。どうしたの?清水君はまだ迷ってるの?」篠崎はニヤついた。
「いや、俺はもう就職するって決めたよ」
「えっ、何で?」篠崎は切れ長の目を丸くし、思いの外驚いた表情をした。そして「何か事情があるの?」と小声で言った。
「うーん、確かに俺は片親だし裕福じゃないけど、一番の理由は、今大学に行っても無駄に過ごしそうな気がするからさ。それなら就職した方が利口かなって思って」
篠崎はピクリと一瞬固まり「清水君は大学に行くのが無駄だって思ってるの?」と言った。
「そうじゃないよ。俺の場合特に夢や、やりたい事が無いんだ。だから大学に行っても怠けそうな気がするんだ」
「じゃあ、目的無く大学に行く事は無駄だって事ね?」
僕は、篠崎の表情から何か不穏な空気を感じた。
「いや、そうじゃない。あくまで俺の場合だよ。大学に進学する人を否定している訳じゃないよ」僕は不穏な空気を振り払うようにそう言った。
篠崎は僕をじっと見て「でも清水君、私の事馬鹿だと思ってるでしょ?」と言った。
僕は予想外の篠崎の一言に驚き「えっ?どうしてそうなるんだよ」と言った。
「だって、私は特に目的も無く大学に進学しようとしている人なんだもの。そういう人は清水君の中では考えが足りない人で、就職した方がいいに決まっている。そう思っているんでしょ?」
ただの雑談程度の話で済ますつもりだったのに、どこで何を間違ったのだろうか。話は予想外に反れていった。
「そんなつもりで言ってないよ。誤解させたなら謝るよ。悪気があって言った訳じゃないんだ」
「悪いか、悪く無いかは受け取り側次第だよ」篠崎は至って冷静にそう言った。
僕はどうにも篠崎の言う事が理不尽なような気がして、我慢が出来なくなってきた。
「だから悪かったって言ってるじゃないか」自分の声が明らかに興奮しているのが感じられる。
篠崎は僕を凝視し「何その顔、謝ってる人の顔に見えないけど?」とトゲトゲしく言った。初めて見る怒りのこもった篠崎の顔だった。
「お前も、俺の悪気が無いって所、もうちょっとわかってくれてもいいじゃないか」
「お前って言わないでくれる?」
僕は黙った。
「大学に行きたくても行けない人だっているのよ。そんな人からしたら清水君は贅沢よ。それに――」
「もういい・・・」もう何を言ったってすれ違うだけで、交わる事はないだろうと思い、僕は篠崎の言葉を遮った。
篠崎は冷ややかな目で僕を流し見て、それっきり前を見てしまった。
僕は時間を置き、先程のやり取りを一から振り返ってみた。僕は篠崎を傷つける気など毛頭なく、ただ自分の考えを言っただけだったけれど、篠崎は僕の言葉の何かに傷付いたのだから、やはり僕が悪いのだろうか。
前に座っている篠崎のまっすぐに伸びた華奢な背中を睨み見たけれど、その背中は僕に何の答えも示してはくれない。
それから一日、篠崎はこちらを向く事はなく、僕はただただ、いつもより強く教室内に響く雨音を感じた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます