第2話

 目を覚ますとエアコンの送風音に紛れて、微かに去っていく救急車のサイレンが聞こえた。部屋の中は薄暗い。

 枕もとに置いてあったスマホの時計を見ると、朝の4時半だった。僕は目を閉じもう一度眠ろうと努力した。けれど体はすっかり覚醒していたので、仕方なくベッドからのそのそと出て部屋の窓を開けた。気休め程度の涼しい風が入ってきた。

 空を見上げると、夜が消えつつある群青色の朝もやの中、纏まり切らない雲がはるか上空で遊んでいるかのように漂っていた。目の前は造船所の錆びた大きなクレーンが視界を遮っている。クレーンの後ろは側溝と言っても差し支えないような、すぐ対岸に島が迫っている狭い、著しく可能性の低い海だ。

 この景色を見ると、僕はいつもどうしようもない行き場の無さを感じる。

 僕は窓を離れ、机の上の学校鞄の中から、いつまでも未提出だった進路調査表を取り出し、それをモヤモヤとした定まらない気持ちに任せ、ぐしゃぐしゃに破りゴミ箱に捨てた。少しだけ社会や固定概念に反抗した気になって少しの高揚を得られたけれど、すぐに虚しくなり、先の事を考え憂鬱な気持ちになった。


 日課のランニングを済ませ、シャワーを浴び、2日前に買った菓子パンとインスタントコーヒーを飲み、制服に着替えた。そして築20年が経ち開閉の悪くなった団地の玄関ドアを、ギイーという重苦しい音を鳴らしながら開け、自転車に乗り学校へと向かった。


僕が住む尾道市の東にある団地は海沿いにある。そのまま海沿いの道を尾道市の名所のひとつ、千光寺方向へと西にまっすぐ進むと、学校へと続く坂道が顔を出す。この柔らかいコンクリートに小指で引いた溝のような、脇に露店や住宅が隙間なく並ぶ狭い坂道は、学生の体力を朝から奪う。水泳部を引退し、運動不足の僕にはさらに堪えた。日差しを遮るような雲は、太陽とはあさっての方向にあり、自転車を漕ぐ足はシャワーを浴びたかいもなく早速ズボンの下で汗ばんでいる。



 息を切らし、汗を流しながら学校の駐輪場に着くと、友達の吉井も自転車を停めている所だった。僕は吉井の肩をポンと叩いた。すると吉井は振り向き、付けていた緑のイヤホンを外した。

「ういっす。暑いな」と僕は言った。

 吉井は絶え間なく額から流れてくる汗を拭いながら「今年は、観測史上最高の暑さになるってニュースで言ってたぞ。確か去年も言っていた。おそらく人類が死滅するまで、ニュースのお姉さんはそう言い続ける。そして絶望的な事に、俺の部屋のエアコンが壊れた。清水、俺は一足早く今年の夏で死ぬかもしれない」吉井はそう言って、毒でも飲んだかのような顔をした。


 吉井は少年のような無邪気な顔をしている。細身で色黒、髪を茶色に染めて、シャツのボタンを2つ外し、顔が小さいためか長く見える汗で濡れた首元を見せている。

吉井とは高校で知り合った。性格は違うけれど不思議と気が合い、3年になり同じクラスになってからは、ずっと行動を共にしていた。僕と吉井は喋りながら教室へと向かった。


 教室に着くと、僕は真ん中の列の後ろから2番目にある自分の席へと座った。吉井は鞄を窓際にある自分の席に置くなりこちらにやって来て、僕の前の席へ逆向きに座り僕を覗き込み「なあ、まだ迷ってるのか?」と言った。

「何の事?」と僕は聞いた。

吉井は鈍い僕にうんざりした様子で、当然と言わんばかりに「進路の事以外にあるのか?」と言った。

「ああ・・」と僕は理解して「まだ迷ってるよ」と言った。

「じゃあ、俺と同じ大学受けろよ。大学に入ってから進路を見つけたらいいじゃないか。お前さえ良けりゃ東京の大学に行ったっていいんだぜ。そして高円寺か吉祥寺に住んでさ、ロックしたり、演劇したり青春を謳歌するんだ」吉井はそう言って、まだ見ぬ未来に期待して笑顔を見せた。色黒の顔に白い歯が映える。

「大学だって、ただで行ける訳じゃないだろ?見つける事が出来るかどうかわからないものを見つけに行くのはリスクが大きくないか?」と僕が言うと、吉井は呆れたように「相変わらずのネガティブ思考だな」と顔をしかめた。

「どうやったらこの世を楽観的に見れるのか不思議だよ。景気は悪いし、国際情勢だって良くないし・・・」僕はそう言っていく内に、どこかで聞いた受け売りのような悲観だなと馬鹿らしくなり、口を噤んだ。

 僕が感じる悲観は一言で表せれるような具体的なものではなかった。

「俺は無常な世の中だからこそ、楽観的に生きないと駄目だと思うけどな。大学を出て損は無いよ。確かに金は掛かるよ。でも親だって、変にこじらせてニートやフリーターになられるより、大学を出てもらった方が喜ぶって、それに大学に入ってしまえば楽出来るって言うしさ。サークル活動に、飲み会、バイト、楽しいと思うけどな」

「それこそ何のために大学に行くかわからないな。遊ぶためか?」

 吉井はため息をつき、今一度僕を睨み見て「お前は相当ひねくれているよ。今まで規則や勉強に縛られてきて、それでまた社会に出たら経済の奴隷になるんだ。大学生活はその間のちょっとした休暇だよ。その間に得られるものだって多いはずだ。遊びだって、人生には必要なものだろ?それを否定するなんてお前は修行僧か?」と言った。

 僕は苦笑いし、改めて吉井との価値観の違いを感じた。


 吉井の家は学校の近くで文房具屋を開いている。吉井もその文房具屋を継ぐ事を暗黙に了解している。そのためか人生において、根拠のない楽観性を持っているような気がする。そして社会システムに疑念や反抗心がなく、そのシステムの中でいかに楽しく生きるかという事を念頭に置き、それ以外の生き方を模索する事はあまり無いようだった。

 僕はというと、成長するたびに感じる閉塞感を、根本から吹き飛ばすような生き方はないだろうかと、ただ夢想するだけで、行動を起こす事もなく、ただ鬱屈とした思いと共にじっと待っているだけだった。

 僕の考えと吉井の考え、どちらが正解かなんて野暮な事は言わないけれど、おそらく僕の方がまだまだ冷笑を気取った子供にすぎないという事はわかっていた。


「ちょっと吉井君ごめんね。座ってもいいかな?」そう言って横から声をかけたのは、吉井の座っている席の住人である篠崎マリだった。

 吉井は慌てて「すまん、すまん」と言って立ち上がり、僕の席の脇へと避難した。

「あれ?吉井君、その時計買ったの?」篠崎は席に着くなりそう言った。

「えっ?ああ、そうだよ。早いけど卒業祝いに、昨日親父に買って貰ったんだ」

 吉井の左手首には、銀のフレームに黒のベルトのクラシックな腕時計があった。

 僕は今気付き「本当だ」と声を漏らした。

「親父が選んだんだ。グランドセイコーだって、俺はもっと違うのが良かったんだけど、なんかこれ中年臭くないか?」そう言って吉井は時計を見せ顔をしかめた。

「私はいいと思うよ。だってその時計なら10年後だって、20年後だってつけれるじゃない。おじさんは先の事を考えて選んでくれたんだよ」篠崎がそう言うと、そうかなと吉井は照れた。

 篠崎は僕より目がいいのか、些細な事に何でもよく気付く。僕が口に出さず、口内炎を鬱陶しく思っていたのに気付かれた時はさすがに驚いた。

「あ、清水君、おはよう」篠崎は忘れていたものを思い出したかのようにそう言った。

 篠崎はこの席順になってから、毎日ちゃんと僕の目を見て挨拶をしてくれる。

 篠崎は黒目がちな、大きい切れ長の目をしていて、艶のある肩までのストレートの黒髪。長身で、手足が長く華奢。そして男女問わず誰とでも気さくに話す性格をしているので、男子に特に人気があった。

 僕は篠崎に挨拶を返し、思い出し「この前借りたCD聞いたよ」と言った。

「本当?よかったでしょ?」

「俺も聞いた。聞いた」吉井も乗り出し言った。

 篠崎はナンバーガール、くるり、フジファブリックといった一昔前のロックバンドが好きだった。そしてそれらのバンドの布教活動を熱心に行っていた。

 僕はCDを篠崎に借り、一通り聞いてみたのだけど、正直良いのか、悪いのかよくわからなかった。それをそのまま篠崎に伝えると、篠崎は20回聞いて良さがわかってきて、100回聞いても飽きない。本当に良い曲は、初めは退屈に感じるものだと、身振り手振り、感情豊かにバンドの逸話や音楽性などを熱弁した。僕は熱心に語る篠崎に、いつものクールな印象とは違う幼さを感じ、微笑ましく見ていた。

 一方吉井はというと、篠崎の言葉をまるでケンブリッジ大学で講義を受ける優秀な生徒のように、一言一句聞き漏らすまいという風に聞いていた。

「篠崎いいよな」

 次の休み時間、吉井はトイレの手洗い場で前髪をチェックしながら恍惚とした表情でそう言った。

 僕は鏡の吉井に「でも、ライバル多いだろうなー」と言った。

「そうだろうな。今は大学生と付き合っているらしいし・・」そう言って、吉井は自分自身の発した言葉に消沈した。

「えっ、熊井とは別れたのか?」

 確か2カ月くらい前、バスケ部の熊井と付き合っていると聞いた事があった。

「熊井の次に、村田と付き合って、大学生のAさんだ」吉井は指を折りながら説明した。

「村田?いくらなんでも趣味悪すぎじゃないか?」

 村田は、顔は悪くないのだが虚栄心が強く、それに能力が釣り合っていない煙たい奴だった。

「篠崎って、告白されれば取りあえずは付き合うらしいんだ」吉井は虐げられた子ヤギのような悲しげな表情でそう言った。

「じゃあ、それって、お前も告白したら、付き合ってもらえるって事だろ?」

「そう簡単な話じゃないんだよ。誰かと付き合っている間は無理なんだ。誰とも付き合っていない瞬間を狙わないと」吉井はそう言って「まあ全部噂なんだけどな」と付け加えた。

「それってまるで、椅子取りゲームみたいだな」

「そうだな。それよりお前は篠崎の事どうなんだ?まさか狙ってないよな?それならやめた方が良い。俺のためにやめた方がいい」

 僕らはトイレから戻り、教室の後ろの方から友達と喋っている篠崎を、絵画でも鑑賞するかのように腕を組みながら話していた。

「そりゃ篠崎の事嫌いな男はいないだろ?可愛いし、気さくだし・・・」そこまで言って僕は篠崎の物憂げな表情を突然思い出した。そして「でも、たまにだけど怖く感じる時あるよな?」と吉井に言った。

 吉井は驚いた表情で「どこがだよ」と言った。

「例えば、その誰とでも付き合うってところとか、まるで男っていう動物を実験しているように思わないか?」

「おいおい、お前、篠崎をそんな風に見るなんてどうかしてるぞ。篠崎は博愛主義者なんだよ。告白されて振るのが可哀想だから、仕方なく付き合ってくれるんだ」

「そうなのか?」

「実験してるなんて、そんな訳ないだろ。お前、進路に悩みすぎて疲れてるんじゃないか?」吉井は僕を悲哀の目で見た。

 自分の考えが穿っているのか、それとも吉井が盲目なのか、僕は確かめる気持ちで今一度篠崎の横顔を遠目で見た。改めて見る篠崎の横顔は正面の雰囲気とは違い、どこか寂しそうに感じた。その時、篠崎は僕らの視線に気付きこちらを向いた。そして僕らに何かつぶやき微笑んだ。僕と吉井はそれにつられて、頬の筋肉が緩む。それは犬のエサに対する反応と何ら変わらない、どうしようもない男の本能だった。

   

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