ノヴェレッテ
増田朋美
ノヴェレッテ
その日も、冬と春が喧嘩しているような、そんな日だった。風が吹いて冷たいのに、気候的には暖かくなったような。そんな寒い日だった。もう、冬は終わりで、春が近いんだなと言うことが、なんとなくだけどわかってくるような、そんな日だった。
その日も、杉ちゃんが、水穂さんに、ご飯を食べろと一生懸命ご飯を食べさせていたところ、
「こんにちは。右城先生いらっしゃいますか。ちょっと、演奏を聞いてやってくれませんか。」
玄関先で若い男性の声がした。多分、声の調子から言うと、浩二くんであった。
「ああ、浩二くん。どうしたの?いきなり来て、演奏を聞いてくれなんて。」
と、杉ちゃんがそう言うと、
「はい、彼女の演奏を聞いてやってほしいんですよ。名前は、石島未華子さんです。今月から、僕のピアノ教室に来ているんですが、せっかくなので、右城先生に、未華子さんの演奏を、聞いていただきたいんです。」
と、浩二くんは、一人の女性を連れて部屋に入ってきた。はあ、なんか可愛らしい女性だな、と杉ちゃんが言う通り、可愛い感じの女性であった。それはどこかに、少女のような雰囲気がある、といえばいいのかもしれない。もちろん、ロリータさんとか、そういうわけではないけれど、彼女はどこか、可愛い感じがあるのだった。
「わかりました。じゃあ、演奏を聞かせてください。なんの曲をやってくださるのか、楽しみです。」
と、水穂さんがよろよろと布団の上に座った。
「はい、シューマンのノヴェレッテから、二番を弾きます。じゃあ、右城先生、彼女の演奏、聞いてやってくださいね。先生、いい加減な批評はだめですよ。」
浩二くんがそう言って、彼女に、グロトリアンのピアノのそばに座らせた。彼女はとても、緊張しているような様子で、ピアノを弾き始めた。確かに、シューマンのノヴェレッテから、第二番、ニ長調であることは、間違いないのだが、ちょっと、音が間違っているところがあった。彼女自身は、一生懸命弾いているのだと思うのであるが、ちょっと、これでは人前で弾くには、到達していない演奏である。
でも、水穂さんは、弾き終わると、拍手をした。
「一生懸命やっていらっしゃるじゃないですか。きっと、そうすれば、必ず弾けるようになりますよ。ちょっと音の間違いもあるけれど、それは、ご自身で気がつくと思いますし。これからも頑張って、練習を続けてください。」
「右城先生、たったそれだけですか?」
と、浩二くんが言った。
「そうじゃなくて、もっと具体的な事を彼女に言ってやってください。彼女は、やっとピアノを弾き始めたばかりなんです。そういうときは、課題があったほうが、いいと思うんですが?」
「始めたばかりって、なにか、きっかけがあったのか?」
と、杉ちゃんが言うと、
「ええ、きっかけというか、10年ぶりに、ピアノを弾き始めたんですよ。子供の頃、ピアノを習っていましたが、おとなになってやめて、また、今になって再開したんです。僕も、彼女が習いに来たときは、ホント、応援してやりたいと思いました。それに、彼女は、ピアノだけではありません。人生においても、冬が終わったばかりなんですよ。」
と、浩二くんは彼女を後押しするように言った。
「そうなんですか。それは、どういう意味なんだ?」
と、杉ちゃんが聞いた。
「ええ、この春から、通信制の高校に通い始めるんです。10年ほど、ずっと自宅にいたんですが、それを、もう一度、やり直そうということで、通信制の高校に通い始めるんですよ。」
と、浩二くんはにこやかに笑った。
「そうですか。それはおめでとうございます。高校入学と同時にピアノも再開したというわけですね。それでは、人生が前向きになるきっかけにもなりますよね。そういうことなら、そうですね、音楽的にもう少し、豊になるといいですね。強弱記号をあまり大げさに書く作曲家ではありませんが、それをもう少しつけたほうがいい。それと、シューマンという人は、明るいところもあったけど、病んでしまったところもあるわけですから、そういう意味で二面性があった人物です。それをもう少し、表現してもいいと思いますよ。」
水穂さんは、未華子さんに、優しくそういった。
「そんなに良かったんですか?私の演奏。」
未華子さんは、信じられないという顔で水穂さんを見る。
「先生、私の事を、気遣ってくれなくてもいいですよ。私は、ピアノが下手ですし、たまたま、桂先生が、偉い先生に聞いていただこうって言ってくれただけで。私は、そんな価値も無いんですよ。」
未華子さんは、申し訳無さそうに言った。
「でも、ご自身で、自分が価値が無いと言っていたら、本当に価値がなくなってしまう。せめて、ご自身だけは、ご自身のみかたにならなければ。」
水穂さんがそう言うと、
「いや、そういう事を、言ってるわけではありません。私は、本当に何も価値はないんですよ。演奏はできると言っても、こんな下手な演奏しかできないし。誰も、私の演奏を、いい演奏だって、行ってくれる人はいないんですよ。」
と、彼女は答えた。
「それでは、ピアノサークルとか、そういう場所にはいらせてもらったらどうだ?そういうところなら、公平な感想がもらえるんじゃないの?」
と、杉ちゃんがそう言うと、
「いえ、そんなところに入れるほど、私はうまくありません。それに、私ばかりそういうところに入ったら、周りの誰かが、必ず、文句をいいます。」
「誰かって誰?名前は?」
未華子さんがそう答えるので、杉ちゃんはすぐに、そう言った。こういう質問ができるのも、杉ちゃんならではであった。
「その文句を言う誰かの、名前を教えてくれるか?」
杉ちゃんは、質問を続けると、
「それは、わかりません。でも、そういう事を言う人がいるんです。」
と、彼女は答える。
「ダビット同盟?」
と杉ちゃんが聞いた。ダビット同盟とは、シューマンが勝手に考えていた敵組織である。実在はしないが、シューマン自身は、存在すると思い込んでいたようで、それに基づいた楽曲も作曲していたのである。
「いや、ダビット同盟ではありません。でも、私ばかりが幸せになっては行けないんです。私だけ一人幸せになったら、それでは、必ず、他の誰かがあいつは、なんで、安易な手段で幸せになったんだって、責める人がいるんです。」
「ははあ、なるほどね。」
つまり彼女も、シューマンと同じ病気に罹患していたのだろう。シューマンが、妄想を思い込んでいるのと同様で、彼女も、妄想を思い込んでしまっているのだ。
「わかりました。どうして、そうなってはいけないと思ってしまったんですか?」
と、水穂さんがそうきくと、彼女は、
「はい。10年前に、大きな災害がありました。私は幸い、無事でしたけど、それ以外の人たちは、皆、終わってしまいました。」
と、言った。
「10年前に、大災害などあったのだろうか?あったとしたら、東北の方で大きな地震があったとか?でも、それは、東北地方で、ここでは被害は何もなかったよな。」
杉ちゃんがそう言うと、
「それじゃあありません!そうじゃなくて、大きな竜巻があって。」
と、未華子さんは答えた。
「竜巻?」
と、杉ちゃんが言った。
「そんな事あったっけ?日本は災害大国だ。もしかしたら、記憶に残っていない竜巻だったのかな?」
「10年前の事なのでなんとも、、、。」
浩二くんも杉ちゃんも顔を見合わせた。
「でも、僕達が感じていなくても、彼女にとっては大きな災害に見えたのかもしれません。例えば、出身民族が違っていれば、同じ災害でも、大災害にとってしまう民族もいるかも知れない。」
水穂さんがそう言った。確かに、民族が違っていて、その生活レベルが、多数は民族と違っていれば、大災害の様に見えてしまうかもしれないことは、有り得る話だった。例えば、原住民と、日本人では、感じ方は違うだろう。それは、十分ありえる。
「民族が違うって言っても、彼女は、日本人の顔してるし。あ、それとも、いわゆる朝鮮人とか、そういうやつかな?」
杉ちゃんがそう言うと、
「いや、それはありませんよ、杉ちゃん。もし、杉ちゃんの言うとおりなら、朝鮮式の名前があるはずでしょうに。彼女にはそれはありませんよ。」
と浩二くんが急いで訂正した。たしかにそうだよな、と杉ちゃんも頷いた。
「それでは、その、大きな災害の名前を教えてもらえないかな?東日本大震災か?それとも、他の災害か?」
「違いますよ。彼女は竜巻と言っていますから。」
杉ちゃんと浩二くんがそう言い合っていると、
「例えば、外国のように、災害に人の名前をつければ、わかりやすいかもしれませんね。例えばアメリカなどでは、ハリケーン・カトリーナとか、そういう名前をつけています。それは、ただ災害としてわかりやすくするだけではなく、そういう感じやすい人が思い出しやすくするためかもしれません。」
と、水穂さんが言った。
「そうですねえ。アメリカ人は、災害に名前をつけるなんて、なんて陽気な国家なんだと思っていましたが、そういう意味でもあるのかあ。」
浩二くんは、考えるように言った。
「とにかく、あたしが幸せになってはだめなんですよ!あたしは、みんなが頑張っている中、一生懸命耐えなければならないんです。それは、皆さんに対して申し訳ないことでしょう!だからあたしは、ピアノなんかやっちゃいけないし、高校に入り直しても行けないんですよ。そうしたら、犠牲になった人たちが、あたしだけが幸せになったって、そう言ってきますから!」
杉ちゃんが、その人物は誰か聞こうとしたが、水穂さんがそれを止めた。
「でも、せっかく、ピアノを再開してくれて、僕は嬉しいと思ったから、先生のところに連れてきたんです。僕の思いはどうなるんですかね。」
浩二くんはそう言うと、
「ええ、本来はそれを、教えなければならないと思いますが、今の彼女には、それを思うことはできないと思います。それよりも、彼女を縛り付けている物を解きましょう。」
と、水穂さんが言った。
「あなたが、つらい思いをしていることはよくわかりました。確かに、自分だけ助かったとなれば、周りの人に申し訳ない思いが出てしまうかもしれません。それは、あなたが感じているんですから、本当のことですよね。」
水穂さんは、未華子さんに優しく言った。
「しかし、右城先生、ここで、10年前に竜巻というものはあったんでしょうか。静岡県内で発生したと言うなら、ニュースで取り上げたりしますよね。でも、そのようなニュースは何もありませんよ。」
浩二くんは、スマートフォンで10年前の竜巻を調べながら言った。確かに、10年前に、静岡で竜巻があったというニュースはどこにも報道されていない。それに死者が出たとか、家が潰れたというニュースもない。
「確かに、竜巻があったというニュースはありますよ。ですが、それが起きたのは、房総半島で、静岡ではありませんね。もしかしたら、房総半島に、知り合いがいたと言うことですか?」
浩二くんは、スマートフォンを見ながらそういった。
「誰か、知り合いがいたんだったら、そいつの名前を教えてもらえないかな。そうすれば、ダビット同盟であることは、はっきりする。もし、千葉にそういう人がいるなら、名前を話してくれ。名前を。」
と、杉ちゃんがそう言うと、彼女は、
「名前はわかりません。でも、そこで、たくさんの人が亡くなって、たくさんの家が破壊されて。」
と答えるのだった。
「そうなんですけどね。その房総半島で起きた竜巻は、被害が出たのは、一部の地域だけで、死者は、三人しかおりませんが?」
浩二くんがスマートフォンにかかれていた通りの事を言った。
「じゃあ、その三人の中に、お前さんの仲間がいたのか?」
と、杉ちゃんが言うと、
「いえ、そういうことではありません。ですが、あの竜巻で私は、本当に不幸な人がたくさんいるんだなってことを知らされました。それで、私は、あの竜巻で、不幸になった人がいる以上、私が幸せになっては行けないと、実感したんです。それから毎年毎年、大きな災害が来て、幸せになってはいけない、喜んでは行けないと、私に行ってくるんです。」
と、彼女はいった。彼女の言うことはちょっと変な宗教で培ったのかなと思われるような、言い方があった。もしかしたら、彼女なりに、対処しようとして、新宗教の団体にでも行ったのかと思った。
「それは、どこで感じたんですか?誰かに、聞いたりとか、指示をされたとか、そういうことですか?」
水穂さんがそうきくと、
「いえ、私が考えました。私が、テレビの映像を見て、そう言われました。あのとき、竜巻が起きたとき、テレビで、竜巻の様子を中継していたんです。三分ほど、テレビ画面が切れて、その後は、無惨に、家をなくした人の映像が出て。ほんと、怖かったです。それだけで、私は、もう私達も自粛しないと、行けないんだって、気がついんたんです。」
と、彼女は言った。
「はあ、それで、お前さんはなんで、ノヴェレッテを練習したんだ?誰かに言われてやったのか?それともお前さんが自主的にやりたくなったとか?」
杉ちゃんが、そう言うと、彼女は、
「私が、自主的にやりました。もう一度、ピアノをやれば、もう少し、気持ちが落ち着くかなって思って。私、感じるんですよ。気持ちが、ガサガサと湧いてくるの。それをどうするのかは、私にも、できないんですよ。なんか知らないけど、気持ちが急に沸き上がってしまうんです。それを対処するために、昔やった曲を、やろうと思って。」
と、未華子さんは、涙をこぼしていった。
「それはもしかしたら、統合失調症とか、そういうものかもしれません。本人の意思に関わらず症状があるんだったら、病院で治療してもらう事もできますよ。」
水穂さんが優しく、そう言うと、
「そんなこと、できるんでしょうか?病院の先生が、私をもとに戻してくれるんでしょうか?」
と、未華子さんは言うのだった。
「ええ。もちろん、あなたも努力しなければなりませんが、あなたが、そういう事で困っているとはっきり自覚してもらうことが、回復への第一歩だと思います。」
水穂さんがそう言うと、未華子さんは、ちょっと動揺したと言うか、気持ちが動いたような顔をした。それは、未華子さんの中で、なにか変化があったのだとおもった。
「私が、何を言っても、私の家族は聞いてくれませんでした。そのようなことは絶対ないとか、私の話をわかってくれませんでした。それで訳のわからないことを言うんだったら、外へ出るなとか、そういう事をいいました。だから私、家にずっといると、そこで、気持ちがざわざわ動いてしまって、自分なんて、いなくなればいいとか、そういう考えが勝手に浮いてきて。それで、ピアノを弾き始めたんです。そうしたら、家の家族がピアノレッスンに行くようにと言って。それで、桂先生のところに、行かせていただいたら、今度は先生が、もっと偉い先生のところにいこうという。それでは私は、一体何の目的でここに来たんでしょうか?」
未華子さんは、何がなんだかわからないという顔で杉ちゃんたちを見た。確かに彼女はそう思っていると思う。でも、浩二くんの思いもちゃんとあるだろう。彼は、未華子さんをここへ連れてきて、なんとか治療を受けるきっかけになってほしいと思ったに違いない。ロベルト・シューマンの生きていた時代と今は違っている。同じ病名があったってちゃんと、生きていかれる方法もあるかもしれない。でもそれは、本人がなんとかしようとする気持ちと、具体的なきっかけがないと出てこないことでもあるのだ。浩二くんはそれを作ろうとしたのだろう。
「まあさ、来たことに、善悪をつけないで、事実は事実だけだと思うようにしてご覧。そして、時には、全部を人に任せてもいいと思うくらい、軽い気持ちになってみることから始めたらどうだ?」
と、杉ちゃんに言われて、未華子さんは、
「そうなんでしょうか?なんでも、自分でやらないと、行けないって言われてますから。」
と答えた。
「それは誰に言われたんだ?」
杉ちゃんがそうきくと、彼女はまた話せなくなってしまった。多分、そういう事を誰かが言ったことは、事実としてあったのかもしれないが、彼女の中で何回も考え直される間に、妄想として定着してしまったのだろう。それを解除するのは、一般の人にはむずかしいことである。精神科とか、そういうものの助けが必要になるだろう。
「大丈夫です。人に任せても、罪になることは、決してありません。必要なことといえば、そうだな、まず、10年間誰にも言わないで耐えてきた自分を褒めてあげましょう。」
水穂さんは、にこやかに笑ってそういった。もしかしたら、こういうふうに理解をしてあげられるのも、水穂さんだけなのかもしれなかった。水穂さん自身も、人種差別を受けていたことが会ったから、彼女の事をその様に解釈できるのだろう。
「誰かに打ち明けて、本当に理解してもらえるのでしょうか?」
未華子さんがそう言うと、
「ああ、薬の力も借りて、お前さんの事をなんとかしてくれると思うよ。しばらくときの流れに任さなきゃならないこともあると思うけど、それは、仕方ないこととして、放置しておくことも必要だからね。きっと、お前さんが、またピアノを弾きたくなる日も来ると思うよ。」
と、杉ちゃんがカラカラと笑った。
「冬は必ず春になります。僕は、そのお手伝いができてよかったと思ってます。」
浩二くんが、そういうところを見ると、来訪した目的は、それだったんだと思う。
外は、いつの間にか風が止んで、穏やかな晴れになっていた。もう、暖かくなって、だんだんに春が近づいてくることを、知らせてくれているのだった。寒かった冬が終わろうとしているのは、なんとなく寂しい気持ちになってしまうのは、なぜだろうか?
ノヴェレッテ 増田朋美 @masubuchi4996
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