第32話 こんがらガール
思考がまとまらない。
頭の中が洗濯機みたいにぐるぐるしている。いや、乾燥機か。どちらでもいいか。
昨日は困った日だった。何に困っていたんだっけ?まあ、明日からは晴れが続くとさっき天気予報で言っていた。あれはタクシーの中のラジオで聴いたんだっけ?今日はタクシーに乗っていないんだってば。
頭の中がぐるぐるすると、心臓がどきどきしてくる。私は一目惚れというものをしたことがないから、素敵な人を見てどきどきしたことはない。いつかどこかできっと出会える私の王子様は、まだどこか袋小路みたいな所でぐるぐるしているに違いない。ああ、お腹が減った。
朝から何も食べていない胃袋がぐるぐると音をたてる。どうして律儀にご飯を食べないといけないんだろう。どうせ排泄するだけなのに。あらゆるものは私を通過して、世界をぐるぐると循環する。私だって世界旅行に出たい。
ちっちゃかった頃にハワイに行ったことがある。何も覚えていないが、私はハワイに行ったことがある。それが大事だって、お母さんが言っていた。いや、お母さんはNYに行きたいって言ってたんだっけ?長らく聞いていないお母さんの声は、色々なポップミュージックと混ざり合って耳鳴りのようにぐるぐるしている。
小学生の時は男の子みたいだってよく言われた。ケンカっ早いし、負けず嫌いだった。今はケンカなんてしない。思ったことはぐっと堪えて、心の奥底でぐるぐるさせておく。いろんな感情がアイスクリームみたいにぐるぐるとかき混ぜられて、まだ見たことのないマーブル模様をしている。
昨日はお母さんの命日だった。
あの日はバケツをひっくり返したような雨の降る日だった。渋滞を為した車の群れがどこまでも続き、赤いランプが運命の赤い糸のように地平線まで続いていた。
運命の赤い糸は普通白馬の王子様まで続いていて、私を連れて行ってくれるはずなのに、辿って着いた先は病院だった。赤い糸の先頭を灯すランプは、白文字の「集中治療室」を浮かび上がらせていた。私の頭の中は消毒の匂いと底知れぬ不安感がぐるぐるしていた。
治療室の前の長い無機質な廊下を私はぐるぐるしていた。確か床の色は薄緑だったと思う。ほこりは落ちていなかった。私だけが異物だった。私だってこんなところに居たくはなかった。壁にかけられた面白くない時計の中で、長い針と短い針がぐるぐるする。私もぐるぐるすることを止めなかった。
「いい加減目がまわるぞ」
父だった。いつからそこに居たのか、これもまた面白くないベンチに腰掛け、締めたネクタイは一切の緩みを見せず、四角いメガネをかけていつものように座っていた。まるでいつもの朝ごはんに納豆を食べる瞬間と言われても見紛うばかりだった。納豆はそこにはなかったけれど。
「目がまわるぞ」
うるさい、こっちは頭の中がぐるぐるしてるんだよ。目なんて何も見てないし、見えてもいない。いっそ目が回って、世界が回って、自転とか公転とか難しいことはわからないけど、ぐるぐる回って、全部がどっかに飛んでいけばいいと思う。後には赤いランプが煌々と灯った「集中治療室」だけが、ぽつんと残されるのだ。中には横たわった母を乗せて。
赤いランプがぱっと消えた。
廊下はこんなに暗かったんだと思った。赤い光に慣れていたせいか見える世界が変な緑色をしていた。閉じた瞼の中で眼球をぐるぐるさせる。
音もなく開いた扉から医師たちがでてきた。
その後のことは覚えていない。
時間と記憶がぐるぐるしていて、前が後ろで、上が下になった。私は私でなくなって、世界は世界でなくなった。すべてが見たことのないマーブル模様になった。
それからどれくらいの年月が経っただろうか。まだ、私はぐるぐるしている。思いっきり回したら真ん中の地軸が外れて、点々と転がっていく地球儀みたいに、めちゃくちゃにぐるぐるしている。
いつか止まるときがくるのだろうか。
今はまだその兆候は見えない。
でもお母さんはきっと言うと思うの、
「あなたらしく生きなさい」って。
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