第19話 生まれたての赤ん坊を抱く老人


その老人はいつも赤ん坊を抱いていた。

時には身を激しくもがきながら泣き叫ぶ赤ん坊を、時にはすやすやと眠る赤ん坊を。

彼はよく街を歩いていた、赤ん坊を抱きながら。

これまで多くの人々が彼に尋ねた。


「それはあなたのお孫さんですか?」


彼は答えた。


「いいえ、違います」


大半の人は眉を顰めた。


「なら、誰の子どもなんですか?」


老人は青く澄んだ目を向けながら驚いたように答えた。


「あなたに関係がありますか?」


大半の人はここで関わることを諦めるのだが、一部では熱心に質問を続ける人がいた。そんな時は老人は子どもをしっかりと抱きながら足速にその場を去るのであった。



彼はよく駅に現れた、赤ん坊を抱きながら。

人々の中には彼の娘がこの子どもの母親で、いつの日かあの列車に乗って迎えにくる日を二人で待っているのだ、と噂する者もいた。電車からは誰も降りてこなかった。そんなときは決まって子どもがむずかるものだった。老人は弱った足腰をぎしぎしと動かしながら、腕に包まれた赤ん坊をあやしていた。


「今日も母親待ちかい?」ある日太った駅員が彼に話しかけた。近くにいた人々は噂の真偽が確かめられると、目を輝かせて二人の会話を盗み聞きした。


「ああ、いえ」老人の答えはイエスともそしてノーとも取れるものだった。


「いつになったら来るんだろうな?」駅員は続けた。


「あの、、」老人が答えかけたところで、赤ん坊が火のついたように泣き出した。彼の意識は一瞬でそちらに奪われ、駅員の質問に答えることはなかった。人々も興味を失ったようにその場を離れた。




彼が公園に来る日もあった、赤ん坊を抱きながら。

この赤ん坊と同じくらいの年齢の子どもから、少し大きな子どもまで、公園にはたくさんの子どもが溢れかえっていた。

老人は少し距離を置いた、大きな木の下のベンチに座りながら、公園を走り回る子どもたちと腕の中の赤ん坊を飽きることなく見比べていた。


「またあの人よ、気味が悪いわ?」

「本当よねえ?」

「一体誰の子どもなのかしら?」

「誘拐だったりして?」

母親たちは身が凍るような妄想に囚われ、少し先でブランコを漕ぐ我が子の存在をしっかり捉えようと、凝視した。


老人はそんな会話が耳に入っているはずだが、一切取り合うことはなかった。腕の中の赤ん坊は幸せそうにあくびをしていた。



ある日、一人の旅人が雨の降るなかこの街を訪れた。

ひどい雨にびしょびしょになりながら、雨宿りできる場所を探して街道を走っていた。慣れない街でどこに行けばよいのか見当もつかないまま、がむしゃらに走っていると一軒の軒先が見えた。


しめた!ここで一休みしよう。そう思った旅人は走ってきた勢いそのままに軒下に飛び込んだ。


「ああ、すみません。驚かせてしまいました」


「いいえ、大丈夫ですよ」


軒下には先客がいたのだ、それは一人の老人と一人の赤ん坊であった。


「ひどい雨ですね」


「全くですね」


「赤ん坊が濡れてしまうと大変ですものね」


「そうなんですよ」


老人はいつになく機嫌の良い様子で旅人に応えた。


「かわいい赤ん坊ですね」


「ありがとうございます」


「天気が早く良くなって、家に帰れるといいですね」


「本当にその通りです」


雨は一向止む気配がなかった。ざあざあと降りしだく雨粒が軒先の縁からぼたぼたとこぼれ落ち、足元で跳ね返った。旅人はこの後の予定を考えながら、もしこのまま雨が続けば当初の予定を変えなければいけないことを心配していた。


「あなたは、私に、質問をなさらないのですか?」


思案に耽っていた旅人の鼓膜を掠めるように、また雨に少しかき消されながら届いた音は、最初線で結ばれない星座のように意味を為さない振動であった。


「あなたは、私に、質問をなさらないのですか?」


今度は少しはっきりと聞こえた。


「ええ、まあ」


しかしどう答えるのが良いのかわからず曖昧な返事であった。


「私は質問をされてばかりなのです。だから、質問されることにうんざりしていまして、ましてこんな雨に降り込められた中で、質問までされてはかなわないと思っておりましたが、あなた様はどうやら他の人たちと違うらしい」


またしても旅人はどう答えればよいかわからなかった。老人は続ける。


「質問というのは便利なものです。自らの内側を曝け出すことなく、相手の内側だけを一方的に暴くことができる。しかも質問した側は出てきた答えに対して、どう反応するかまで決めることができる。いわば言ったもの勝ちの早出し勝負みたいなものですね」


そう言われると確かにそうかもしれないと旅人は思った。


「そして質問というものの最もたちの悪いところは、往々にして大して興味もないままに聞いた内容が、相手の芯を抉るようなものであるということです。そして聞いた側はそんなことを全く意識していない。ただいっときの興を起こすためだけに消費されてしまうのです」


旅人は不思議と話を聞きながら、老人の腕に抱かれた赤ん坊を見遣った。赤ん坊は薄い髪を雨で濡らしながら、すやすやと眠っている。その小さな腕は何かを掴むように空へと突き上げられていた。

旅人の視線を追うように、老人は赤ん坊を見た。


「かわいいでしょう。これは私です」


「、、、今なんとおっしゃいました?」


老人は旅人の方を向き直るとこう言った。


「雨は止みませんな」


「はあ」


「質問というのは実に都合が良いものですね。子どもの頃、私はよく質問をしたものです。『あれは何?』『どうしてこうなの?』『なんでそうなの?』『いつになったできるの?』子どもは質問が得意です。しかしその質問に真剣に答えていると、いつしか子どもは白けてしまって、すぐに次の質問へと移っていきます。結局答えはなんだっていいんですよね、いや、なんなら答えなんて求めていないのかもしれない。なのに答えを必要としない質問ばかりが生産され積み上がっていく。ああ恐ろしい」


老人は実際に身震いした。よく見ると雨に濡れそぼった老人の腕は細く、今にも赤ん坊の重みに耐えきれずに折れてしまいそうだった。


代わりましょうか?という言葉が喉まででかかったが出会ったばかりの他人にそう言われても困るだけだろうと思い留まった。


「抱いてみますか?」


そんな旅人の心を読んだかのように老人はこう提案した。


「いいんですか?」


その言葉には応えずに、老人は旅人に近寄って腕の中の赤ん坊を旅人に預けた。


それは命の重みがした。

雨に濡れて冷え切った体に染み渡る温もりを湛えていた。

旅人は思わず顔を近づけて胸いっぱいに赤ん坊の匂いを嗅いだ。

甘いミルクのような、どこか獣くさいような、晴れた空を思い浮かべるような、曇天に沈む街を思わせるような匂いがした。

突き出された手のひらに自分の人差し指を近づけると、赤ん坊はひっしと握り返してきた。

ぷっくりと膨れた頬は、触らずにはいられないような弾力に富んでおり、何度も何度も指で突いては柔らかく押し返してきた。

小さな足の裏をくすぐると赤ん坊はくすぐったそうに身を捩りながら可愛らしい笑窪を湛えて笑った。




「ありがとうございました、おいくつなんですか?」


ようやく旅人が目を上げ、こう質問をすると老人は既にいなくなっていた。

あたりを見回してみても人っ子一人いない。居るのはただ自分と、その腕の中で眠る一人の赤ん坊だけであった。

途方に暮れた旅人は、雨があがっていることにふと気づいた。

おずおずと旅人は雨のあがった街へ一歩を踏み出した。

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