第9話 海は空より広く

 飛沫を上げる白波は、どこからやってくるのだろうか。波の生まれる瞬間を見てみたい、と少年は考えていた。


 この広く、太陽光にきらきらと輝く、風に乗って磯の香りを運んでくる海からは、昼夜を問わず、大なり小なりの波が打ち付けている。


 少年の立つ砂浜の縁は、引いては寄せる波に洗われて灰色になっている。少年はそこに置いた自らの足が、何度も何度も波に弄ばれる様を、じっと見続けていた。少し斜面になっているところに立つと、波が引く際に足元の砂が崩れ、海に引っ張られそうになる様もまた一興だった。

 

 「海は怖いものよ」


 少年の母はよく言った。こんなにも綺麗な海が、どうして怖いのか少年には理解できなかった。たしかに、荒天の海は恐ろしい。黒々と渦巻く海面と、遠く彼方から地鳴りのように低く聞こえる風の音など、到底普段の海と同じとは思えないような様子を見たことだってある。だが、そんなときは近づかなければよいのだ、自分が好きなのは晴れた空が広がる、波の穏やかな海なのだから。



 「あれ?」


 その日も穏やかな海模様だった。

 少年の眼が捉えたのは、最初はほんの小さな黒点だった。先日の雨で流された流木だろうか、それなら今までだって見つけたことがあった。

 その黒点は波に揺られ、少しずつ少しずつ少年の方へと近づいてきた。

 それが小さな舟であることは、ある程度前から分かってはいたが、それに乗る人の姿が見えなかったため、頭が舟であるという理解を拒んだのだった。未だかつて、人の乗らぬ舟というものを見たことがなかったのだ。

 

 少年はどうすべきか悩んだ。


 あの舟に近づいても良いものだろうか、と。


 そういえば母から聞いたことがある。かつてこの近辺では人攫いがあったと、もしかしたらあの舟には身を屈めた人間が潜んでおり、近づいた少年を容赦なく襲うかもしれない。ぶるっと震えた。


 いやいや、もしかしたら乗り込んでいた人は中で死んでしまっているのかもしれない。舵を失い、洋々たる海の上で1人死んだ人間が居たのだとしたら激しく気の毒である。無念の表情を浮かべた死体が、近づいた少年を呪うかもしれない。足元ががくがくした。


 もしかしたら、まだ息はあるが動くことが叶わないのかもしれない。ようやく辿り着いた岸を目にしても動けないほどに衰弱した人間が乗っているのなら、少年は人として、まさに人として、救いの手を差し伸べるべきだた感じた。心臓がどくどく脈打った。




 果たして、思案に暮れるうちに舟は目と鼻の先まで来ていた。少年は恐ろしさ半分、興奮半分といったところで、すこし足踏みしながらも舟へと近づいた。ざぶざぶと音を立てる足元の海水が冷たく脛を濡らしていく。


 誰も乗っていなかった。


 しかし、一冊のノートが落ちていた。


 奇跡的にほとんど濡れていないノートを、舟の底から拾い上げた。厳しい日光に晒されて表紙はすっかりと色褪せている。元の色がどのようなものであったか判じることすら困難な程であった。


 少年は開いた衝撃で崩れてしまわないよう、そっと胸元に抱え家へと持ち帰った。


 夜、両親が寝静まった後、少年は布団を被った中で懐中電灯を灯した。もちろんノートを読むためである。難しい字ばかりであったらどうしよう、とも思ったが中身がどのようなものかわくわくする気持ちが大きかった。



 果たして中身はいかなるものであったか。残念ながら少年にはほとんど理解のできないものばかりであった。恐らく、少年が使う言語とは遠くかけ離れた文字で書かれていたのだ。

 がっかりした少年がぱらぱらとめくる。そしてあることに気づいた。初めの方は丁寧な字体で書かれていた文字が、後半に下るに連れて殴り書きのようになっていくのだ。

 内容はわからずとも、書き手の昂る感情がそこから読み取られた。最後のページには大きくたった一文字が書かれている。一体何を、誰に伝えたかったのだろうか。少年にはわからなかった。また、最後のページには一枚の写真が挟まっていた。


 裏返しになっていた写真をめくると、そこには広く、青く輝く海が切り取られて収まっていた。





 その後、少年は大人になり海へと繰り出すこととなる。その際、胸元にはかつての写真が収められていたということだ。


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