第8話 街角の天使
ざわざわ、、、ひそひそ、、、、がやがや、、、、
街を流れる人の波は、その場に一瞬の賑やかさを残しては、通り過ぎていく。
「ゆく川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」
これは水に限らず、人間でも同じようなことが起きるのだと、男は路上で生活を始めてから知るようになった。絶えず目の前を流れる人々は、一つ一つが固有の存在であるはずだが、男にとっては昨日・今日・明日と常に過ぎゆく色のない存在と同義だった。
川を組成する水が、こちらから干渉しない限り、こちらの意思とは無関係に流れ続けるように、人々もまるで男なんて存在しないかのように流れていった。時たま興味深そうにこちらを見つめる子どももいたが、隣を歩く大人という流れに運ばれ、一瞬で彼方へと運ばれていった。また、男も流れそのものを見ながらも、そこを流れるもの一つ一つには気を配ることがなかった。
「干渉せず」
これが、世界と男の間で交わされた暗黙のルールだった。
関わることがなければ、いらぬ荷を背負わされることもない。
背負うものがなければ、男はどこまでも自由だった。
流れに乗るというのは、実に楽なことだ。そこでは、ただ流されるだけでよい。流れに逆らうのには力と勇気が必要だ。そして疎まれる存在となる覚悟もいる。男はどちらに所属することも嫌だった。
そして選んだ場所が、この街角に居続けることだった。
ここでは男は流れに乗ることも、また流れに逆らうこともしない。ただ傍観するのみである。男が考えるに、この世の人々の多くはこの流れによって少なからず苦しめられていた。
ある日気がつくと、男の横には一人の女が座っていた。
女は何を言うでもなく、また何をするでもなく男と一緒に座っていた。男も特段声をかける必要性を感じていなかった。
一組の男女が街角に居続ける。
彼らは何をするでもない。ただそこに居る。人々は変わらずに流れ続ける。
ある時気がつくと、一匹の薄汚れた犬が男の足元で涎を垂らして伏せっている。男と女はその犬を一瞥すると、再び目の前の流れへと視線を投げかけた。
二人と一匹は街角に居続ける。
人々はただ、三対の眼前を流れ続ける。
ある時には、足腰の弱った老人が車椅子に乗ってやってきて居続けた。
ある時には、年端もいかない子どもが泣きながらやってきて居続けた。
ある時には、指輪の輝く手を取り合った夫婦らがやってきて居続けた。
ある時には、右の翼が少しだけ折れ曲がった鳩がやってきて居続けた。
ある時には、腹を空かせて目を回した二十日鼠がやってきて居続けた。
ある時には、仕事にほとほと嫌気の差した天使がやってきて居続けた。
ある時には、走ることもままならなくなった車がやってきて居続けた。
ある時には、圧倒的な太陽光に追いやられた雨がやってきて居続けた。
ある時には、後悔と懺悔を抱えた死人の魂たちがやってきて居続けた。
ある時には、風に乗って飛んだたんぽぽの綿毛がやってきて居続けた。
ある時には、誰かがどこかで落とした靴の片方がやってきて居続けた。
ある時には、蜜を集め過ぎて体が重くなった蜂がやってきて居続けた。
ある時には、はしゃいで回る子どもの大きな声がやってきて居続けた。
ある時には、
ある時には
ある時に
ある時
ある
あ
気がつくと街角にはたくさんのものが溢れていた。もはや街角ではなくそこが街の中心であった。かつて目の前をいった流れは途絶え、皆がその街角に澱んでいた。
「澱んだ水は腐る」
男は立ち上がると、誰にも、何も言わず、一人何処かへと流れていった。
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