第8話 舞い沈む手紙
「いいか、これは水に濡れても大丈夫な不思議な紙なんだ」父はそう言って、幼かった私へ、お土産を買ってきてくれた。
「本当に濡れても平気なの?」紙といえば、手汗ですら文字が滲んでしまうことを知っていた私は不思議でいっぱいだった。
「ああ、これがあればお風呂に入りながらでもお絵描きできちゃうぞ」父はとても嬉しそうに言った。別にお風呂に入りながら絵を描きたいと思ったことはなかったが、幼心に楽しそうな父を傷つけてしまわないよう、
「すごいや、前からお風呂で絵描きたかったんだ!」と言ったように記憶している。
実際にお風呂でこの紙を使ったのは一度きりだったが。
ひとしきり盛り上がった後は、この紙は机の上から2段目の引き出しの奥深くに仕舞われ、記憶の奥底に沈んでいったのだった。
次にこの紙を目にしたのは、住んでいた家を引っ越すことになった時だ。
父は信用していた人間に裏切られ、多くの借金を抱えてしまった。昼夜を問わず押しかけてくる借金取りから、命からがら逃げるように家を飛び出してきた。その際、母は初めて見るような険しい顔で、1時間で荷造りを済ませるように言い放った。
「いい?いらないものは全部捨てなさい。それも、あれも持っていかなくていいから!」母がそれと言ったのは友人から借りていたマンガで、あれと言ったのは夏休みに父と採取してきたカブトムシの入った虫かごだった。
「でも、どっちもいるよ。マンガは明日返す約束だし、カブトムシはボクがエサをあげないと死んじゃうよ」私は懇願するように母に訴えた。
「それがないと私たちは生きていけない?そうじゃないでしょ、今は諦めなさい」母は余裕のない早口で、冷たく言った。
私は泣く泣く、マンガやカブトムシなど、当時の私のとって宝物であり全財産とも言えるものを鞄に詰めることを諦めた。
どこに行くのかわからないが、勉強はしなければいけないだろうと引き出しを開けた時、例の紙が出てきた。
父は嬉しそうに濡れても大丈夫だと言っていた。
その時の顔がふとよぎったのだ。気がつけば私は、一冊だけ詰め込んでいたマンガを引っ張り出し、代わりに紙の束を端が折れないように詰めた。どうしてあの時、紙を持っていこうと思ったのか説明することは難しいが、きっとマンガより大切であることを直感的に感じ取っていたのだろう。
次にこの紙を目にしたのは大学受験の結果、父の元を離れて暮らすことになった時だ。
夜逃げのばたばたで紙は一時期失われたかのようだったが、押し入れの奥の段ボールから発見された。母は心労が祟ったのか、新天地に着いてから長くは経たないうちにあっけなくこの世を去っていた。
家を立つ前の日の夜、私は父に例の紙を見せることにした。
「父さん、これ覚えてる?」母がいなくなってから、自然と会話が減っていた二人の間に交わされる、しばらくぶりのたわいない会話だった。テレビから目を逸らし、こちらを見た父は、
「ああ」と言った。
「まだ濡れても大丈夫かな」
「どうだろうな」缶ビールを一口啜る。
「久しぶりにやってみる?」
「お絵かきか?」
「そう」
「風呂で一緒にか?」
「まさか」
久方ぶりに親子の間で笑顔が見られた。
「じゃあ、父さんにメッセージを書くよ。それから、お風呂の湯船に沈めておくから、後で読んでみて」どうして、このようなことを言ったのかわからない。おそらく素直になれなかったあの時期にありながら、明日離れてしまうことに少し感傷的になっていたのだろう。父は少し驚きながら、
「ああ」と答えた。
正直、どのような文言を書いたのかは覚えていない。だが、次の日駅まで見送りに来た父の胸ポケットには、昨日私が風呂に沈めた手紙が刺さっていたことだけは、今も記憶にはっきりと残っている。
次にこの紙を目にしたのは、父の葬儀が済んだ翌日だった。
慣れない弔事に疲労困憊した私が、やっとのことで自宅に帰り着いた時、ふと例の紙の存在を思い出した。しまっていた引き出しから引っ張り出すと、大学生になる時、父に宛てた手紙を書いたことを思い出した。もう、送る相手はこの世にいないのに。
気がつくと私は、ペンを手にしていた。
〈お父さん、お母さん。お元気ですか。
いや、二人とも死んでしまったんだから元気も何もないのかな。
ボクは元気にやってるよ。お母さんは知らないだろうけど、あなたには孫もい
るんだよ。元気いっぱいで育てるのが大変だよ。ボクも大変だったのかな。
昨日から「じいじに会いたい」って駄々をこねて大変だったんだ。お父さん
の葬式でも暴れちゃって、急いで外に連れて行ったんだよ。まあ、こんなこと
言わなくてもお父さんはそこにいたから、全部知ってるよね。
今まで、色々あったけどボクは大丈夫だよ。マンガやカブトムシより大切なも
のだって、手に入れたしこれがなくなったら生きていけない、本気でそう思え
るよ。ボクが二人に会うのは、どれくらい先になるかわからないけれど、安心し
てね。ボクたちはまだ、しばらく生きていくから。だから、それまで少しバイ
バイ。〉
私はこの手紙をビンに詰めた。どこに送れば二人のところへ届くのかわからなかったのだ。だから、海へと流すことにした。
翌朝、日が昇り切る前の時間、私はいつの日か家族で行ったことのある海へと車を走らせた。
潮の香りが鼻を突き、寄せては引いてを繰り返す波音が耳を打った。踏み締める砂は足元で崩れ、振り返れば今まで生きてきた軌跡のように、確かにそこに跡が残っていた。しっかりと栓をしたビンの中には、いつの日か父から貰った濡れても大丈夫な紙が入っている。
目を正面に向ければ、昇りたての太陽が真っ赤に私の目を貫いた。
私は、ビンをそっと波に乗せた。
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