第7話 ついに雨が降った村
雨。
恵の雨。
命を育み、生命に循環をもたらす。
時に牙を剥いて、その暴力的な勢いで全てを無に帰す。
無から有を生み出し、有を有足らしめる。
この村ではもう5年もの間、雨が一滴も降らなかった。
「お母さん、起きてお母さん」少女の悲痛な声が家中に響き渡る。もっとも家といっても、かろうじて家の体裁を保っている荒屋である。空気の澱んだ小さな部屋の真ん中に敷かれた布団の上には、今まさに息を引き取らんとする女性が横たわっている。かさかさに割れた唇、落ち窪んだ瞳、血色の悪い首筋。どれをとってもこの女性が長くないことは明白だった。
「お母さん、いやだよ、ひとりにしないでよ」そんな女性に縋るように座っている少女は、齢十二歳程度であろうか。汚れた服を身に纏い、痩せ細った腕を露わにしている。その手の先は、先の女性の手と繋がれている。どちらが病人の手か見分けがつかない程よく似通った手だ。
「水」声とも息ともつかない空気の震えは、おそらくこの寝たきりの女性の喉から発せられたのだろう。水が欲しいのね、少女は慌てて枕元に用意していた水差しに手を伸ばし、薄く汚れたコップに水を入れた。少し慌てていたのか勢いよく注がれた水が跳ね返り、数滴枕元に染み込んでいった。
「お母さん、水だよ」少女は震える手でコップを母の口元に近づけた。女性はもはや自力で首を起こすことすら叶わなくなったと見え、微かに首元に筋が浮いたもののコップに合わせて頭を上げることはできなかった。そこで、少女は空いた手を優しく母の後頭部へと滑り込ませ、ゆっくりねと呟きながら持ち上げた。まるで、豆腐を水から掬い上げる時のように、あくまで優しく、あくまで丁寧な所作であった。
乾いた風が吹きつけ、隙間の多い家屋を揺らした。家のどこかから、ぎしぎしと軋む音が聞こえた。少しずつ口の中に流し込まれた水は、緩やかな小川を連想させた。コップから暗い穴の中へと吸い込まれた水は、外目には見えなくなっても確実に母の中へと吸い込まれていく。その証拠に細りきった喉元が微かに上下する様子が確認される。吸い込む力が弱くなっているのか、入り切らなかった水が口元から溢れた。細い糸のような軌跡を描いて、首へと流れたその水はやがて寝巻きの襟へと吸い込まれていった。
「お母さん」もはや女性には、反応する気力すら残されていなかった。半分ほど開かれた目は濁っていて、見えているのかいないのか判断はつかなかった。もしかしたら、その視線は屋根を突き抜け、その向こうの空を見ているのかもしれない。母がこうして死に瀕しているのはこの村に雨が降らないせいだと少女は考えていた。
「雨さえ降れば」思わず口を突いてでた恨み節は、この村の至る所で聞こえてくる言葉であった。5年もの間、雨が降らなかったこの村では当然のごとく作物なども育つはずがなかった。一日に何時間もかけて歩き、やっとのことで僅かな食糧とあまり清潔ではない水を得る生活は、この村に住む人たちのエネルギーを奪い取るに十分であった。奪われたのはエネルギーだけでなく、こうした生活が原因で病にかかる人は後を絶たず、多くの命が奪われた。それでも、人々がこの村を出なかったのは、一つの夢があったからだ。
この村には古くから言い伝えられてきた伝承が存在する。それは一頭のクジラが、月の輝く夜半にどこからともなく飛来し、この村の上を何度も何度も円を描くように飛び回るというものだ。そのクジラが流した涙が、大地へと降り注ぎ豊かな水源を作り出し、濃い緑と多種多様な命を育むといったものだった。
人々はこの伝承が忘れられなかった。いつの日かこの村にはクジラが飛来し、自分達は救われるのだ、と。
「お母さん」少女にとってこの時間は耐え難い苦痛の伴う時間だった。目の前で母の命が燃え尽きんとするその様を、自分はただ見ていることしかできない。母の苦しみも共有できず、何かをしてあげたくても何をしてよいかわからない。少女は己の無力さを呪った。母を死に追いやる病を呪った。雨の降らない村を呪った。いつかいつかと希望ばかりを見せて、やがてどうしようもない絶望をもたらすクジラを呪った。世界を呪った。
「お母さん」すでに母は事切れていた。呆気のない最期であった。呆けた顔をしていることから察するにさほど苦しんだようには見えなかった。でも、少女は母との最後の瞬間を、他を呪うことに使ってしまったことを生涯悔いることとなった。
少女は吼えた。
クジラよ、姿を表せ!
その恵の涙を、この汚れた家の上に落とせ!
屋根をも突き破る勢いで降り注ぐ、その命の水で母を生き返らせろ!
さもなくば、私は、一人でこの世界に立ち向かわねばならないのだ!
少女の両目からとめどなく流れた涙が、母の全身を濡らす時、村よりもっと遠くの方からクジラの吼える声が聞こえた。
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