第6話 銀河亭でイカした食事を
細長い一枚の鏡でできたカウンターの前には、木でできた質素な椅子が8脚並べられている。
大人が10人も入ればいっぱいになってしまうこの店の名前は「銀河亭」。文字どおり、上に大きく採られた天窓の向こうには、黒く染まった宇宙空間に、中心部分が眩く輝く銀河が浮かんでいる。じっくり見ないとわからないほど、それはゆっくりと動いていて見ていて飽きることがない。
最初の星が光り出すこの時間、店には隣り合って座る1組の男女しかいなかった。男の前にはジョッキのビール、女の前には細長いグラスにライムの浮いたジントニックが置かれている。渦巻く銀河を中心にあしらった紙のコースターには、垂れた水滴が付着していた。
「ここで会うのは何回目になるだろうね」男が楽しそうに言う。
「そうね、ほんの数回かしら。もっと昔からの知り合いだった気がするわ」女が口端に笑みを湛えながら、グラスのジンにそっと口付ける。
男はちらっと天窓の向こうの銀河を伺いながら、同様にビールを口に含む。
「最初は、このカウンターの端と端に座っていたんだよね」
「そう、そしてそこで目が合って。あなたがウインクしてきて」
「そんな、君が先にウインクしたんじゃないか」
楽しそうに笑う2人の膝が軽くぶつかり合う。
「私、あなたに会いたくて店に来たことがあったの。でも会えなくて、1人で座ってこうしてジンを飲んでた」
「僕もそうさ」
「本当に?その時はひどく酔ってしまって恥ずかしかったわ。入口ばかり気になってしまって落ち着かなかった」
「本当に同じだ」
入口のドアは内側が鏡張になっていて、そこには二人して覗き込む笑顔の男女が映っている。
「それから通うなかで、こうしてまた会うことができて。でも、最初はなんだか恥ずかしくて話しかけることもできなかった。勇気を出して1つ席を縮めたら、あなたも1つ席を近づけてくれたわね」女は再びグラスを口に運んだ。
「あの時は、気持ちが通じたような気がして嬉しかった」男も合わせるようにビールを含む。
「今度店に来たときは、1つ距離が縮まったあの席に座って。そしてあなたと出逢えたら、また1つ席を近づけて」
「ようやく隣り合うことができたね」男は大きく深呼吸をしながら、頭上の窓の向こうを見遣る。女もつられて目を遣った。
「まだあなたの名前を聞いていなかったわね」女は、なぜ今までそうしなかったのだろうかと訝しがりながら、こう尋ねた。
「名前ね、名前はまあいいじゃないか」男は口幅ったそうに返した。
「どうして、名前がなければ困るわ」
「現に今まで困らなかったじゃないか、そして君の名前も知らないが僕は困っていない」
「そういうものかしら」女は腑に落ちてはいないものの、これ以上追及しても無駄だと感じたのか、口をつぐみ半分ほどになったグラスを傾けた。
「この店は落ち着くな」男は周囲をぐるっと見渡しながら呟いた。
「あなたはこの店のどこが一番好き」女は悪戯っぽく笑いながら、男の方に少しだけ身を乗り出す。
「そうだな、ビールの味も良いが何といってもやはりこの景色の良さだろうね」男は組んでいた足を組み替えながら答えた。
「私、時々怖くなることがあるわ」
「どうして」男はタバコに火をつけながら尋ねた。薄く立ち上る紫煙が、まるで銀河に吸い込まれていくようである。
「小学生の頃、鉄棒で布団を干すみたいにして逆さになったことはない?あのときと同じような、気持ちになるの。足元に空が広がっていて、いつか吸い込まれてしまうんじゃないかって」
「んー、でもあれは頭の上じゃないか。ひっくり返って見るわけでもないし」
「それでもそうなの、頭の上から少しずつ吸い込まれていってだんだん伸びて、薄くなっていくような感覚。あなたはなったことない?」
「どうだろ、そんな風に考えたことがないな」吸い終えたタバコを灰皿に押し付けた男の薬指には、指輪が鈍く光った。女は指輪を一瞥してから、銀河を覗く。
「楽しい話をしましょ」
「いいね」
「宇宙にはあんな銀河と同じようなやつが、もっとたくさんあるのよ。そして、銀河があるところには必ず銀河亭がある、だから私たちみたいな人がこの宇宙にたくさんいるのよ、それこそ無限に!」
熱っぽい眼差しで話す女を、男は愛おしげな眼差しで見る。
「もしそうだとしたら、どれだけ楽しいことだろうね」
「私が今考えていることも、きっと色々なところの私が考えていることなんだわ」
「そう聞くと、少し怖い気もするな」男は肩を竦めながら言った。
「怖くなんかないわ」女は氷が溶けて薄くなったジンを飲み干した。
「もう1杯?」
「ええ、あなたはどうする?」
「僕は、遠慮しておこうかな。明日も仕事が早いんだ」
「そう」女は不服そうに言った。
「ごめんよ」
「また会えるからいいわ」女は気を取り直したように笑った。
「ご覧よ、名も無い星が流れていく」男は話題を逸らすかのように窓を見上げて言った。女は本当ね、と呟いた。
温くなったビールを飲み干すと、男は下に敷いてあったコースターをポケットに滑り込ませた。今日限りでここには来ないだろう。男はさようならの代わりに、女の顔を目に焼き付けようと思った。
上着を着て立ち上がった男を見る女の顔は、酔いで頬が上気していた。
「さようなら」女が微笑んだ。
男は背を向け、ガラスのドアを押しやると冷えた空気の中へと歩き出した。ゆっくりとドアが閉まるとき、つけられた鈴が微かに鳴った。
天窓の向こうには、相も変わらず銀河がどこまでも広がっていた。
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