第2話 落下中の女

 地球は丸い。



 普段、町のなかに住んでいても全く見ることがかなわない遠くの山々が、ぐるっと円環状に連なっていることが確認できる。そうだ、この町は昔から山に抱かれるようにして立っていたのだ。そこで生まれた私も、山の恩恵を浴びて大きくなったに違いない。


 下から上へと、耳元を通り過ぎる風は、暴力的な音を立てている。この勢いで耳がちぎれちゃわないかしら、と女は不安に思いつつも、風に乗って飛んでいく自分の耳を想像すると笑みがこぼれた。きっと、ぶるぶる震えながら昇っていくんだろうな。


 落ち始めてから約15秒が経過しただろうか。ぐんぐんと高度は下がるものの、まだまだ地表は遠い。正面に見える奥の山の頂には薄く雪が積もっていることが確認できた。雪はいいわ、と女は思った。雪は汚い町も、そこにあるごみも均等に覆って見えなくしてくれるもの。でも、その上を滑るのは苦手だわ、と女は思った。


 昔から、「滑る」ということが苦手だった。むしろ、苦手というよりは恐怖の対象であったのではないかしら。スケートも、スキーも、スケートボードも、ローラースケートも、かかとにローラーが仕込んである靴も、周囲のみんなはごく自然に滑っているのに、女だけは上手く滑ることができなかった。どうしてかしらね。


 先ほどからさらに30秒程が経過しただろうか、地表はまだまだこれからだ。さっきまでは山の頂上よりも上にいた女だが、今はちょうど真横から見ると、山の稜線に重なるくらいのところに位置していた。滑ることは怖いわね、女は未だ「滑る」ことについて考えていた。身体を軽々と持ち上げてしまうような、強靭な大気の渦に揉まれながら、女はくるくると落ちていく。「滑る」ことの何が怖いのか、ちょうど時間もあることだし考えてみようかしら。


 きっと自分で制御できない、アンコントローラブルな状態が苦手なのね。止まりたい、進みたくないと思っても、身体は思ってもいない方向にいってしまうもの。それが苦手なんだわ。苦手といえば虫も苦手である。特に薄っすらと毛の生え揃った虫がだめよね。どうして、あんなに身の毛もよだつのかしら。ときどき、手入れを少し怠ったときに、自分の鼻の下に生える細やかな毛ですら、鏡越しに光を浴びてきらきらしている姿を見ると、ぞっとしてしまう。


 やっぱり少し肌寒いわね、女は思った。女の服装はTシャツにだぼだぼのスウェット、靴下はお気に入りのキャラクターが描かれたもの、以上だ。


 あー、やっぱり長袖にしておくべきだったかしら、女は悔やんだ。落ち始めてから2分は経過しただろうか、さすがに地表が近づいてきた。ちょうどスマートフォンで画面をピンチするみたいに、さっきまでは見えなかった細々としたものが見えるようになってきた。あれは私が生まれた病院。あれは私がいじめられた小学校。あれはほとんど通うことのなかった中学校。あれは無理やり受けさせられた高校。そして、あれは私が住んでいた家。


 二人で暮らしていた母が亡くなったのは、つい先週のことである。病気一つ知らないことが唯一の自慢であった母は、ついに本人は病気を知ることなくこの世を去った。ステルス性のガンと呼ばれるものらしい。入院してからも、本人には病気のことを知らせないままでいた。瘦せ細りながらも、退院後にどこに旅行に行こうか、なんて話していた日がすでに懐かしい。


 視界一杯が地表で埋め尽くされる。まだ、頭の上の私に気づいている人はいないみたい。どいつもこいつも、前だけを向いて歩いているわ。今の御時世、空をのんびりと眺める人間なんて絶滅してしまったのかもしれない。きっと、今、空を見上げると黒いゴマみたいな女の影が見られることだろう。あるいは、大きめの鳥と空目するかもしれない。母は鳥が大好きだったわ。「鳥はいいわね。どこまでも自分の好きに飛んでいける」寝たままの母は、横を向くことすら億劫なほど重い首を、なんとか動かし小さな窓に切り取られた、小さな空を見遣る。「空も、大地も、海も。ここから見える世界はほんの小さなものばかりだけど、鳥の目を借りることが出来れば、きっと、とっても大きく見えるはずよね」母の目には涙が滲んでいた。


 女が四角い小さな窓から、視線を戻すと、既に母は絶命していた。最後に流した一条の涙は、歳の割にしわが少ないって褒められるのよ、と自慢していた目尻を伝って、枕カバーにぼんやりとしたシミを作っていた。 


 

 鳥のように、自由に気の向く方向へ飛んでいくことはできないけれど、母と暮らした町を、人をこの目で見ることは出来る。小さく区切られた、小さな世界ではなくどこまでも続く、広大な地球を女は、自分の目を通して母へと伝えたかった。あなたは、こんなにも美しい世界に生きていたのだ、と。


 「今、この映像を届けに行くね」女の眼前には、灰色一色のコンクリートが迫っていた。











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