とある世界、とある町、とある人

稜雅

第1話 深海で眠る男

 光は遙か頭上にて漂い、霧散し、男の元までは届かない。男が普段眠る場所は、冷たい水が穏やかに流れる深海の、岩の陰だった。

 そこでは多種多様の深化を遂げた生き物たちが息をひそめるように暮らしており、地上では想像もつかない姿形をしているものたちが周囲を取り巻いていた。男がここに暮らし始めて、はやくも2年が経とうとしている。かつて男は、その他大勢の人間たちと同じく光あふれる地上に暮らしていた。


 父と、そして母に抱かれ、乾いた空気に包まれて成長した男は、一端の社会人にまでなったのだが、人間関係でそりが合わず、孤立することが多かった。なにもこれは働きに出始めてからそうなったわけではなく、幼いころから一人で過ごす時間の方が圧倒的に多かったことは言うまでもない。


 父は昔気質で、男児たるもの外で大いに遊び、時には喧嘩をして、絶えずけがをしているくらいがちょうどいい、などと言い放ち、男の性格を認めずにいた。いや、認めないばかりか叩き直してやろうと躍起になるほどであった。父からすれば男の性格は病の類と同じで、適切な処置と適度なプレッシャーで曲がったこの先の人生を真っ直ぐに直せるものだと考えていたらしい。


 母は優しくも気弱な人間で、父に逆らうことができずにいた。それでも、我が子に対しては彼女なりの愛情を注いでいたように思われる。よく父に叱られ泣いている男を、膝の上に乗せては「あなたは悪くないのよ、悪いのは周りを泳いでいるお魚さんたち。それとこの町を満たしている水が腐っているだけなの。こんな腐った水のなかで息がしづらいのは当たり前。まして、私たちのようなきれいな水でしか生きられないお魚さんたちはね」と、男が泣き止むまで頭を撫でながら話しかけてくれた。


 男は大きくなり、父は数年前に病でこの世を去っていた。家の中から父が居なくなり、がらんとした空気が母と男を包んでいた。男は職場を転々とし、どの場所も同じような理由で続けることができなかった。さすがに大きくなりすぎた男を膝に乗せ、かつてのように頭をなでることをしなくなった母だったが、父が亡くなってからというもの、張りをなくしたように衰弱していくのが素人目にも解った。そこで、男はほんのわずかの貯金をはたいて、段ボールサイズの水槽と小さな魚たちを買ってきて母に与えた。かつての言葉を今でも忘れていなかったのだ。


 水槽には絶えず、きれいな水を満ち満ちとたたえ。魚たちが暮らしやすいようにと藻の類も入れた。その藻が光合成をおこない酸素を供給してくれるとショップ店員が言うので、家の中でも一等日当たりの良い場所を選んで置いた。それはたまたま母の寝室の窓際でもあった。


 この時分には、母はほとんど寝たきりの状態となっており、もう永くはないだろうということは男にも十分に理解できた。それでも、母は陽だまりのなかで泳ぐ魚たちをじっと見つめ、かさかさに乾いた唇の端をちょっと吊り上げて微笑みながら、「エサを欠かさずあげてちょうだいね」と男に言い含めていた。



 「わたしたちは生まれる場所を間違えたの。あなたが生きづらいのはそのせいよ。こうして太陽に包まれながら生きるはずではなかったの。じっと岩場の陰に隠れて、冷たい水に肌をさらしながら、一日をじっと過ごす。何物にも脅かされずに。そうして生きるはずだったから、あなたにとって世界は刺激が強すぎるのね。ごめんなさい。あなたをこんな世界に残して去って行く私たちを、どうか許してほしい。そして、できれば、私が生まれ変わったらきれいな水と、静寂に包まれた場所で生きていけるようにと、祈っていてほしいの」男は黙って手を握り、涙を堪えながら何度も頷いた。母が静かに息を引き取るとき、窓際の水槽の一匹がぽちゃんと陽だまりに跳ねた。


 男がその後の整理を行い、一息つく頃には時間が経ち過ぎていた。男にはもはや、この世界と戦っていくだけの気力も、体力も残されてはいなかった。そして、なによりも水が悪かった。気が付くと男の足は海へと向かっていた。朝日の昇り始めた水平線はどこまでも広く、空は赤く焼けていた。


 ざぶざぶと踏みしめた足に絡みつく水の冷たさが心地よく、水を吸って皮膚に張り付く衣服は気色が悪かった。靴を脱ぎ、靴下を脱ぎ、ズボンを脱ぎ、下着を脱ぎ、マフラーを脱ぎ、上着を脱ぎ、シャツを脱ぐ頃には海面に出ているのは男の顔だけとなった。最後に、今まで生きてきた町の方へと首をひねった。男の目には黒くどろどろと淀んだ水が、町を満たしていて、そこで苦しげに呼吸をする醜い魚たちの姿が映っていた。


 男は生まれて初めての、心安らかな気持で、自分が本来生まれるはずだった場所へと踏み出した。



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