春がくる前に

ばんり

春がくる前に




 2022年1月14日は大安、一粒万倍日いちりゅうまんばいび

 スマートフォンの画面に表示されたネットニュースをスクロールする。「倍に愛が育つ」と言われ、好きな人に想いを伝えたり、大切な人との関係を進展させるにはとてもいい日だ、と書いてあるのを斜に眺めて私は画面を閉じた。

 では、育ってもらっては困る愛が存在する場合は、どこに閉じ込めればいいのだろう。倍に、頑丈な、たやすく外れないような鍵をかけなければいけないのか。大変な一日だ。

 車内アナウンスが静岡駅への到着を告げる。新横浜から静岡までなら、たったの40分。新幹線ひかりは私には物足りない。

 昔から乗り物に乗っている時間がたまらなく好きだった。バスでも電車でも新幹線でも、鈍行がいい。車内に座っている時にある種の非日常感を感じられるからかもしれない。

 新幹線を降り、空気の冷たさに肩をすくめる。今朝から降り続いた雪は、夕方頃から地面に薄く積もりはじめた。

 初めて来た静岡駅は想像よりも小さかった。勝手に京都駅や大阪駅をイメージしてしまっていたからかもしれない。

 改札の向こう側に、見覚えのある顔が立っているのが見えた。濃いブラウンのスタンドカラーコート。ポケットに両手を突っ込んでいたが、私と目が合うなり小さく手を振った。

「お疲れ様です」

「ひかりは早すぎるね」

 私が不服そうに言うと小野おの明幸あきゆきはワイヤレスイヤフォンを外しながら笑った。

「でしょ。僕も驚きました」

 最後に見た時よりも前髪がやけに短くなっている。

 明幸は私の職場の後輩だ。正確に言えば、後輩だった。一か月前に転職し、横浜から静岡へ引っ越してしまったのだ。

「転職先はどう?」

「想像してたより良いところでした。デスクワークにはまだ慣れませんが、ぼちぼち」

「寂しいって泣きついてきたくせに」

「夜はまだ泣いてますよ。一緒に働いてたみんなが恋しくて」

 ふざけて泣きふりをしてみせる明幸の背中をバシンと叩いた。


『先輩に会いたいです』


 そう連絡が来たのは数日前の話だ。

 職場内で私たちは特別仲が良かったわけではなかった。たまに二人で仕事帰りに飲みに行き、上司の愚痴を言い合う程度だった。

 たった一度、身体の関係を持ったことを除いては。

「横浜も雪積もってましたか?」

「積もってたよ。今日は客足も少なくて、売り上げも最低だった。だからこんなに早くここに来れたんだけどね」

「仕事帰りに来て下さってありがとうございます」

 こっちです、と明幸は私の掌を握り、当たり前のように自分のコートのポケットに突っこんでみせた。

「お互い、雪で転ばないように」

 律儀に手を繋いだ理由めいたことを言う。歩きだした明幸に引かれるようにして駅を出た。

 雪に足をとられないよう、神経をブーツのかかとに集中させながら歩く。見知らぬ街に足を踏みいれた時の、うっすらとした不安のようなものが身をまとった。

「富士山が見えない」

「そりゃ夜ですから」

「明日なら見える?」

「うちから見えますよ。山頂に雪が積もった見事な富士山」


 富士には月見草つきみそうがよく似合う。


 太宰治の「富嶽百景ふがくひゃっけい」の一節がぼんやりと浮かんだ。写真で見た月見草は小ぶりで地味な野花だったのを覚えている。


『富士山が見えるなら遊びに行ってもいい』


 明幸からの連絡にそう返信したのは私だ。白々しいと思う。とても。

「わっ」

 つるり、と先に滑ったのは明幸だった。革靴を履いているからだ。手を繋いでいるせいで巻き添えになった私は、何とか踏みとどまる。

「ちょっと、やめてよ」

「あはははは」

 眉間に皺を寄せると、明幸が笑った。寒さのせいか、鼻の頭が赤い。同じように私の鼻も赤いのかと思うと、少しだけ恥ずかしくなる。

 ここに来たのは、この顔を見たかったからだ。

 私に向けられる明幸の笑顔が、普段職場で見るものとは違うことに気づいてしまったのはいつだっただろう。

 向かい合って私を見ている瞳があまりにもまっすぐで、驚いたのを覚えている。表現するなら、幼い子どもや動物をでる時のような、そんな。

 自意識過剰と言われるならばそれまでだ。

 私が明幸と夜を共にしたのは、その頃だった。

 男性のものとは思えない透けてしまいそうな白い肌が、まだ瞼の裏に焼きついている。「両親が北国きたぐにの出身だからでしょうか」と、照れながら自分の腕を撫でてみせた笑顔も。




「ちょっと待っててもらえますか、部屋を片付けます」

「気にしないけど」

「3分、いや2分」

「はい」

 マンションの6階から夜の景色を眺める。まだ20時だというのに、歩いている人は殆どいない。すれ違いざまに肩が触れあうほど人に溢れている横浜とは大違いだ。

 マンションの真下に一本だけ木が見えた。やけに存在感がある。葉も花もつけていない寒々しい木の幹に、うっすらと雪が積もっているのが綺麗だった。

「あれね、桜の木らしいですよ」

 背後で扉が開く音がした。部屋の片付けを終えた明幸が私の隣で階下を指差す。

「春になるの、結構楽しみなんですよ」

「ここは静かだね」

「だから余計に寂しくなります」

 どうぞ、と手を引かれて私は中にいざなわれた。

 ベッドと加湿器しかない、空箱のような部屋。明幸が以前住んでいた横浜のワンルームよりも広いようだった。

 ベッドの上に堂々と寝そべっている猫の抱き枕が目に飛びこんできた。男の一人暮らしには不似合いな、ファンシーなデザインの三毛猫。

「しまった、見られました?」

 私の視線の先に気づいた明幸は、ばつが悪そうな表情を浮かべた。

「普通に置いてあるから、そりゃあ見えるよ」

「この間は隠してたんです」

「今日は隠し忘れた?」

「もうこいつがいるのは僕の中で空気くらい自然なもので、つい」

 一瞬だけ胸が絞られるような感覚に陥り、短く息を吸いこむ。

「前の彼女が残していったもの?」

 口をついて出たのは吐き気がするほど醜い言葉だった。

「残念ながらそんな色っぽいものじゃないです。独り身が長いと、ふと寂しくなる夜があるんですよ。ネットで見て、つい」

「そう。名前は?」

「ねこ」

「ふふ」

「見てくださいよ、こいつ。脚の先だけ汚れているでしょう?」

 明幸が猫の抱き枕を裏返すと、確かに脚の先だけうっすらと黒ずんでいた。

「僕が家にいない間に、外に散歩しにいってるんだと思うんです」

 抱き枕を引きずるからじゃないのか、と思ったが、言葉にはしない。さすがに笑った。

「引越しの時にほとんど捨てたのに、こいつだけはできませんでした」

「かわいいもんね」

「極力何も物を置きたくないんで、普段は捨てることを考えながら物を買うんですよ。だから、愛着が湧きすぎるものは嫌いです」

 明幸の言う愛着が湧きすぎるもの、が猫の抱き枕なのだ。

 恋人ともそうなのだろうか。別れを考えながら、誰かに愛を囁くのか。まさか。

 それは不幸以外の何ものでもない気がした。




 ベッドに二人で潜りこむと、すぐに明幸は私の身体の上に覆いかぶさってきた。明幸の鼻と私の鼻がくっついている。じっと見つめられている気がして、私は思わず視線を泳がせる。電気が消え、遮光カーテンの引かれた真っ暗な部屋ではお互いの顔など見えはしないというのに、だ。

 まるで時が止まってしまったかのように長い間そのままでいるものだから、私は堪らず噴きだしてしまった。

「何を笑ってるんですか?」

 だって、と紡いだ唇が塞がれる。私から唇を寄せるのを待っていたのかもしれないと思うと、キスをしながらまた笑ってしまった。

 恋人同士であったなら、そうしただろう。

 でも違う。私は待つだけだ。あくまで、自らの意志ではなく、流されている体を装う。

 狡猾こうかつにならざるを得ないのには理由があった。そうしなければ、私の薬指にはまっている銀色が、にぶびていってしまうような気がしたのだ。

 いやむしろこの行為の最中、薬指は腐れて落ちているのかもしれない。

 なのに、抱き合うと否応なしに満たされてしまうのだ。まるでコップに注がれた水がとくとくと溢れかえっていくように。

 踏みしめた雪のように白い明幸の肌が、熱を帯びていく瞬間がたまらなく好きだった。

「うそでもいいから」

 明幸が気怠げに私の髪を撫でる。

「好きって言ってくれませんかね」

 言葉の裏に何か潜んでいても、いなくても、私は彼になれないからわからない。他人をすべて理解することなんて誰にもできないのだ。

「うそじゃないよ」

 だからただ、笑い返すことしかできない。

「うそじゃない」

 二回繰り返したら、それはうそになってくれるような気がした。

 もうとっくにわかっているのだ。

 明幸が私に特別な笑みを向けていたのではない。私の中で明幸の笑みが特別に変わったのだ。

 好きになってしまったらこちらの負けは確定している。

 視線のひとつひとつに敏感になり、何もかもに執着してしまう。私は嫌になるくらい、面倒くさい人間になるのだ。

 ただ人を好きになっただけで、たったそれだけのことで、私は私でなくなってしまう。

 でも今は状況が違う。そうなってしまっては、私の世界がこわれる。

 私たちに罪を犯してしているという感覚は全くなかった。いや、明幸のことは知らない。

 私には、なかったのだ。

 世間一般の感覚が一気にわからなくなる。してはいけないことが、わからなくなるのだ。

 いつまで経っても、一番最初に初恋をしたときと同じ。器用な大人になれない自分を嫌悪する。

 誰かに「今あなたがしていることは最低のことだ」と罵られれば、殴られたなら、矯正できるものなのだろうか。そう思う脳裏の片隅で、恐らくこれが明幸と会う最後の夜なのだと実感し、大声で泣きじゃくりたい自分がいる。

 何もかもが矛盾しているのに、どこか納得している私は、既に何かが壊れているのだろう。

「朝には帰るよ」

「富士山を見てから?」

「うん」

「街を案内しようと思っていたのに」

「そっか、ありがとう」

 太宰治が富士に似合うといった月見草は、夜に咲き、朝に散るはかない花だということを思いだす。

 花言葉はーー、何だったか。



 

 昨晩積もっていた雪は朝にはほとんど溶けてしまっていた。

 あと数分で、新幹線ひかりが私を迎えにくる。

「とりあえず5年はここで頑張ってみます」

「何で5年?」

「ずっと同じことをしてるのは、5年が限界で。変化がないと、つまらないんです」

「5年後には」

 一息だけ置いて、

「結婚でもして環境が変わってるかもよ」

 突き離すように言ってみた。

「ああ、そう……」

 明幸の白い頬に、睫毛の影が落ちている。まるで少女みたいだと思った。

「そうかもしれません」

 繋がれたままの手を解くと、明幸が私の髪を撫でた。まるで猫を撫でるみたいに。

「キスしてください」

「できないよ」

「キスしてくださいよ」

 ふざけて唇を突きだす明幸を笑い、私は「じゃあ」と手を振った。

 つんのめりそうになりながら、一歩一歩を前に踏み出す。

 頭はやけに冷えているのに、指先だけがぬくい。

 先程まで掌にあった、少し汗ばんだぬくもりを離さないように指先をコートのポケットに突っこむ。その温度が否応なしに私の心を掻き乱した。

 本気なはずがない。

 私の手を引いて千里せんりを走って逃げるような情熱など、向けられているはずもないことはとうの昔から知っていた。もしそれが叶ったとして、差しだされた手をとる勇気もないくせに。

 なのになんだ。

 この胸がきつく絞られるような痛みは。

 何を期待してここまで来た?

 奪いたいと言われたかったのだ。

 そんなに激しいものでなくてもいい、ただ、好きだと言われたかった。たやすく他人に流される汚い私なんかを。

 改札を抜け、プラットホームに続くエスカレーターの中腹で一度だけ後ろを振り返る。

 明幸がこちらに小さく手を振る姿が、涙で滲んだ。

 仲間だった。

 先輩と後輩だった。

 友達でもあった。

 でも、恋ではなかった。

 そこに小指の先くらいの愛はあっても、はじまりが恋でなければ、終わりはこない。家族に向けるそれと同じ。

 だから、よかった。

「よかった」

 つぶやいた言葉がけむを巻くように白い息へと変わった。

 春には桜が咲くのだと教えてもらった、未だ蕾すらついてない寒々しい木の姿を思い浮かべ、一度だけ瞬きをする。シャッターを下ろすように。




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