#22 ジャン・モニオットの手記 前編

 これは、後から読ませてもらった話だ。


 パリ13区ボニツェール公園付近の薄汚れたアパルトメントの一室から、黒革のノートが押収された。

 折からの天候のせいか、それとも手に書いた汗のせいなのか、紙はしっとりと湿度を帯び、黄ばんでいる。カバーになっている黒の山羊革には所々傷がついていて白くなっている。毎日ページをめくっていたのだろう。ページの角の部分はこすれて丸くなっていた。破れているページもある。

 中に書かれている文字は、筆圧が強く、大振りで、雑然としており、判読が難しい箇所もある。

 後から読み返した時に読みやすく書こうという気は見受けられず、日記をつける習慣を持ち合わせている人物が書いたものとは思えない。

 フィデール刑事は日記だと言っていたのだから、日記なのだろうが、ジャン・モニオットが書いたというこの手記は、「日記」というよりも、「呪詛」と呼んだほうが相応ふさわしいように感じた。

 心の奥深くにどす黒くとぐろを巻いた怨念を、長い時間をかけて静かに熟成する様子が、ページいっぱいにびっしりと書かれた黒い文字から滲み出ていた。


 ***


 1871年10月16日

 我が兄弟、スティーブに捧ぐ。


 ***


 兄弟を裏切り、オレを不具者にした。

 たとえ今、ブタ箱に放り込まれているとしても。

 この先何年かかっても。

 あの男を殺すことを誓う。

 オレは、神と――。いや、悪魔と契約するのだ。


 ***


 1872年1月25日

 グーディメルの牢獄は想像以上の寒さだ。

 畜生!白く凍てく氷のような床を裸足で歩かねばならない。

 しかも、オレの左脚はもはや言うことをきかないときている。

 未だ完治していない傷が芯から痛む。右足まで凍傷がひどくなりつつある。

 隣の房ではつららで自死を計った者が出たという。考えたものだ。

 凍え死ぬのか。

 発狂するのが先か。

 いや、死ぬわけには行かない。

 凍傷がひどい。

 手の指は失うわけには行かない。

 あの男の頭目掛けてたまを打ち込んでやるまでは。


 ***


 1872年4月6日

 オレよりもひと足早く、脱獄を企てた男が捕まった。

 足腰が立たなくなるまでしこたま殴られた脱獄囚は独房に入れられているらしい。

 捕まった男の刑期は伸びるだろう。


 ここから早く出るにはどうすればいいか。

 

 暖かくなった今、オレはそのことばかりを考えている。

 捕まって刑期が伸びるリスクを取ってでも、脱獄を敢行すべきか。

 

 ***


 1872年4月15日

 警備が厳しくなった。

 今年中の脱獄の計画は諦めたほうが賢明だ。


 ***


 1872年7月18日

 春、脱獄をこころみた男が死んだ。

 男は結局、独房から出てくることは叶わなかった。

 遺体の処理をした牢番が言うには、芋虫のように縛っはままの姿で灰になるまで焼いたのだという。


 死んでしまっては元も子もない。

 あの男を殺すまでは、オレは生きなければならない。

 どんな惨めな姿を晒すことになったとしても。


 ***


 1872年11月16日

 模範囚が仮釈放された。

 食うに困って女子どもを三人って無期懲役を食らっていた爺さんだ。

 75歳だという。


 オレはオレの左脚を撃った男をひとり……直接手を下したのはひとりだけだ。

 ひとり殺ったが、それは正当防衛でかたがついている。

 偽札を撒いた罪があるだけだ。

 たかだか5年の懲役。

 あと4年勤め上げれば、出所できるのだ。


 ***


 ジャン・モニオットは模範囚として刑期を終え、1875年秋に出所。

 釈放されたジャン・モニオットは、保護観察を受け、担当保護司の伝手つてで清掃夫の仕事に就いたのだという。

 公営劇場の清掃などを請け負ううちにマルタン・ロンダと懇意になったらしい。

 ロンダ氏は左脚を悪くしているジャンのために、サンカン氏に口を聞き、安定した職場として天国劇場での就労を斡旋したのだと聞いた。

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