第16話 サラの願い

 ティスがアンナとの気持ちを確認し合ったあと、いつものように他愛のない話をして、診察を終えた。まだ気持ちが高ぶり、気恥ずかしくも離れがたい彼女の部屋を出たとき、彼の背に声を掛ける人がいた。


「ティス」


 彼はどきりとして、振り返ったが、相手が穏やかそうな表情で笑っていたのを見て安堵した。


「伯爵夫人……」

「今日も来て下さってありがとう。もう診察は終わり?」

「はい。終わりました」

「では、少しお話しません? シェスカが来なくなって、私も寂しい思いをしているのよ」

「私で良ければ」




 客間に入ると、ティスはサラと向かい合わせに座った。

 ティスはお茶やらお菓子などが整い、メイドが部屋を出て行ったのを確認してから、サラに頭を下げた。


「この度は、アンナさんとの結婚を許して下さり、ありがとうございました」


 アンナの告白を聞いた後、彼女の父や母がこのことをどのように考えているのかを尋ねた。すると彼女は「ティスに告白できたのは、母が許してくれたからです」と言っていたので、きっとお礼を言っても大丈夫だと思ったのである。

 するとサラは、その様子を見て「お礼を言うのはこちらのほうよ」と言った。


「え?」

「私は、アンナの幸せを思ってやっただけ。だからお礼なんていりません。それよりも娘と楽しくね」


 微笑む彼女は、「伯爵夫人」ではなく「娘思いの母親」の顔であった。

 ティスはそれに安心感を覚え、笑顔で頷いた。


「もちろんです」

「それとお伝えしておきたかったことがあるの」

「何でしょうか」


 すると、サラは部屋に誰もいないにもかかわらず、声を潜めて言った。

「アンナの瞼が開かなくなった理由なのだけれど、シェスカと話していてね、気づいたの。多分アンナの祖父のせい」

「おじい様?」


 サラは頷いた。

「ええ」

「しかし、それがどうしてお嬢様の目と関係があるのでしょうか」

「昔の話なのだけど、聞いて下さる?」

「もちろん」


義父ぎふは厳格な方でしたの。使用人にはもちろん、家族にも厳しい人で、よくハント……私の夫に辛く当たっていましたわ。でも、そんなところ、孫たちには見せられないことは分かっていたのでしょうね。義父は誰もいない執務室で息子を叱りつけていたのですが、たまたま外で遊んでいたアンナは見てしまったみたいなの」


「そのこと、皆さんはご存じだったのですか?」

 ティスの問いに、サラは首を横に振った。


「いいえ。アンナの姉であるフーナとレイナは事情は知っているけれど、詳しく知っているのは私とメイドのアニーだけ。アンナは父が叱られているのを見て、私にすぐ話したの。祖父が鞭を振り上げていたから、とても恐ろしかったみたい」


「酷い……」

 ティスはその姿を想像し、下唇を噛んだ。


「その事件のあと、あまり日も経っていないころに、アンナの瞼は開かなくなってしまった。その代わり、アンナにはそのときに見た恐ろしい記憶がないの。怖かったから、思い出の扉を閉じてしまったのかもしれないわね」


「そうでしたか……」


 ティスの手が裁縫の失敗で傷ついているときも、その手を労わってくれた。目を瞑っていても、誰かの些細な変化に気づくことができる彼女は、とても優しい人である。そんな彼女が、父親が祖父に鞭で痛めつけられているところを見たら、その記憶は恐怖になるだろう。忘れたくなって当然である。


「ティス、私はね。アンナの瞼は開かなくても良いと思っている。もし、開くことによって、忘れていた嫌な記憶を思い出すことになるなら、そのままでいいんじゃないかって」

「はい……」


 ティスはサラの気持ちが痛いほどわかる。

 アンナに辛い思いをさせたくないという気持ちは、ティスもサラも同じなのだった。


「でもね、もし、あの子が強く瞼を開くことを望んだら、手助けして頂戴。そうすることで辛いこともあるかもしれないけれど、今はあなたがいるからきっと大丈夫だと思うから」


 そのときティスは、あの変わり者の母が貴族であるサラと仲が良かったことがようやく分かった。


 彼女こそ、身分など関係ないと思っている人で、きちんと一人ひとりを見ることが出来る人なのだ、と。


 ティスを見る、真っ直ぐで強い意志に輝く瞳。彼はそれに応えるように、大きく頷いた。


「分かりました」 

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