【2】夏のお嬢さん

 それは、桜守姫利明(おうすき・としあき)という少年が、桜守姫明利(おうすき・あかり)という少女になってから1年半ほどの歳月が過ぎた、とある夏の日のこと。

 “彼女”のひとつ年上の幼馴染にして兄貴分でもある少年、巽清彦(たつみ・きよひこ)は珍しく自室にこもって夏休みの課題を片付けていた。


 剣道部の主将であり元来アウトドア派である清彦だが、今日の予想最高気温は37.5度。どこの砂漠かと思わせるような猛暑の中に出かけていく気には流石になれなかった。


 もっとも、妹の双葉のようにプールに出かけるという手もアリだろうが……。


 (野郎ばっかりで泳ぎに行ってもなぁ~)


 クラスメイトや部活仲間などに女友達が皆無というわけではないが、哀しいかなプールに誘えるほど親しい仲の女の子はひとりとしていない。


 いや、正確にはひとりだけ心あたりはあるのだが……。


 (飢えた狼の群れに、いたいけな妹分を投げ込むワケにはいかんだろ)


 “保護者”として、清彦はそのような事態はむしろ断固阻止する心積もりだった。


 「アイツは兄貴分たる俺が護る!」と、グッと鉛筆を握りしめて決意を新たにする清彦だったが、ちょうどその時、母親がその妹分の来訪を告げた。


 しかし。


 「──清にぃちゃん……ボク…ボク……」


 彼の部屋の前まで来た妹分──あかりは、息も絶え絶えなか細い声で何かを清彦に訴えようとしている。


 ガン! と頭を殴りつけられたような気分だった。


 中学に入って以来、内気で人見知りがちだった小学校時代とは異なり、“彼女”は少しずつ明るく積極的になってきていたはずだ。

 幼馴染である彼や彼の妹以外にも随分と友達が増えた様子だった。


 中学に入ってから始めた部活の弓道も、あかりの性に合っていたのか随分と上達し、それもまた“彼女”の自信に繋がっていたのだろう。


 「ボク……もぅ…ダメかも……」


 けれど、今のあかりの声は、まるで小学生時代に逆戻りしたかのように、覚束なく頼りなさげに聞こえた。


 「どうした!? 何があった? 誰か意地悪な女にいぢめられたか? それともどこかの不埒な男に乱暴でもされかけたのか? クソッ、よくも俺の大事な大事な妹分(あかり)を!!」


 急いでドアを開け、彼女を抱きかかえるようにして部屋の中に招き入れながら、清彦は、瞬時にヒートアップして矢継ぎ早に問いかけた。


 ところが。


 「はふぅ~、清にぃちゃん……ボク、も、ダメ……死ぬ……」


 そこには、あまりの暑さに目を回し、脳みそが蕩けかけた14歳の犬耳少女がいただけだった。


 「いやぁ、クーラーはいいねぇ。人類が生み出した文明の極みだよ♪」


 冷房の利いた清彦の部屋(受験生なので親に無理言ってエアコンを付けさせたのだ)に転がり込み、彼の母が持ってきた冷たい麦茶を飲んだ途端、アッサリあかりはいつもの元気を取り戻していた。


 「ドたわけ! いくら暑いからって、あんな死にそうな声を出すヤツがあるか!」


 早とちりした照れ隠しもあって、仏頂面のまま清彦がジロリと寝転がる妹分をニラみつける。


 「うぅ~、だって、ウチの家のクーラーが壊れちゃったんだもん。この家に来るまで、マジで干からびるかと思ったよ~」


 あかりの家は、彼女の両親の方針でリビングにしかクーラーがないのだ。


 「クーラーがダメでも扇風機があるだろうが」

 「あのね、清にぃちゃん。扇風機を使って風を受けると涼しく感じるのは、周囲の温度が体温より低いからだよ? こんな人間の平熱とたいしてかわらない温度の風受けたって、涼しいはずないじゃない」


 確かに正論だった。


 「む……しかし、お前、まがりなりにも精神修養が必須の弓道部員だろう? 心頭滅却して耐えられないのか?」

 「それ、剣道部主将の清にぃちゃんにだけは言われたくないよ」


 見事なあかりのカウンターパンチに、清彦も白旗を上げるしかない。


 「──それとも、ボクがいると迷惑、かな?」


 ちょっとだけ上目使いになった可愛い妹分にそう問われて、清彦が肯定できるはずがない。


 「いや、それは別にいいんだがな。ただ、今ちょうど課題やってるところだから、あまり構ってやれねーぞ?」

 「うん、いいよ~。しばらく……て言うか、とりあえず陽が落ちるまで、この部屋で涼ませて欲しいだけだし」


 と、平然と清彦のベッドの上に寝転がって本棚からマンガを取り出して読み始めるあかり。


 「すでにくつろぎ体勢かよ!? 一応は部屋の主に断れよ!」


 とツッコミは入れるものの、元より互いに物心ついた頃からずっと一緒に育ってきた気の置けない仲だ。清彦自身も言うほど気にしてはおらず、そのままやりかけの課題へと意識を戻した。


 それから、おおよそ2時間あまりが過ぎただろうか。


 「ん~~、はぁ。今日はこのヘンにしとくか」


 ひと区切りついたところで、ググーッと伸びをしてシャーペンを置く清彦。

 普段あまり根を詰めて勉強なぞやらない清彦にしては、2時間も集中力が保ったのは上出来だろう。あるいは、「妹分に情けない姿を見せたくない」という見栄のようなものもあったのかもしれない。


 「おーい、あかりィ! 一段落したから相手してやれるぞ。ゲームでもするか?」


 ところが。


 「zzz……」


 当のあかりの方は、いつの間にやら、マンガ本を枕元に放り出してベッドの上で仰向けになって熟睡しているようだった。


 「ったく、お姫様はお昼寝中かよ」


 ボヤきながらも、彼女を見る清彦の視線は優しい。


 「おーい、いくら暑いったって、こんなクーラーの効いてる中でヘソ出して寝てたら風邪ひくぞ~」


 妹同然、いや実の妹に対するのより数段優しさと気遣いの籠った口調でそう呟くと、清彦は上に何か掛けてやろうとベッドの足もとの方へと向かう。


 「しょうがねーなぁ」などと言いつつ、あかりが床に蹴り落としたタオルケットを拾って、彼女の方に向き直った清彦だったが、突然そのままの姿勢でカチンと固まってしまう。

 その原因は、今日のあかりの服装にあった。


 1年半前の春に性別が♂から♀に変わった“彼女”だったが、中学の制服は別にして、当初はやはり普段着ではショートパンツやジーンズといったパンツルックを着ていることが多かった。

 あかりの両親もデキた人だったので、無理に女の子らしい服を強要しようとはせずに、できるだけ彼女の意志に沿うようにしていたのだ。


 そういう格好をしているためか、女友達の中では自然と「活発でボーイッシュなコ」という役回りを期待されることが多く、それに応える形で“彼女”の引っ込み思案がいつの間にか直っていったのだから、これはある意味、怪我の功名と言えるかもしれない。


 そうやって、女の子の輪の中に徐々に溶け込んでいったあかりだったが、逆に女の子としてのライフスタイルに馴染んで来たせいか、当初ほどスカートを履くことへの抵抗はなくなってきたようだ。

 そもそも、平日はほぼ毎日制服でスカートを履いているわけだし、むしろ当然とも言えるだろう。


 そこで、中学2年生に進級したころから、私服でもスカートを履くことが少しずつ増え始めたのだ。

 彼女の両親、とくに母親のほうは密かにこの傾向を歓迎している。やはり女親たるもの、可愛い娘を着せ替えさせることに一度は憧れを抱くものらしい。

 まだフェミニンなワンピースなどは恥ずかしがって着てくれないが、それでも婦人物売り場へつきあうようになった愛娘のことを、母は以前にもまして可愛がるようになっていた。


 閑話休題。

 そんなワケで、今日の彼女は、肩を思い切り露出したキャミソールと、制服以上に丈が短いミニスカートという誠に真夏らしい涼しげな服装だった。

 そして、今現在、彼女は仰向けになって、ややお行儀悪い感じに手足を投げ出して眠っているのだ。


 そんな状態のとき、足元の方に立つと──やはり見えてしまうワケだ。

 何がか? 無論、スカートの中身が、である。


 元々、あかりにしては珍しく、膝上20センチ近いミニ丈のスカートを履いているうえ、タオルケットを蹴散らすくらいに無意識に足を動かしているのだ。

 当然、半分以上めくれあがったスカートの下から、清楚な水色と白のボーダー柄のショーツ(俗に言う縞パン)がバッチリ覗いており、意図せずして清彦はそれをクッキリ目に焼き付けてしまう結果となった。


 本気で一瞬呼吸が止まる清彦。

 こんな風にあかりがこの部屋で寝てしまうことは(女になってからも)何度かあった。その時はショートパンツ姿とかだったので、別段気にも留めなかったし、実際太腿の露出度で言えばそう大差はないはずなのだ。


 それなのに、スカートから下着が見える、いわゆるパンチラ状態になっているだけで、これほど心を揺さぶられるとは……。


 (おおお、落ち着け、俺。まずは素数を数えるんだ! 2、3、4……って、4は思い切り偶数じゃねぇか!)


 どうやら相当テンパっているらしいが、まぁ無理もない。

 彼にとってあかりは、男だとか女だとかそういうカテゴリーにくくる以前にまず大事な“幼馴染”であり、彼が“守るべき相手”だった。そのスタンスは、幼いころから中学生になった今に至るまで何も変わっていない。

 まぁ弟分から妹分へと呼び方こそ変わったが、それこそ些細な問題だ。


 その大事な、ことによっては実妹以上に大切にしている妹分に、“女”の色香を感じて、ドキドキしてしまうとは……彼にとってまさに青天の霹靂である。


 (臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前──キェーイ! 悪霊……じゃなくて煩悩退散ッ!)


 心の中でマンガで読んで覚えた九字を切り、自らの不埒な思いを鎮めようとする清彦。


 しかし……。


 「んんっ……」


 コロンとあかりが寝返りをうったせいで、さらにヤバげにスカートがめくれ、オマケにキャミソールの肩紐が片方ズレかかり、そのささやかな膨らみまで(僅かながら)清彦の視界に飛び込んでくる。


 「はぅわぁ!?」


 意味不明な呻き声を漏らすと、清彦はまるでロボットのようなぎこちない動きで、手にしたタオルケットをあかりの体に掛け、その首から下が見えなくなることで、ようやく人心地を取り戻す。


 「ふぅ~~、あ、アブなかった。先にタオルケットを手にしてなければ、負けていたのは俺の方だったかもしれん」


 ナニに負けるのか、そして負けるとどうなっていたのかは、思春期の男の子の秘密だ。とにかく大変な事になっていたことは間違いない(いや、ヘンタイなコト、かもしれないが)。


 まだ完全には平静に戻っていない胸の動悸を抑えつつ、清彦はベッドの枕側に回ると、寝乱れたあかりの髪をソッと撫でつけた。


 何の気なしに指先があかりの犬耳に触れると、眠ったままピクッと耳が動く。本人の表情もどこかくすぐったそうな、それでいて気持ちよさそうな表情になっていて、なんだか癒された。


 獣耳スキーの清彦としては、そのまま触っていたかったのだが、これで起こしてしまうのはちょっと憚られたので自重する。


 「それにしても、まだまだ子供だと思ってだけど──ちっちゃくても女の子なんだなぁ」


 無論、頭では理解していたつもりだった。そもそも自分だって来年には高校生になるのだ。自分が並はずれたスケベだとは思わないが、それでも健全な15歳男子の平均程度の欲望は持ち合わせている。


 しかし、あかりが以前と同様に自分のことを兄として慕ってくれているため、昔と同じ関係がこれからも続くとつい錯覚してしまっていたのだ。


 「これからは、もーちと女の子扱いしてやるか」


 とりあえず、あかりの目が覚めたら、男の傍で無防備に寝たりしないよう説教しとこう──そう考えて、自分の照れくささを誤魔化す清彦だった。


  * * * 


 「エエーーッ、そんなコトがあったの!?」

 「まぁ、な」


 旧悪(?)を白状したため、少々決まりが悪いが、4年も経てばもう時効だろう。


 「そっか、だから、あれ以来、清兄、ちょっと口うるさくなったんだぁ」

 「う! 迷惑だったか?」


 俺なりにあかりの身を案じたつもりだったんだが。


 「う~ん、ちょっとだけね。でも、その反面、ボク──あたしのことを大切にしてくれてるって感じて、うれしくもあったかな」

 「そ、そうか……」


 その答えに、ホッと一息つく。


 「でも、あたし、そんなコト知らなかったから、あれだけ気合い入れたカッコしたのに、清兄の反応がゼロだって、実はほんの少し落ち込んだんだよ?」


 聞けば、あの露出の多い格好で俺を誘惑してみろとアドバイスしたのは、ウチの妹の双葉らしい。

 考えてみれば、プールに行くのに双葉があかりを誘わない時点で明らかに不自然だ。そんなコトにも気付かんとは──俺も結構テンパってたのかもな。


 「でね、無邪気な元気っ娘が駄目なら、今度は逆のお淑やか路線で行こうってことになったの」


 歩き方とか話し方とか、色々工夫したんだから、と語るあかり。

 成程、それで2年の秋ごろから急に大人っぽくなったように感じたのか。

 てっきり部活の部長になったのが原因かと思ってたんだが、まさかそんな思惑が裏にあったとは……。


 それも大方、双葉の入れ知恵だろう。ギャルゲーと乙女ゲーのやり過ぎだ、アイツは!


 「ん~~、でも、効果はあったよね?」

 「む、確かに」


 夏休みのコトがあって、俺もあかりのことを徐々に“女の子”として意識し始めたころにソレだからな。異性として気になり出したのは否定できない。

 それに、俺の好み自体、「物静かで落ちついた女性」なのも確かだし──いや、家族含めて周囲にそういう人がいなかったから、ちょっと憧れてたんだって。


 で、俺が高校に入って、中3のあかりと疎遠、ってほどじゃないが多少距離ができた翌年に、アレだもん。そりゃあ、墜ちるのも無理ないぜ。


 「エヘヘ、あたしの作戦勝ち、かな?」


 ああ、正直に脱帽だ。



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