【08】

 ――同じ頃。


 旅人だろうか。

 土色のフード付きマントで身を覆った細身の長身が、人のいない街角でしゃがみ込んでいた。

 その視線の、先からは。


 みゃー。


 愛らしい鳴き声がする。

 短毛で、白地にうっすら縞の浮かぶ茶のハチワレ柄。まだ幼さの残る顔つきは、生まれて一年も経っていない仔猫だろう。

 首輪には、月長石ムーンストーンとおぼしき乳白色のちいさな宝石が揺れていた。


「きみはどこのうちの子かな? なぜ街に人がいないのか、知ってますか~?」


 旅人は目深にかぶったフードの下から、まさしく猫撫で声そのもので話しかける。


 んみゃ?


 首をかしげる仔猫と同じほうに顔を傾けながら彼は、「はあああかわいいねえ」と溜め息まじりに惜しみない賞賛を贈るのだった。


 ――ずん、と足元から振動が伝わってきたのは、そのとき。少し遅れて、歓声らしきものが微かに聞こえた。


「あっちか」


 立ち上がって呟いた旅人の足元で、仔猫が唐突にフーッと威嚇の鳴き声を放ち、そのままどこかへ走り出す。


「あっ、驚かせちゃったかな? ごめんねえ~」


 旅人の心底から申し訳なさそうな声を尻尾で受けとめつつ、仔猫は荷物や棚や、窓枠をぴょんぴょん巧みに足場にして、屋根の上に駆けのぼる。

 そのまま屋根伝いにしばらく空の下を駆け抜けた先で、ふたたび威嚇しながら上空を見上げた――そのずっと先に、真っ赤な長衣ローブをまとった男が


「……だから儂は言ったのだ。いかに魔王の血族であろうと、将に成りたての、ましてや鬼人の小娘なぞに任せるのは愚策に過ぎると」


 彼は空中でぶつぶつと呟いている。若々しく美しい顔立ちだけれど、その肌は青銅色の鱗に覆われ、瞳のない眼は血の色にぎらつく。たてがみのような白髪の内側からは、長大でねじくれた二本の角が伸びていた。


 ――明らかに魔族。そう、彼こそが第二の魔蹂将・焔獄法師ジェインフェルであった。


「まあよい。手筈通り、街ごとすべて灰燼に帰すまで。鬼人の娘もろともにな」


 にたぁり、邪悪な笑みを浮かべた彼は、長衣ローブの内側から差し出した右手を天に掲げると。


焔獄鏖滅球インフェルスフィア


 呪言と共にその手のひらに出現させたのは、自身の背丈の三倍以上ある、深紅に輝く巨大な火球だった。


 十年前の三王国襲撃時、強固な結界シールドで守られた魔導国家エルヴォイドを一夜で焦土と化したのは、上空から降り注いだ真紅の火球だったという。


 いま焔獄法師の掌上てのうえで燃え盛るミニチュアの太陽のような火球が、まさしくだった。この街の規模なら一発でも充分、魔導国家と同じ末路を辿ることだろう。――彼こそ十年前に三王国の一角を滅ぼした、張本人である。


「……ふむ。あまり強火に過ぎても、苦しみ悶える人間を眺める愉しみがなくなるか」


 火球をひとまわり小さくしたところで、ふと眼下から聞こえる小さな威嚇に気付く。


「身の程をわきまえぬゴミが」


 唾を吐くように言って火球を、屋根の上で鳴く仔猫に目掛け、悠然と送り出すのだった。灼熱の滅びを内包したそれは、ゆっくりと落下してゆく。


 そして数秒後にはそこから溢れた紅蓮の炎が、街のすべてを覆い尽くす。そう確信して邪笑わらう法師の眼前で――火球が、割れた。


「――は?」


 中心から、縦にきれいな真っ二つに割れた。生じた隙間から見えたのは、屋根の上で仔猫を左腕に抱え上げた、土色マントの旅人の姿だ。

 マントの下から、革鎧さえまとわない鈍色ダークグレーのレザージャケット姿がのぞき、その細身の右腕には、抜き身の太刀サムライソードを無造作にぶら下げている


「おまえ――ねこさんに、何をする」


 先ほどの猫撫で声とは打って変わった、凄みのある声。しかし同時にそれは、耳に心地よく通る美声でもあった。


 その左右で、状況的に旅人かれがその手の太刀で両断したとしか思えない火球は、空気に滲むように霧散した。


 ――そんな、馬鹿な。起爆させず真っ二つに斬るなどという芸当ができるものか。


 しかも、そのまま消滅したということは、火球の真中にある小指の先ほどの魔力核ごと両断したということだ。

 あり得ない。まぐれだとしか思えない。しかし。


 驚愕し動揺しつつも法師は、瞬時に相手を全力で滅すべき障害と認定する。

 その冷徹な切り替えができてこそ法師かれは、永きにわたって魔王軍最強の大魔法使いウィザードという名声を欲しいままにしてきたのだ。


焔獄惨千弾インフェルサウザンド!」


 法師の全周囲に出現する、無数の小さな火球。一発ずつでオーガ一匹を焼き殺す威力のあるそれが、異なる軌跡を描きながら高速で旅人に殺到し、一瞬で灰も残さず焼き尽くしていた。


 ――まとっていた、土色のマントを。 


「あ?」


 間の抜けた声を上げる法師の目の前に、旅人かれの姿はあった。身長の数倍を軽々と跳躍して。


 そしてフードの下から露わになったのは、銀灰色シルバーグレーの長髪にシャープな顎のライン。美しい弧を描く眉の下には底なしの深さをたたえた青灰色ブルーグレーの瞳に、真っすぐ通った鼻筋と薄い唇。


 ――同性であり魔族である法師さえ、つい見惚れてしまうほどの美青年かっこよさ


 ふしゃーっ!


 その左腕で、仔猫が法師を威嚇する。それで法師かれは我に返る。


「何なのだ、きさまは!?」

 

 ぶら下げていた右手の太刀の切っ先を、天にゆらりと掲げつつ旅人は、当然のように答えた。


「――勇者だが?」


 その無造作な一挙手だけで既に──かつて王国ひとつ一夜で滅ぼした焔獄法師ジェインフェルの体は、正中線センターから僅かもずれることなく、真っ二つに両断されていた。


「……ああ、そうか……」


 両断されたまま発した法師の最期の言葉は、なぜか恍惚としていて、そして彼の体は左右に裂けるように炎上し、塵となって消えた。

 その塵の降るなか路地に身軽に降り立った勇者――リュクト・アージェントは、腰の鞘に太刀を納めて、足元に仔猫をそっと降ろす。


「あぶないからね、ああいう変質者へんなのには近付いちゃだめだよ」


 そして再びの猫撫で声で仔猫に言い聞かせると、上空から目の端に捉えた街の中心、人影の見えた広場に次の目的地を定める。


「確か、こっちだったな」


 軽い足取りで歩き出したその方角は、広場とは真逆だった……。

 

 見送っていた仔猫は、しばらくしてから「みゃあ」とひとつ鳴き、と彼の背中を追いかけていくのだった。

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