暗闇に潜むモノ

彼岸花

暗闇に潜むモノ

「はぁー……さっぶ」


 コートの上から我が身を抱き締めつつ、三浦みうら吉香よしかは大きなため息を吐きながら真っ暗な住宅地を歩いていた。

 暗いといっても、時刻は夜ではない。午前四半時という、一応は早朝に含まれる時間帯だ。尤も二月真っ只中にある今日の日の出時刻は午前六時過ぎであり、まだまだ太陽が顔を出す時刻ではない。地平線向こうの太陽の明るさが漏れ出して空が明るくなる……薄明と呼ばれる時間帯にもなっていなかった。人の目に分かる暗さでは夜と変わらない。

 このような早朝に何故吉香が出歩いているかと言えば、それは彼女が今から帰宅するところだからだ。


「全くあのクソ野郎、とんでもない爆弾残していきやがってー」


 悪態を吐きながら、自分がこんな時間まで仕事をしていた理由を思い返す。先月退社(吉香は詳細を知らないが懲戒解雇説あり)した先輩社員の担当していた案件で、とんでもない問題の『タネ』が発覚したのだ。

 問題自体はまだ起きていない。だが明日にも起きるかも知れない。故に少しでも早く対処しなければならないと、その日出社していた社員達が総出で残業。入社三年目の吉香も同じく残り、どんどん仕事を渡され、そして朝と呼ぶべき時間になってようやく対処が終わった。

 他に急ぎの案件や用事がある者はまた出社であるため会社に残っていたが、そうでもない社員は『今日』は休みとして帰宅を選び……吉香は友人兼同僚の自家用車に乗せてもらい駅まで送迎。駅で友人と分かれ、こうして今、一人で帰り道を歩いている。

 そして吉香は、この帰り道でどんどん不機嫌になっていた。

 吉香も大人だ。何がなんでもやらなきゃ不味い案件だったのは理解しており、またそのために力を尽くすのは当然だと思う。問題解決の一助になれたと達成感も覚える。しかしそもそも退社した先輩がやらかした事の訳で、吉香がやったのは結局のところ後始末。時間が経って冷静になれば、苛立ちが大きくなるのは必然だろう。

 何より――――帰り道が不快なのが、嫌だった。


「(暗いなぁ……)」


 家に向かって歩きながら、ぼんやりと思う。

 日本人の一般的な起床時間は、六時過ぎだと吉香はネットで見た記憶がある。それより一時間半も前の時刻なのだから、活動している人など殆どいない。吉香が歩く住宅地でも家の明かりは殆ど付いていなかった。

 一応街灯はあるので、道が全く見えないという事はない。しかし街灯は僻地に行くほど少なくなる。吉香の暮らすアパートはかなり僻地寄りの場所にあり、街灯はどんどん減っていく。家自体も疎らになるので、そういう意味でも灯りは少ない。

 家まであと十分といった距離まで来ると、五メートル間隔で並ぶ街灯の下以外は真っ暗な領域になっていた。この辺りはもう住宅も疎らで、東側は畑ばかりが並んでいる。

 この状況が家に着くまで延々と続く。星でも見えれば少しは気分も良くなるかもだが、曲がりなりにも関東圏に属していて畑の向こう側にちょっと賑やかな町並みがあるからか、星はろくに見えない状況だ。空を見ても気分は晴れるどころか、底のない穴を見ているようで却って気味が悪く思えた。


「(……やだなぁ)」


 吉香は暗いところが怖い。

 何故と言われても、本能的に、というぐらい理由がなくて、それ故に抗い難い。小学生ぐらいの時は豆電球なしでは寝られず、林間学校の行事で夜空の星を見る時には出歩くのが怖くて泣いてしまったほどだ。大人になった今では流石に泣きはしないが、それでもやはり暗い場所は怖いと思う。

 普段の帰宅時間であれば、家々に明かりが付いているので我慢も出来るが……午前四時では何処も真っ暗。仕方ないと思えども、身震いしてしまう。


「(ああもう! 全部あのクソ野郎の所為だ! うん! そう思おう!)」


 ならばともういない先輩社員への怒りを燃料にして、怖さを誤魔化してみる。

 怒りというのはネガティブに取られがちだが、恐怖に対しては効果覿面な感情だ。怒りに塗り潰されて怖さが薄れていく。ついでに身体が闘争状態に入ったのか、身体もほんのりポカポカしてきた。冬の寒さもへっちゃらになる。

 怒りながら帰るというのもどうかと思うが、今日だけは特別だ。そう考えて吉香は己の怒りに燃料を焚べ続ける。

 しかしその怒りという名の炎は、強まった恐怖という名の水で簡単に消えてしまう。

 背後から迫るペタペタという足音が、その大量の恐怖を運んできた。


「ひっ」


 思わず出てしまう、引き攣った声。その声と共に吉香は後ろへと振り返る。

 しかし誰の姿も見えない。元々暗い事に加え、吉香は今丁度街灯の下に立っていた。明るい場所にいると、暗闇を覗き見るのが難しくなる。なんとか確認しようと目を細めてもみるが、正体は分からず終いだった。

 暗闇の中から突如聞こえてきた足音。勿論それ自体も漫然と、本能的に恐ろしい。

 同時に、現実的な『犯罪』に巻き込まれる可能性が脳裏を過る。吉香も年齢的には若い女性だ。暗い道を一人で歩いていれば、『如何わしい輩』が襲い掛かってくるかも知れない。自分が美人とは思わないが、性欲を満たしたいだけの輩からすれば下半身があれば十分。暗くて見えない顔など二の次だろう。

 ペタペタ、ペタペタ。足音はどんどん迫ってくる。

 正体は分からないが、だからこそ逃げた方が良いのではないか。そう思い、前へと走ろうとする吉香だったが……すぐに足を止めてしまう。

 次の街灯の明かりがなく、暗闇だけが広がっていたからだ。道の輪郭も見えず、これでは何処に向かって進めば良いのか分からない。思ってもいなかった状況というのもあって、吉香は足が竦んでしまった。

 そうしているうちに、足音はどんどん近付いてくる。身動きが取れない吉香はその足音の接近を黙って待つしかなく――――

 街灯の明かりの中に、ぬるりと一人の老人が入ってきた。よぼよぼとした男だ。男ではあるが、性欲は枯れていそうだった。


「……………」


「……………」


 彼はぺたぺたと裸足に履いたサンダルを鳴らしながら、怯える吉香の事など見向きもせずゆっくりと横を通る。ちなみ上着はちゃんと着ていた。

 何故サンダル? 寒くないの? というか朝早くない? と様々な疑問も抱いたが、人間というのは歳を取ると温度変化を感じ難くなるという。そこに『ボケ』が加わると、季節の概念が吹っ飛んでしまうので色々頓珍漢な事をしてしまう。

 そういやうちのボケた爺ちゃん、真夏に暖房付けていたなぁ……在りし日の思い出が浮かんだ事もあって、吉香は少し落ち着いた。この老人も恐らく日課の早朝散歩(或いは深夜徘徊)だろう。安心のため息を吐いた後、家に帰ろうと家路の方を見遣る。


「(……あれ)」


 そこで気付く。

 


「(……待って。待って待って)」


 老人の足音の方が直接的な『脅威』に思えて失念していた。

 街灯の明かりが見えない……確かにそれ自体は危険ではないかも知れない。だが意味が分からない状況だ。街灯が疎らになれど自宅まで続くのは、今まで何度も通っているから間違いないというのに。

 大体にして、明かりというのはぼんやりと広がるものだ。懐中電灯のように集束した光なら兎も角、街灯なんて周囲を照らすためのもの。光は薄く広がり、広域を照らす。今のように、周りが『真っ暗』なんてあり得ない。

 どうして街灯が見えない? いや、どうしたら街灯が見えなくなる? 目まぐるしく巡った思考は、やがて一つの可能性を閃く。

 それは、というものだった。


「ま……!」


 なんだか分からないが、危険な予感がする。悪寒に見舞われた吉香は暗闇に向けて前進する老人を呼び止めようとするが、吉香が言い切るよりも前に老人は街灯の明かりの外に出た

 瞬間、ぞりっ、という音がする。

 何かを削り取るような音だった。それも硬いものではなく、柔らかいものを荒々しくやるような。

 そして歩いていた老人の動きは、止まっていた。


「あ……あ、の……」


 震える声で呼び掛けてみる。しかし返事は、ない。

 それどころか老人は前のめりに倒れる。

 倒れた分だけ暗闇に身体が入ると、またぞりぞりと音が鳴る。老人はついに足首以外見えない角度、ほぼ水平の姿勢になったが、しかし『倒れた』際に鳴るであろうバタンやドシンッといった音は聞こえてこない。

 その残る足首も、何かに引っ張られるように動いた。ついに老人の存在を示すものは全て闇の中に入り、光に照らされた領域には何も残らない。


「……………」


 吉香は、動けなかった。

 何が起きたのか? 分からない。

 老人は何処に行ったのか? 分からない。

 何も答えが得られず、自分がどう行動すべきなのか決断出来ない。ただただ呆けたように立ち尽くし、やがて腰から力が抜けてへたり込む。

 一つ、明らかな事があるとすれば。

 未だ帰り道の方にある街灯の明かりは、吉香の目には見えないという事だ。


「(何か、いる……!)」


 それが何かは分からない。だが確実に、なんらかの存在がいると思った。ついでに、お世辞にも人間に対して好意的ではなさそうだという事も。

 このままでは自分もあの老人と『同じ目』に遭うのではないか……危険を感じるが、抜けてしまった腰に力は入らない。ガチガチと顎を震わせて怯える事しか出来ず、諦めの心が身体を縛り付ける。

 尤も、そんな吉香に何かが迫る事はなかったのだが。


「……あれ?」


 何も起きない事に、少しずつ違和感が湧いて、押し退けられた分恐怖が和らぐ。恐怖心がなくなれば、頭を多少なりと働かせる事が出来た。

 呼吸を整えながら、一つ一つ考えてみる。

 まず、未だに『何か』は移動していないと思われる。家へと続く方角の街灯の明かりは見えないままだからだ。

 なのにその何かが吉香に襲い掛かるような気配はない。老人をなんやかんやして、満足したのだろうか? しかしそれなら立ち去りそうなものである。まさかこんな道端で寝ている訳でもあるまい……相手に人間の常識が通じるとは限らないが。

 仮に、寝ても去ってもいないなら、どうして吉香の前に居座るのか。老人と同じ目に遭わせるのが目的だとしたら、何故そうしてこないのか。


「(もしかして、明かりが怖い?)」


 考えた末に辿り着いたのは、そんな結論だった。

 願望混じりの考えではあるが、しかしあながち現実逃避ではなさそうだと吉香は思う。暗闇の外に何がいるかは分からないが、こうして手出しをしてこない以上、自分のいる場所固有のもの……明るさに原因があると考えるのは自然だ。

 そしてどうやら、現実はより吉香にとって都合が良いらしい。

 ジジジッ、と壊れかけの家電のような音が不意に聞こえてくる。未知の現象に驚き、思わず音のする方に吉香は目を向けた。

 するとそこでは、何かが蠢いていた。

 ハッキリと動きが見えた訳ではない。しかし確かに、何かが蠢いていると吉香は感じる。それは極めて不気味で、得体の知れない感覚を呼び起こす。

 ところがその蠢く気配は、やはり光の中に入ってこない。

 いや、入ってこられないように見える。まるでそこに見えない壁でもあるかのように、一ミリと光の内側には入り込んでこないのだ。


「(怖いんじゃない。多分、強い光そのものが駄目なんだ)」


 光が駄目とは一体どういう存在なのか? 謎は一層深まったが、特性が分かれば対処は簡単だ。

 此処から動かなければ良い。

 街灯は周りが明るくなるまで付いている。朝が来れば自然と周囲は明るくなり、この存在にとって世界の全てが『駄目』になる筈だ。逃げ帰るのか、死ぬのかは分からないが、兎に角助かる。

 日の出までまだ時間はあるが、相手が入ってこないなら問題ない。落ち着いて待てば、問題はあっさりと解決してくれる。

 むしろ半端な恐怖心から、街灯の下から逃げ出す方が危険だったに違いない。自分の行動が結果的に命を助けたと分かり、吉香はホッと安堵の息を吐く。

 落ち着いて吉香が座り込むと、いよいよ暗闇に潜む何かは苛立ったのか。ジジジという音を鳴らし、あちこちで蠢く。何も知らければ恐怖もあるし、今でも不気味だとは思う。だが光の中に入ってこられないと分かっていれば、その動きもただの悪足掻きだ。何も恐れる必要はない。むしろ無駄な努力に見えてきて、怖がらせてきた仕返しに「お疲れ様でーす」と煽ってやろうかと吉香は思い始める。

 ……冷静に事態を解析し、読み解いて対策を考えるのは人間の得意技だ。これで人間は世界を支配したといっても過言ではない。

 だが、思考は人間の専売特許ではない。


「ん?」


 ジジジッ、という音が上から聞こえてくる。言葉にすると同じ響きだが、音程が若干違い、吉香は違和感を覚えた。無意識に、音が聞こえた方に顔を向ける。

 そこは方角的に空というべき向き。昼間ならば空も見えただろうが、今見えるのは星のない、底なし穴のような夜空だけ。

 その筈なのに、何かが空でチカチカと明滅している。

 輝く度にジジジッという音が聞こえてくる。しばしじっと見ていると、一瞬周りが薄暗くなった。ハッとして反射的に吉香が頭上を見上げれば、街灯の明かりが微かな明滅を起こしている。それも音に合わせて。

 そこでようやく吉香は気付く。

 空に見えた輝き――――あれは『火花』だと。恐らくは電線の一部が破損し、ショートしている。

 そしてその電線の伸びている先にあるのは、吉香がいる街灯。

 暗闇にいる何かは、電線を切断して街灯の明かりを消そうとしているのだ。優れた知能があるのか、何かの拍子に知ったのか、それとも偶々なのか。理由はどうあれ行動は正しい。もし電線が切れたら、吉香のいる場所も暗闇に飲み込まれる。

 そうなれば、何かは吉香の下までやってくるだろう。


「(嘘、待って……待って!?)」


 こうなると追い込まれたのは吉香の方だ。

 光の中に留まれば安全だと思った。しかし言い換えれば、他の手は何も思い付いていない。光がなくなれば安全は完全に失われてしまう。

 ならばどうする?

 後ろに見える街灯目指して逃げるべきか? 相手の速さが自分を上回っていたら、ただの自殺行為だ。仮に逃げ切れたとしても、電線を切断されればその先にある街灯は全部消えてしまう。振り切ったと思って立ち止まった後、暗闇の中からひっそり迫られたら、もうどうにもならない。

 だからといって、戦うなんて出来ない。先に暗闇の外に出た老人は、生々しい音を鳴らして動かなくなり、そして全身を。武器を振り回したところで、同じ結果になるだけだろう。ましてや拳や足を出したらどうなる事か分かったものじゃない。そもそも相手の姿が見えていないのに、何をどうやって戦えと言うのか。大体生身の人間が勝てる相手なのか。

 どうしたら良いのか、分からない。

 分からなくても時間は進む。電線の出す火花はどんどん大きくなり、街灯の明かりはどんどん不安定になっていく。刻々と終わりの時が近付いてきていた。


「い、いや……」


 自身の『終わり』を予感し、吉香は震え出す。しかし暗闇にいる何かは止まらない。都合よく助けてくれる人も現れない。

 そして電線が一際強く、煌めきを放った時――――

 左側に広がる空が、薄暗い青さに染まった。


「ぁ……」


 思わず漏れ出る声。

 呆けながら見つめた先は、畑がある開けた方角――――東側だ。畑の向こう側にあるちょっと発展した町、その町の更に奥にある空がほんの少しだけ明るくなった。

 薄明だ。地平線の向こうにある太陽の輝きが、大気分子に反射されて見える淡い明るさ。日の出前でも空が明るくなる理由だ。薄明の輝きは少しずつ広がり、吉香の方まで迫ってくる。

 明るさは微々たるもの。しかし明るい事に違いはない。もしかすると薄明の光でも、この何かは怯むのではないか。頼り甲斐があるとは言えずとも、街灯の明かりが間もなく消えそうな今、助かる可能性は他にない。

 お願いだから消えて。そう祈りながら吉香は前を、何かがいるであろう方を見る。

 故に吉香は目にした。

 未だ夜の帳に包まれ、けれども物の輪郭が薄っすらと見えてくる、境界の明るさ。その中に潜む『何か』の姿を。

 大きさは、五メートルはあるだろうか。山のような、或いはひっくり返したプリンのような、そんな形をしている。

 けれどもそれは一つの存在ではない。

 表面がもぞもぞと蠢いている。動き方に共通性はなく、『動き』の一つ一つが自由に進む速さと向きを決めているようだ。けれども一定の範囲内から出る事はしない。無数の集まりでありながら、あくまでも個として振る舞おうとしている。

 そしてその知能と感情と目的は、ある程度共有しているらしい。


【チッ】


 でなければ、舌打ちのような音を出す筈がないのだから。

 尤も、吉香の感じたそれらの印象は全て夢幻かも知れない。

 次の瞬間、ほんの少しだけ周りが更に明るくなったところで、その姿は完全に見えなくなった。もう蠢く気配も、音も聞こえてこない。


「……い、ない……?」


 あまりにも呆気なく消えるものだから、吉香には実感が湧かない。今まで自分が体感したものすら、実は夢だったような気がしてくる。横を通り過ぎた老人の『欠片』も見当たらないのも、そんな気持ちを強めさせる。

 出来れば、子供染みた恐怖心が見せた妄想だと思いたい。

 けれども、ただ一つの痕跡が彼女に現実を突き付ける。

 バチバチと音と光を撒き散らす、今にも千切れそうな電線が――――















 あの日から吉香の生活は大きく変わった。

 理由は、夜中に出歩けなくなったから。あの時は運良く助かったが、あれは後ろから来た老人にビビって立ち止まり、その後違和感に気付けたからどうにかなったのだ。仕事帰りや日常で、無心で歩いている時に迫る『アイツ』の存在に気付くとは思えない。

 そもそも気付いたから助かるとも限らない。『アイツ』がなんなのか、生物なのか機械なのか現象なのかも分からないのだ。暗闇の中を人間よりも素早く動けるなら、見付かるだけでお終いである。

 元々暗い場所は漫然と怖くて堪らなかった。あれ以来もっと、具体的に怖くなった。

 だからといって、会社は明るいうちに帰れるとは限らない。夜は危険な化け物がいますと訴えても誰一人耳を貸さないし、緊急の仕事が入れば夜遅くまで残業しなければならないのが『大人』である。

 悩んだ末に、吉香は仕事を辞めるしかなかった。

 幸いと言うべきか、一人暮らしだったため仕事を辞めてもあれこれ言ってくる人はいない。まだ若いという事もあって(時給は安いが)午前中のアルバイトを見付け、在宅で出来る仕事にも就けた。薄給なため生活は楽と言えず、貯金も出来ないので将来の不安もあるが、暮らせないほどではない。近くに仕事場(それと在宅の仕事)を見付けたため、家を引っ越す必要もなかった。

 そして生活の昼夜は逆転した。

 夜は部屋中の明かりを付けて、常に起きておく。眠る際は部屋の明かりを点けたまま布団に入り、夜が来た頃に目を覚ます……そうすれば、常に明るい世界に身を置ける。睡眠の質は悪くなったが、を避けるためだ。背に腹は代えられない。

 こんな生活も三年続ければ慣れたもの。難点は帰省した際に親への説明が面倒なのと、宅配便の受け取りに少々難がある事。


「(後は、この生活と合う生活リズムの男にろくなのがいない事かなー)」


 それと恋人にも恵まれない。三十代が迫ってきた吉香にとって、中々無視出来ない問題に苦笑いが浮かぶ。

 今日は仕事が休みの日。自宅である小さな部屋の明かりを煌々と点けたまま、真夜中のニュースを吉香は見ている。政治の話題、芸能の話題、流行の話題……人付き合いのない生活サイクルでも、常識を学ぶ事は怠らない。

 元より社会人マナーとしての行いなので、明るく楽しくやっている訳ではない。しかしそれを差し引いても今日はつまらないニュースばかり。退屈さは別方向の思考を生み、その思考はあっちこっちに思いを馳せる。

 例えば三年前の、自分の暮らしを変えた『アイツ』に関する事柄もその一つ。


「(あれは、結局なんだったのかな)」


 昼間のように明るい深夜の一室で、吉香は未だ記憶にこびり付く姿を思い返す。

 あの時は考えないようにしていたが……あの暗闇の中にいた存在は、恐らく人を『喰う』のだろう。吉香の横を通り過ぎた老人はその犠牲となり、血肉も残さずに消えた。その日、行方不明者捜索の放送が町に響いていたからきっと間違いない。

 何かを食べるという事は、あれは生きているのか。オカルト話に出てくる『怪異』という線もあるが、それが『生きる』ために必要ならば生き物と考えて良いだろうと吉香は思う。

 仮に生き物なら、あれは突然この世に現れたのだろうか? 誰かがバイオテクノロジーで作り出したり、映画よろしく異界の穴が開いてこっちの世界にやってきたのか。


「(多分、違う)」


 吉香の考えは異なる。根拠は何もない。しかし彼女は自分の胸で燻る、『本能』が答えだと予感する。

 人間は、何故暗闇を怖がるのか。

 何も見えなくて、動き回ると危ないから怖がるのか? そうかも知れない。けれども吉香はこうも思う。古来の人類(或いは人類となる前の猿のような動物)は、アレの存在を知っていたのだと。暗闇の中にいる何かが、夜明けと共に消えゆく異形が、自分達を襲うのだと。

 明かりのあるところにいなければ喰われる。明かりと共にいたがる者だけが生き延びる。その末裔が今の人間なのではないか。

 そして人間はその本能に従い、夜の闇をどんどん消していった。町は常に明かりを放ち、夜道は眩く照らされ、眠る時さえ物が見える程度の明るさは保とうとする。宇宙からみれば地球のあちこちが人工の輝きで煌めき、今や人は夜を制した。アレに喰われる人間は、殆どいなくなった事だろう。

 ――――だけど、やり過ぎたのかも知れない。


【次のニュースです。今年の日本の失踪届け出が例年の倍以上の速さで増加していると、警視庁から発表がありました】


 考え込んでいた吉香の耳に、テレビのアナウンサーが読み上げたニュースが聞こえてくる。

 奴が生物なら、暗闇こそが住処なのだろう。人間が身を守るためにした行いは、奴等の住処を破壊した。


【通常失踪事件はその九割以上が解決していますが、近年多発している失踪事件では発見に至らないケースが極めて多いのが特徴です。またこの二週間で厩橋厚生労働大臣と飯塚官房長官が行方不明になるなど、国内政治にも影響を及ぼしています】


 住処を奪われて、奴等は大きく数を減らした筈だ。

 絶滅寸前だった、とは限らない。人は世界の多くを照らしたが、全てを明かりで満たした訳ではないのだから。それでも相当に衰退しただろう。山の中の道さえも街灯がずらりと並び、車のライトが何もかも照らす。潜める場所なんて、人間が踏み込まないほんの僅かな領域だけ。

 だからこそ、今までその存在は表向き知られていなかった。いや、忘れられていたと言うべきか。

 だけど、生き物は変化する。世代を経て、思うがままではないが、故に誰も考え付かないような方法を身に着ける。

 奴等の中に、街灯の明るさにならなんとか耐えられるものが現れたとしたら。明るさの中にはいられずとも、人工の明るさの外に佇む事が出来るようになったなら。

 もう、街の明かりが脅威でないのなら。


【米国など世界各国でも失踪者の数が急速に増加しており、大きな問題となっています】


 適者は環境にどんどん広まっていく。『餌』がある限り、際限なく増え続ける。もう町中の明かりは奴等を止める事が出来ない。

 人間にとって、極めて危険な状況だ。何か対策を取らなければならない。例えば、暗い時間帯は外を出歩かないというように。

 だけど、そうはならない。


【行方不明事件に詳しい専門家の間では、国際的な犯罪組織の暗躍の可能性があるとの話も出ています。各国政府も原因究明のため協力していくと声明を出し――――】


 夜の怖さを忘れてしまった人間に、夜の怖さをそのまま受け入れる事なんて、出来やしないのだから……

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