キャットホール ②
上にあがり、よし、やるかと心の中で発した声は、微かに震えていた。
――――大丈夫さ、大丈夫。僕ならできる。やってみせるさ。
自らを鼓舞しながら屋根の天辺まで歩いていくと、クリムは前足をおろして、空に向かって鳴いた。
「にゃーお、にゃああんっ」
それはもう愛らしくとだ。別にとち狂った訳ではない。錯乱だってしてはいない。いや、しているのは間違いないが、こうやれば、普段滅多に表情を変えなかった無口な妹が、笑ってくれたのを思い出してやったまでのこと。
「なぁああ、にゃーんっ」
が、顔から火が噴き出そうだった。公衆の面前だ。恥ずかしいなんてものではない。吐き気まで覚えた。
でもクリムは、震える唇をぐっと噛んで耐え忍び、頼む、笑っていてくれと願いを込めて、ベリーの方を振り向く。
ベリーは顔を俯かせて泣いていた。見てくれてはいなかったようだ。
死にたくなった。虚しいなんてものではない。大恥かいて、大損こいた。
その憤りを、クリムは空にぶつけた。
いったい僕にどうしろと、どうしろと言うのだと叫ぶ。
途方に暮れていた。もう嫌になり、クリムは力なくその場にぐでんと寝そべると、屋根の上をごろごろと転がる。
勢いあまって前足と後ろ足を反対側に向ける変な体勢を取ってしまったが、そのまま身体を伸ばしていると妙に心地良く、少しだけ現実を忘れさせてくれた。
「殿下ーっ! クリムゾン・ペルシャ殿下はおられるかーっ!」
それからしばらくしてのことだ。謎に同じことをし始めたプチィと暗い眼で見つめないながら、ストレッチをしていたクリムの本名を呼ぶ者が現れ、騒めきが立つ。
あの噂は本当だったのかと、声を潜めて話し合う民衆を余所に、クリムはさっと身を起こすと屋根から飛び降り、物々しく鎧を纏った騎士達の、先頭に立つオスに話し掛けた。
「フルネームで呼ばれるのは久しぶりだね。でも一つ訂正しておくと僕は元殿下であって、今は何の力もない家なしただの野良猫さ」
しかし、そうは言ったものの、騎士達は跨ったネコグリフから降りるや兜を脱いで一斉に跪き、クリムは困惑する。
「殿下、猫目も憚らず、大声にてお呼びだてしてしまったことをまずはお詫びいたします。我々はこの地を治める主より、殿下をお連れするようにと仰せつかり、この場に来たしだい。殿下の色よい返事を我々は主共々期待しております。どうかこの場にてお返事を」
久しぶりに貴族社会の言葉を聞き、クリムは頭が痛くなってくるのを感じた。
「さっきも言ったけど、今の僕は国を担うような立場にいるわけじゃない。僕の故郷はもうないんだ。知ってるだろ?」
すると騎士はおもてを上げ、殿下、ご謙遜召されるなと微笑んだ。
「砂の国に脈々と受け継がれてきた高潔なる赤き血は未だ絶えておらず、閣下もそうお考えです」
「それはそれは、光栄だね。でも本当に僕はもう何も持ってはいないんだ。千や万の兵を率いて援軍に駆けつけたわけじゃない。侯爵様が期待するような力は持ってないんだよ」
「何を仰られます。殿下の御威光を持ってすれば、十の兵が万に化けましょうとも。さ、殿下。馬車を用意してあります。閣下の居城まで案内致しましょう」
話の通じない奴だなと、クリムはがしがしと頭を掻く。
ただ、引いてくれないのなら行くほかない状況だ。権力者の招待を断れば、更に面倒事が舞い込んでくる。
可能性がある程度のものだが、自分だけならともかくベリーとプチィを巻き添えにするのは避けたく、ひとまずプチィを呼んでナッツを任せ、クリムは腹を括って見ない間に
「あー、ベリー……、さっきはすまない。僕も言い過ぎた。侯爵閣下に頼んでみるよ、泊めて貰えないかってさ」
「……うん。私もごめんね? 急に泣き出したりなんかして……」
泣くつもりなんて、なかったんだけどと付け加え、小さく笑ったベリーに、いいさと言おうとしたら、「殿下!」とご婦猫の一匹に強い口調で被せられ、クリムは目を丸くする。
「庶民の暮らしを体験してみたいと思ってのことではありましょうが、それに付き合わされるお妃様の気持ちも、どうかお汲みになってくださいませ」
言っている意味も分からなければ、ご婦猫の半笑いのような顔も気になったが、「あー、そうだね?」と相手せずに流し、クリムはベリーの手を取って、馬車に乗り込みにいった。
馬車は、貴族のものだけあって
ドアを開けて貰ってクリムは先に乗り込み、再びベリーの手を取って、一緒に後ろの座席に腰掛けた。座り心地も抜群だった。
パタンと閉められて、二匹だけのプライベートな空間ができあがると、ベリーが笑いながらこぼしていた。
「なんか凄い誤解されちゃった。お妃さまって……クリムはどう思う?」
「お妃さまの機嫌が直って良かったよ」
もう、と叩かれてクリムも笑った。本当に泣き止んでくれて良かった。頑張ったかいはなかったが、笑顔を見せてくれたなら、それでいい。
手綱が打たれて馬車が進み始め、クリムはなにげなしに後ろの窓に目をやっていた。
ナッツに跨ったプチィが、周りを取り囲む騎士達に負けず劣らずのきりっとした顔で、後ろをついてきていた。
面倒事に自ら首を突っ込むとは、物好きな。なんて思いつつ揺られることしばし、周りに立ち並ぶ建物の雰囲気が貴族階級のそれへと変わってきて、おかしな城が見えてきた。
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