一枚の隔たり

羽衣麻琴

一枚の隔たり

 冷たい手が好きだ。

 生き物なのに無機物みたいな、柔らかい陶器みたいな手が好きだ。

「リアクション薄くない?」

「気に食わないなら離してくんない?」

「ウソウソごめん、暖取らせてよ」

 そう言って笑った彼女の指が、するりと腹を撫でていく。

 インナーの布地を隔てた向こうから、彼女の細い指の感触と、その冷たさが伝わってくる。

「手え冷たすぎじゃね? 他人の体温奪うのやめろよ」

「しょうがないじゃん、冷え性なんだよ」

 寒がりで冷え性の彼女は、冬は登校するとまずこちらのクラスにやってきて、「親友」の制服の下に手を入れる。そうして「暖を取って」から、チャイムと共に自分のクラスに去っていく。

 彼女と「親友」になってから、三回目の冬が来た。

 彼女とは、一年の頃、適当に入部した写真部でたまたま出会い、音楽と映画の好みが合致したことをきっかけに仲良くなった。性格は真逆に近いが、一緒にいると不思議と落ち着く。

 三年でクラスが分かれるまでは、四六時中一緒にいた。思えば夢のような時間だったが、けれどその幸福も、来月には終わってしまう。「卒業」という、どうしようもない離別がやって来るのだ。

 二人とも進学する予定だが、進路の関係で同じ学校は選べなかった。だからこの習慣は、この冬が最後になってしまう。

「はー、君はあったかいねえ」

 彼女が熱を求めて触る場所は、時々は背中だったりもするのだが、だいたいは腹だった。そうなると必然的に、後ろから抱きしめられる格好になる。最初は二人とも立っていたのだが、「ダルい、座りたい」という彼女の一言で、二年の冬からは一つの椅子にくっついて座るようになった。二人羽織みたいな格好だ。何の拷問だよと思う。

 しかも、彼女の手つきには遠慮というものがまるでなかった。今だって、冷たい指は臍の上をさするようにうごめいている。他意はないのだろうが、時々ぞくりとしたものが背中を這うのは仕方のないことだと思う。

「……カイロ持ってこなかったのかよ。この間あげたじゃん、クリスマスプレゼントに」

「んふ、あれすごいウケた。いろんなメーカーのカイロの詰め合わせ。初めて見た」

「最高だったろ? ちゃんと使えって」

「いや使ってるよ。でもあれさあ、どうしてもちっちゃいじゃん? 全体をあっためるのは無理だよ、君が一番良い」

 その言葉に喜んでしまう自分を、バカかよ、と脳内で罵りながら、「なんだよそれ」と口先だけで文句を垂れた。口の悪さは昔からの悪癖だが、なかなか直すことができない。仲の良い相手であればあるほど、口調は雑になっていく。

「いつも言ってるけどさあ、他人の制服めくって手え突っ込んでくるとかセクハラだからな。今どきそういうの性別関係ねえから」

「えー、心外すぎ。ほんとに嫌なら右手挙げてよ。前から言ってるじゃん、そしたらやめるって」

「出た歯医者システム」

「歯医者じゃないよ、歯医者は挙手しても八割くらいはやめてくんないじゃん。私はちゃんとやめるもん。はーい、嫌だったら手え挙げてくださいねー」

 ふざけた口調で言いながら、彼女は腹に添わせた指を再びゆるりと動かした。ぞわ、と身体に小さく電流が走ったのを、バレないように顔をしかめてやり過ごす。

「ほらほらー、挙げるの? 挙げないの?」

 にやにやしている彼女を、肩越しに睨みつける。

 言われた通りに右手を挙げれば、たぶん彼女は本当にやめる。だから一度も挙げたことはないし、これからも挙げるつもりはない。

「いーよもう、寒いんだろ」

「んふ、やっさしー」

「うるせえ」

 出会ってから三年の付き合いで、彼女は良くも悪くもこちらの性格を知っている。怒っているときは寡黙を通り越して無言になることも、本当に嫌なら最初から強く跳ね除けることも、共に過ごした日々の長さでバレている。

 大雑把に見せかけて、彼女は案外他人のことをよく見ていた。「親友」が嫌がることは決してしないし、相手に何かを要求するときは、ふざけながらも必ず逃げ道を用意してくれる。そしてそういう気遣いを、当たり前だと思っている。すごいと思うし、好きだと思う。

「ツンデレだよね君って」

「うるせえっつの」

 だからこれはただの茶番だ。「親友」との仲の良さを確認するための、口先だけの押し問答。

「……っあ、バカ、くすぐるな!」

「んっふっふー、脇腹弱いよねー」

「ちょっ……オラ!」

「あっ、ちょ、それずるい!」

 いきなりくすぐられたので、こちらからもくすぐり返した。側からみればバカップルのいちゃつきみたいに見えるんだろうが、この行為に性的な意図は含まれていない。彼女はただ本当に、暖を取ろうとしているだけなのだ。ついでに、「親友」との仲を深めようという意図はあるかもしれないが、それはあくまで健全なものだろう。

 彼女は基本的に、他人との距離が近い。スキンシップだって多いし、そこにいちいち恋愛とかは絡めないタイプだ。性別も年齢も関係なく、誰とでも仲良くなれる。そういうドライで明るいところは、一方的に好意を寄せる身としては残酷なようにも見えるが、長所だとも言えると思う。他人が怖くて距離を取りがちな自分から見ると、彼女のそういった性質は、憧れすら感じるような、とても眩しいものだった。

「ふー、あったかくなってきた」

 くすぐりの攻防が落ち着くと、彼女はまた笑いながら腹を撫でていった。ほんの少し肉のついたそこを、ゆるゆると撫でて、時折押すようにぎゅっと抱きしめる。そうされるとまた、身体にぞくりと何かが響く。

 気持ちはいいが、少し焦る。ずっとこうしていたいという思いと、いよいよ耐えられないという焦燥感がないまぜになって、身体の奥底でぐるぐると渦巻いている。

「あったまったならもういいだろ、離れろよ」

「えー、まだいいじゃん。あとちょっと。チャイム鳴るまで」

「いつもと同じじゃん」

「ふふ」

 信頼の滲むその手つきが、心地良いのに酷く苦しい。「親友」からの信頼を、ずっと裏切り続けている。

「つかさ、君はこの冬もインナー一枚の軽装備で越す気なの?」

 問われた言葉に、まあそうだね、と努めて軽く返事をした。

「一枚で十分だろ、これ冬用だし」

「不十分だよ。私なんか二枚半重ねだよ」

「半って何だよ」

「キャミソールのやつ。長袖二枚とキャミ一枚」

「つまり三枚じゃん。多くね?」

「君が少ないんだよ」

 一枚のインナー。以前は二枚重ねにしていたそれを、彼女がこうして暖を取るようになってから、わざわざ一枚に変えたのだった。寒い寒いと言いながら、「親友」の制服の中に手を入れてくる彼女の、その指の感触を、出来るだけ近くで知りたかったからだ。

 浅ましいな、と自分で思う。

 浅ましいし、馬鹿げている。

「そういえばさあ、彼氏が今度ランド行こうとか言ってきてさあ」

 不意に変わった話題に、心臓が軋んだ気がした。

 彼女には、二年前から付き合っている彼氏がいる。

「……へえ。卒業記念とか? いいじゃん、行ってきなよ」

 そう言って笑うと、「記念はいいんだけどさあ!」と不満そうな声が耳元で大きく響いた。

「そこで叫ぶな」

「ごめん。でもなんでランドだよって思わない? おかしくない? 絶対シーでしょ、シーの方が楽しいじゃん!」

「それは人によるじゃん」

 そうだけどそうじゃなくて! と喚いている彼女を尻目に、あることを思いつく。

 提案しようとして口を開きながら、やっぱり浅ましいな、と笑ってしまいそうになった。けれどこういう浅ましさは、これまでも幾度となく発揮してきたものだ。「親友」という立場は、何をするにも都合が良い。

「……じゃあさ、シーは一緒に行こうよ」

 彼氏とじゃなくてさ、と小さく付け足すと、「マジ!?」と明るい声が上がった。

「いいねそれ! 名案!」

「そこで叫ぶなって。ちなみに奢らねえから」

「いーよそれは! てか嬉しい、卒業記念にどっか行こうって言おうと思ってたからさあ」

 そう言って笑った彼女が、無防備に顔を寄せてくる。腹を撫でていた手に力がこもって、本格的に抱きしめられるような格好になった。柔らかい胸が背中に当たって、ぴくりと身体が少し震える。

 彼氏だったら、と咄嗟に思う。自分が彼女の彼氏だったら、ここで身を捩ってキスしても、きっと許されたのに。

「……いつがいい? 卒業記念ってんならやっぱ春休みか?」

 よこしまな考えをなかったことにして、何食わぬ顔で問いかける。

 いつがいいかなあ、と呟いた彼女はあからさまにはしゃいでいて、それに嬉しくなる反面、胸のあたりが酷く軋んだ。

「あ、でもちょっと待って、先に彼氏に報告しなきゃ」

「報告?」

「誰とどこに行くか事前に言わないと怒るんだよあいつ。嫉妬深すぎじゃない? たぶんフツーにオッケーだと思うんだけど、あとでまたLINEするね」

「それ前も言ってたよな。まだそのシステムなんだ?」

「そー、ウケるよね。まーでもあいつ、誰にでも優しいからさ。こういうとこで独占欲見せてくれた方が安心っていうか、まあ、正直ちょっと嬉しいっていうか……」

 小さくなっていく声に振り返ると、視界に入った彼女の頬は少しだけ赤く染まっていた。

 遠いな、と諦めるような気持ちで思う。

 遠い。

 遠すぎて、届くことを想像する余地すらない。

「……自分でノロケて自分で照れてんの?ないわー」

「……いいじゃん別に」

「ないわー」

「いいじゃん!」

 赤くなって叫んだ彼女の指に、力が入ったのがわかる。布一枚隔てた指先は、先ほどよりもずいぶんと温かくなっていた。

「まあ卒業しても仲良くやってけそうで良かったよ。お幸せに」

「……まあ、ね。卒業したら一緒に住もっか、みたいな話もしてたり」

「うわーどうでもいい情報来たー」

「いいじゃん! 聞いてよたまには!」

 たった一枚のインナー。ほんの数ミリの隔たり。それは近いようでいて、泣きたいくらいに遠い距離だ。

 決して直には触れない指と、決して触れ合うことのない肌。

 同じ場所に二人で行っても、決して同じじゃない関係。

「親友」と「恋人」の、絶望的な距離の違い。

 ……遠い。

 キーンコーンカーンコーン……。

 間の抜けた音でチャイムが鳴ると、彼女は「あー」とダルそうに呟いて立ち上がった。

「教室戻んなきゃ。体温ありがと」

「おー、また部活でな」

「うん、LINEもするからね」

「授業中にはすんなよ」

「え? するよ」

「電源切っとくわ」

「ひっど!」

 軽口を叩きながら、廊下に去っていく彼女を見送る。

 最後に「じゃあな」と軽く手を振ってみせると、彼女も「じゃあね」と軽快な声を上げた。

 扉の向こうに消えていく姿を見送ってから、左右に振っていた手を止める。

 うなだれるように降ろした手のひらを、そっと腹に当ててみる。制服の内側、先ほどまで彼女が触れていた部分に滑り込ませて、未練がましくその指の痕跡を辿る。彼女の触れ方を真似るようになぞってみると、ぞわ、と背筋が少し震えた。

 この熱が彼女に届く日は、たぶん一生来ないのだろう。

 だからせめて覚えていたい。

 ひやりとした指の温度も、その柔らかさも、そわそわするような触り方も。

 彼女とじゃれあったこの短い日々の、なんてことない些細な思い出を、せめて、ちゃんと覚えていたい。

「優菜ちゃん」

 隣の席から声がして、顔を上げると、クラスメイトの女子が心配そうにこちらを見ていた。

「……なに?」

「お腹痛いの? 大丈夫?」

 いつの間にか、私は彼女に触れられた部分を抱え込むようにして、椅子に座ったまま前屈みになっていた。

「もしかして生理? 保健室行く?」

 続けざま、心配そうに聞いてくるクラスメイトに、大丈夫だよ、と答えて笑う。

 ……覚えていたい、と思う。

 せめて覚えていたい。

 この恋が、どこにも一生届かなくても。

 誰にも言えずに消えていっても。

「大丈夫。ありがとね」

 そう言って、私は笑う。笑いながら泣きそうになる。

 滲んだ視界を誤魔化すように、制服のスカートを強く握った。一瞬だけしわくちゃになったそれは、離すとすぐに元に戻って、しっかり揃ったプリーツで、女としての私の身体を、静かに正しく包んでいった。

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