暗夜異聞 水晶眼の女

ピート

 

 桜の季節にはまだ早い、観光には不向きな時季に、隣県の湖畔に連れてこられたのは、それが蒼からの最後の願いだと言われたからだ。

 周囲に特に何もないこの場所からは、湖が一望出来る。

 ただ観光客が来るルートからは外れているのか、他に人影はない。

 湖を一望出来るように配置された小さなベンチに並んで座る。



 彼と別れてもうすぐ一年になる。

 そもそも別れを切り出したのは私だった。

 きっかけは些細な喧嘩だった。

 しばらく距離を置いて色んな事を考えたい、そう伝え、そのまま……。



 蒼の言葉を信じるのなら、私には『力』があるのだそうだ。

 とはいえ、そんな『力』を感じるような事は今まで一度だってなかった。

 ただ、その『力』があるから私は狙われているのだという。

 私には自分の『力』はわからない。

 ただ、蒼は不思議な『力』を持っていた。

 私が話していないような事を彼は知っていた。

 死んだ祖母や子供の頃同じように入院していて、先に旅立っていった友人の事を……。

 私の『力』の事は教えてくれなかったけど、蒼は自分の力を信じて欲しいから、亡くなってしまった人に伝えたい事があるのなら、その力を見せると言ってくれた。

 霊媒の力、それも蒼の持つ力の一つなのだという。

 そして、私は確かに死んだ祖母と話した。

 蒼が知っているはずのない幼い頃の話、祖母と交わした約束。

 私が蒼に話した事など一度もなかったことだ。

 そして、今日此処で私の『力』を持ち主に返すと言うのだ。

 そうすれば狙われる事は無くなると、蒼は少し疲れた顔で話してくれた。



「こんな所に持ち主が来るの?」

「この湖にいる。今から俺の身体に降りてもらう。あとは話を聞いてくれれば大丈夫。その眼は君には必要ないものだから」

「私の眼は視えなくなったりはしないの?」

「『水晶眼』と云われてるだけで、その眼を奪うわけじゃない」

 そう言うと蒼は瞳を閉じて呼吸を整えていく。

 私の祖母をその身に宿した時と同じように……。

 次第に彼を包む雰囲気が変わっていく。

 ゆっくりと瞳を開いた蒼の表情は、私が初めて見るものだった。

「……蒼?」

「それは、この男の名か?」

 彼の声色ではない。

「……貴方は?」

 見定めるようにじっくりと見つめられる。

「水晶眼は必要ないか?」厳かな低い声……蒼の声じゃない。

「!?それが何なのか教えてはもらえないのですか?」なんとなく目上に人に話すような口調になってしまった。

「正しく伝わることもなかったのなら、この男が言うように必要ないのだろうな」

 少し寂しそうにも見えるが、彼の視線は私をしっかりと見つめたままだ。

「その……『水晶眼』を私が持ったままだと命が狙われるのは本当ですか?」

「そういう輩がいるという事もこの男から聞いた。この男は何者だ?」

「何者?……友人なんだと思います」

「……友人か。ふっ、ではこの男との約束通り水晶眼は返してもらおう。眼を閉じよ」

「あの……」

「恐れる必要はない。必要ないのだろ?」

「持ったまま……私が自身を守る術を得る事は出来ませんか?」

「戦うための力ではない。それにこの男と既に約定を交わしている」

「約定?そもそも貴方は誰なんですか?」

「私はそなたの過去に連なる者。長きに渡り『水晶眼』を宿してきた事に感謝する」

「ご先祖様なんですか?」

「さて、血が連なるのか魂の系譜なのか」

「魂の系譜?」

「わからぬのならそれでよい。そなたを害する者ではないことは約束しよう」

「私にはそれを信じていいのかがわかりません」

「害するのなら目覚めた時にそうしている。さて残す時間は僅かだ。その眼を返してもらう。瞳を閉じてゆっくりと呼吸をしてもらおうか」

 有無を言わさない声に、言われた通りに瞳を閉じる。

 時間がないというのは、蒼がこの人を身に宿す時間のリミットが近いということなんだろう。

 顔に翳されているのは彼の手だろうか。

 何か温かいものに包まれているように感じるが、触れられているわけではない。

 そして温かい何かが流れて入ってきているようにも感じる。

 不快なわけではない。そして入ってきている感覚と同じように、何かが私の中から流れて出ていくのもわかる。

 コレが私の中にあった『力』なんだろうか?

 流れ入ってくるものは温かく優しい。



「これでこの男との約定は叶えた。そなたは何か望みがあるか?」

「もう眼を開けても?」

「かまわん」

 目の前にいる蒼の顔をした人(?)は何者なんだろう?

 水晶眼の持ち主で、私の過去に連なる人。

「また……いつか貴方に会う事はできますか?」

「天命を終え、再び会いたいとその時願っていたのなら……」

「わかりました。蒼は……この人は何をしてるんですか?」

「この男が話していない事を伝えるわけにはいかない。それにこの男が何者で、何故こんな事をしているのか……逆に聞きたいものだ、友人なのだろ?」

「……えぇ」そう今は友人でしかない。いや、別れてから連絡も取りあっていない。

 それでも友人と呼ぶのを許してもらえるのだろうか?



 蒼の友人に告白されたのは半月ほど前のことだった、蒼が反対しないのなら──と、私はどうするのかを蒼に委ねた。

 今日の会うことも、何かを期待していたのかもしれない。

 蒼の運転する車での移動中、会話らしい会話もないまま、此処に到着した。

 そもそも此処に来ることと『水晶眼』を持ち主に返す事しか聞かされていなかった。


 彼は蒼に告白をした事も、蒼が反対しないなら付き合いたい事も話したと言っていた。

「俺が反対したくらいで諦めるような気持ちなのか?別れた俺から言うことはそれだけだ。ちょっとバタバタしてるから、また改めてメシでも行こう」蒼は彼にそう言ったそうだ。


 蒼は私に黙って何かをしている。

 私が知ることのないように……「知ってしまえば色んな責任が生まれるんだよ」蒼はそんな事をよく言っていた。

「知らなかったら後悔もしない……知ってしまえば自分に出来た事はなかったか?そんな事を考

 えちゃうだろ?知らん顔したっていいんだろうけど、俺は自分の手の届く範囲くらいは何かしたいからさ」照れくさそうに笑っていた。蒼は自分を犠牲にしてでも出来る事はしていた。

 何故蒼がそこまでしなくちゃいけないの?傷ついて疲れた蒼にそう食ってかかったことだってある。

 蒼が傷つく姿を私は見たくなかったから……。



「娘よ、そなたの未来に幸多からんことを」

「ありがとうございます。……また此処に来ても?」

「このように会うことは出来ぬだろうが……この地はかつて我らが一族が住んでいた場所だ。力を貸す者もいるやもしれんな」

「私にはそういった『力』は無いんです」

「では、このひと時を過ごせた事を感謝していたと伝えてくれ」

「……感謝?」

「そして約定は叶えたと……さらばだ」

 慈しむような優しい微笑みを浮かべ、彼は瞳を閉じる。

「待って!まだ……」

 糸が切れた人形のように蒼の身体が倒れる。

「え!?」慌てて抱きかかえるが、反応はない。

 呼吸と心音を確かめる。

 浅い静かな呼吸はあるし、心音も聞こえる。

「蒼!大丈夫?蒼!!」

「……大丈夫だよ。この状況はあいつに怒られそうだ」

「そもそも蒼と二人で此処に来ている事を話してない」

「何をしていたか説明に困るかもしれないけど、内緒にする必要はないよ。少しだけ休憩させてもらっていい?」抱きかかえていた私の手を解き放すと、蒼は瞳を閉じて大きく深呼吸をした。

「大丈夫なの?さっきの人は何者?」

「少し休めば大丈夫だよ。彼は何か言ってた?」

「約定は叶えたって、あと感謝するって」

「感謝?……何かが彼にとって良い結果になったならいいさ。『水晶眼』は持ち主の元に戻った。これで狙われることはないよ」

「私がそれを失った事はわかるの?」

「視える人にはね」

「そもそも実感がなにも無いもの」

「そんなもんさ」

「……蒼が守っていてくれたの?」

「俺が?」

「蒼は嘘つくの下手だよね」

「嘘なんかついてないさ。守ってなんかいない」

「本当に?」しっかりと眼を見つめて問いただす。

「あぁ」眼をそらすこともなく蒼は小さく答えた。

「……」……直接守らなくていいように、何かをしていたんだ。私の目の前で何かが起きないように……私に何かが起きないように……。

「疑り深いなぁ」

「知ってるじゃない。で、この後は?」

「もちろん、送り届けさせてもらうさ」

「それだけ?」

「俺は不義理はしないよ。久しぶりに夕飯くらいは、といきたいとこだけど、急いで帰らないと今夜も人と会う予定があるんだ」

 そう言うと蒼は立ち上がり、車へと促す。

 付き合っていた頃なら立ち上がるために差し出してくれていた手はなかった。



 車に乗り込むと、シートベルトをしたのを確認して、蒼は車を走らせた。

 車内にはステレオから流れる音楽の音だけだ。

 色んな事を聞きたいけど、蒼はきっと答えてはくれない。

 どうすればいいんだろう?

 彼に相談?

 蒼の『力』を彼は信じてくれるだろうか?

 そして『水晶眼』と今日の事を……。

 隣県まで二人で出掛けていた事を、彼は許してくれるんだろうか?

 答えは出てこないまま、高速を降り私の家までもう少しで到着だ。



「家まで送っても大丈夫?」

「朝も近くで乗せてもらったものね。いつも行ってた本屋さんで降ろしてもらっていい?買いたい本もあったし」

「構わないよ」

 さほど家から遠くない書店の駐車場へと車を入れると、降りやすいように、空いている場所へ駐車する。


「お疲れ様。忘れ物しないようにね」早く帰したいのか、蒼の口から出てきたのはそんな言葉だった。

「蒼……本当に大丈夫?」

「大丈夫だよ」

「そうやって即答した時、大丈夫だったことなんて一度もなかったじゃない。何を隠してるの?どうして何も話してくれないの?」

「何も隠してなんかないよ。そもそも何もかも話す必要なんかないだろ?俺達は……もうそういう関係じゃないんだから」

「そういう関係なら話してくれたの?」

「例えばの話だよ。俺だって内緒にしたい事だってあるさ」

「……無理はしてない?前見たいに倒れたりしない?」

「出来ることしかしないし、出来ないからね。倒れて色んな事が出来なくなっても困る」

「本当に?」

「友人に心配させるような事はしないよ」

「……そうね」友人……か、蒼の中で私はもうそういう存在なんだ。

「今日は付き合ってくれてありがとう。また皆で飯でも行こう」

「あの日から今日まで、そんな事してないじゃない。彼とも……皆とも会わないで何をしてるの?」

「色々と忙しいんだよ。やりたい事も、しなくちゃいけない事も多くてね。この後も本当に予定があるんだよ」時計を確認しながら蒼は答える。

「何があったのか、何が起きてるのか話してはくれないの?」

「話す必要がない。知った責任を負わせるつもりもない」拒絶する言葉だった。

「私が知れば責任を感じてしまうような事をしてるって事じゃない」

「そういうわけじゃない。疑い始めたらどんな言葉を伝えても勘ぐるだけだよ。水晶眼を返す方法を知る機会があった。だからそうするために付き合ってもらっただけ。急に君が死んでしまったり、姿を消したりしたら、あいつが悲しむだろ?」

「……蒼は悲しんでくれないの?」

「そうなりたくないから、今日付き合ってもらった。俺が嫌な思いをしたくなかっただけだよ。もう行かないと約束の時間に間に合わなくなる」

「いつか話して」

「何の事を話せばいいのかわからないけど、機会があればね」

 私が忘れ物をしていない事をもう一度確認すると、蒼は私を見送ることもなく車を走らせていった。

 きっとそんな機会はこない、それだけはわかった。






「待たせた?」約束の相手が到着しているのを確認すると蒼は声を掛ける。

 レストラン内の隠れたバースペースにいたのは、幼い少女だ。

「約束通りの時間さね。私は自分の店のスタッフの働きぶりを確認していただけ」

「るぅ姉を待たせなくて良かったよ」安堵したのか表情が和らいだ。

「で、そんな身体になって帰ってきた理由は話してくれるんだろうね?」

「見ての通り自分で車も運転したし、此処までちゃんと自分の足で歩いてくるくらい元気な身体だと思うんだけど?」

「蒼が私を姉と慕ってくれるように、私も弟の心配をしてるだけさね。それとも姉に話せないような事をしてきたのかい?可愛い弟をそんな状態にした相手を私が許しておくとでも?」口調は穏やかだが、その瞳には怒りが隠しきれない。

「『水晶眼』を持ち主に返してきただけだよ。光を失ってしまっては今後の生活に支障が出る。だから……」

「そこまでしてやる相手なのかい?」

「もちろん、大切な女だからね。命の恩人の今後の人生に心配事が無くなるなら、この程度安いもんさ」

「氣の流れが無茶苦茶じゃないか」

「神降ろしをして、約定を交わしたんだ。この程度で済んだなら問題ないさ」

「それじゃ、この先、蒼はどうやって戦うんだい?」

「そういうのからはもう解放されたいと思ってるんだけど?」

「『会』は?」

「後任の方が優秀なんでね」

「その身体で生活に問題はないのかい?私と一緒に来るかい?」

「姉さんと一緒にいたら甘やかされてダメ人間になっちゃうよ」

「いくらでも甘えたらいいじゃないか」

「るぅ姉は今でも甘やかしてくれてるじゃないか」

「とりあえず、もう少し氣の流れが良くなるように整えておくさね」

「ありがとう」

「でも、蒼。私に出来るのはそこまでさね。こんなに事になるなら、あんな未来を見せるんじゃなかった」こと

「でも見てしまった未来よりは良い未来だよ。るぅ姉と殺し合う事は起きないんだから」

「で『会』も離れてどうするんだい?」

「しばらく綾金も離れてのんびりしようかと」

「のんびり?」

「名前も顔もそれなりに売れてしまったんで、知られてない辺りでのんびりとね。何せこの身体ですから」

「何かあった時は必ず連絡をよこすんだよ。それこそ、そんな身体なんだから」

「もちろん。じゃぁ、今度会う時は心配かけないようにすると約束しますよ」

「私も可愛い弟が幸せになる事を願ってるさね」

「後悔もしてませんし、今も幸せですよ。車で来てしまったんで乾杯出来ないのは残念だけど、再会の時の楽しみにしてますよ」

 そう言うと蒼は店を後にした。



「マスター、私もしばらくは此処に来ることもないだろうから、店のことは任せるよ」

「他には?」

「マスターの事を信頼してるさ」

「では、お気をつけて」

「万が一、蒼の後任が頼ってくるようなことがあれば……ぼびぃに繋いでやっておくれ」

「かしこまりました」

 それだけ言い残すと彼女の姿は溶け込むように消えていった。

 残されたグラスを片付けると、マスターと呼ばれた男はcloseの札を入口に掛けた。

 主のいないこのバーを開けておく意味などないからだ。

 そして、男も闇に溶けるように姿を消した。




 Fin

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