第19話.僕たちは同じ罪を犯してる

 翌朝になっても疲弊している頭でなんとか考えて、やっぱり逃げようと思った。

 不倫をしてしまったこと、それ自体は勿論私の罪だ。だけどそれは、凌介が私を裏切っていたこととは全く別の話だ。怒りで許せないという気持ちは薄く、ただ怖かった。罪を犯し、凌介を裏切った私は、いつか彼に殺されるかもしれない。

 逃げなきゃ。だけどどこに?御影にも危害が及ぶかもと思うと、彼のところに行くのも恐ろしい。それでも私は御影に会いたかった。許されるなら、今すぐに。


「あれ、ない……どこに置いたんだろ」

「おはよ、杏ちゃん。どうしたの?」

「凌介……」


 朝に相応しい爽やかな笑顔で現れた凌介を見た途端、バクバクと激しい動悸に襲われる。心臓をそのまま鷲掴みされているような心地に、体が強張る。そんな私に凌介は「探してるのってこれ?」と、目の前にスマホを差し出した。


「あ、ありがと。私どこに置いてた?」

「サイドテーブルだよ。俺が拝借して、GPS入れさせてもらった」

「……なんで」

「なんで?それを杏ちゃんが聞くの?」


 凌介は続け様に「感謝してほしいぐらいだよ」と肩をすくめる。


「本来ならスマホを取り上げたいところなんだよ?だけどそれはあまりにも可哀想だからさ」

「そんな……」

「あと、パートも辞めてね。今日、今、ここで電話して」

「無理だよ、シフトももう出てるし、そんな非常識なことできない!」

「非道徳な不倫はできたのに?」


 言葉に詰まって、私は俯いた。凌介が怖い。少しの間もそばにいたくないが、今は従順に大人しくしている方が良いだろう。いざとなれば、凌介が仕事へ行っている間にここから逃げればいい……待って、逃げるってどこに?

 同じことが頭の中をぐるぐると回る。逃げたい。逃げる場所なんてない。御影に会いたい。御影に危害が及ぶのは絶対に嫌だ。


「ね、ねぇ。私、退職理由ってどうすれば」

「ん?引っ越しするんだよ」

「引っ越しするから今日から行けません、って言えばいいの?」


 パート先の従業員は生活圏が被っている人が多かった。引っ越すと言って辞めた私とスーパーで鉢合えば、彼女たちはどんな気持ちになるだろうか。「もっと本当っぽい理由ってないのかな……」と窺うような視線を送った私へ、凌介は不可解だとでも言いたげに首を傾げ、そして何かを閃いたのか満面の笑みを浮かべた。


「違う違う。本当に引っ越すから、心配しなくても大丈夫だよ」

「え?」

「ん?辞めた後、パート先の人と偶然会うのが気まずいんでしょ?」

「……引っ越すって、嘘でしょ?」


 戸惑う私を嘲笑うかのように、凌介は「本当だよ」ともう一度丁寧に言い聞かせた。


「引っ越し先はもちろん誰にも言わない。俺がつぶしがきく職種で良かったよね〜」


 一週間後ね、荷物まとめておいて、と明るい声が遠くで聞こえる。


「そうだ、御影にも一応連絡しておいたら?探されても面倒だしさ」

「…………みかげ、」

「ん?『もう会わない。よくよく考えたら、私が愛してるのは凌介だった』って」


 ほら、と、私にスマホを押しつけて、関係を終わらせろと催促する。ここは監獄だ。私はこの息の詰まる空間で、死んでいくのを待つだけの囚人なのだろう。御影がヒーローのように助けに来てくれる可能性に縋り付いて、それだけを願って一生を終えていくしかないのだろうか。


「御影、助けて……」


 私の口から無意識に滑り出た言葉を聞いた凌介は、「あはは」と大きな口を開けて笑い出した。何がそれほどおかしいのか、腹を抱えて笑うその姿は悪魔そのものだと思った。

 その姿に私は胸を痛めた。凌介を人ざらなるものに変えてしまったのは、私の身勝手で愚かな不倫という行為なのだ。

 たしかにそれ以前に、凌介の裏切りがあった。許すことのできない大きな裏切りだ。だけどそれが表面化したきっかけは私の不倫で、それがなければ凌介はその罪を墓場まで持って行っただろう。

 罪はバレなければ罪ではない。私はたしかに幸せだった。


「凌介、ごめんね」

「は?なにが?不倫したことについて謝ってるの?それならいらないって、」

「違う。凌介の罪に気づけなくて」


 中に出したフリをしていたこと、私のスマホにGPSを仕込んだこと、凌介は言わなくても良いことを種明かしするみたいにペラペラと話していた。まるでその罪を私に知ってほしいと言っているような。知った上で、俺を愛して、俺を選んで、俺を止めて、と願っているような。

 裁かれない罪は自分自身で償っていくしかないのだ。それはどれほど辛く、どれほど重く、どれほど心への負担を強いることになるだろう。

 現に不倫がバレたとき、私は少し安堵したのだ。罪がバレたら罰を与えられる。罰の次に与えられるもの、それは赦しだ。赦しとは救いなのだ。


「はぁ?杏ちゃんって、そういう能天気なとこあるよね!?お人好しで、ほんと馬鹿みたい」


 凌介は狼狽えていた。「そんなんだから、悪い男に騙されるんだよ」と、悲しげに呟かれた言葉の"悪い男"とは誰を指しているのだろう。


「御影は助けに来ないよ。現に電話もメールも来ていない」


 そう吐き捨て、凌介はスマホを私の手に握らせた。なるほど、たしかに凌介の言う通り、御影からの連絡は一切きていない。


「御影ももう飽きたんでしょ。それかいざとなってやっぱり怖くなったんだよ」


 小さな子供の悪戯を優しく諭すように、凌介の声音が柔らかくなっていく。


「杏ちゃんは自分と御影のことを特別な、まるでそう、ロミオとジュリエットだとでも思っていたみたいだけれど、そんなことはない」「現に杏ちゃんたちの不倫は夫にバレるっていう、ありきたりな終わり方を迎えようとしている」


 私はただ黙って凌介の話を聞いていた。


「恋なんてどれも同じ。夢中なときはあれほど輝いて宝物みたいに特別なのに、いざ終わって振り返ってみれば、それは褪せて古びたガラクタ」


 私の心を抉り、御影と決別させようという意図を含んだ言葉は、どうしてか私の心に響いてこなかった。それはきっと、凌介がその言葉を自分自身に言い聞かせているような気がしたからだ。


「全て終わってみれば、なんであんなに執着してたんだろ。あの子のどこがそんなに良かったんだろって……馬鹿馬鹿しくなるのが、恋だろ?」


 まぁ、不倫は恋なんていう崇高なものじゃないか、と、凌介は皮肉るように片頬に笑みを浮かべた。

 そうなってやっと、私は凌介がどれほど傷ついているのかを真に理解した。……真に、なんて言えば、凌介は「不倫されたことのない奴がされた人の痛みを理解するだなんて、烏滸がましいよ」と噛みついてくるだろうけど。


「凌介、ごめんね。それでも私は、」


 張り詰めた空気に突如として鳴った音に肩が跳ね上がり、私の言葉は喉奥にしまわれた。着信を知らせるその音に、2人して自分のスマホを確認すれば、それはどうやら凌介への着信のようであった。「ごめん、ちょっと」と私へ断りを入れた凌介は、向き合っていた体を反転させ、私へ背中を見せた。


「もしもし、もっちゃん?うん、そう……あぁ、」


 これはこの監獄から抜け出せる千載一遇のチャンスではないのか。考えるより先に体が動く。急いで寝室を出た私は玄関に放置されたままの鞄と上着を引っ掴んで、パジャマのまま玄関を飛び出した。

 

 凌介は分かっていたのかもしれない。敢えて隙を見せてくれたのかもしれない。そうでなければ説明がつかない。だって凌介は、私を追いかけては来なかった。




 玄関が閉まる音がして、俺は「今出て行ったよ」と、電話の向こう側のもっちゃんに完了報告をする。


「マジで、盗聴でもしてたの?ってぐらいの、タイミングの良さだったよ〜」

『おいおい、盗聴なんてしてねーからな?』


 そんなことは分かってる。昔から真面目一辺倒の幼馴染の、冗談が分かっていない返答に、堪えきれず笑みがこぼれた。


「もっちゃんは昔っから変わんないね〜。ほんと、安心するわ……」

『おい、お前変なこと考えんなよ?』

「え〜?変なことって?」


 俺の問いかけに、もっちゃんは言葉を詰まらせた。大方、俺が自ら命を絶つことを心配でもしているのだろう。それとも、杏ちゃんと御影に酷い仕返しをするとでも思っているのだろうか。


『……いや。とりあえず、慰謝料貰ってさっさと縁切れよ?』


 全く余計なお世話だと思うが、もっちゃんが言うから腹も立たない。


「う〜ん、どうしよっかな。正直、お金貰っても腹の虫はおさまらないよね……御影を選んだこと後悔してほしいじゃん?」


 聞く人が聞けば、今後の俺との付き合い方を考えるきっかけにもなるだろう言葉を聞いても、もっちゃんはあっけらかんとしていた。

 

『お前もわざわざあっちに行くことねーだろ』

「あっち?」

『そうだよ。凌介、ここで踏みとどまれよ?不倫するような奴らと同じ土俵に立つなよ』


 なるほど。たしかに、不倫という穢らわしい罪を犯した奴らと同じ所にまで堕ちることはないか。もっちゃんの言うことはまともで尤もだと思えた。

 だけどもっちゃんは知らない。俺が犯した罪を。そしてもう俺が決めたことを。


「これが俺の罪に対する罰なんだな……」


 幸せにしたいと結婚した彼女の願いを無下にし、なんなら酷い騙し方までして独占したいと願った。そんな杏ちゃんに不倫されて捨てられる……うん、俺にはお似合いの罰じゃないか。


「じゃあ、いったいあいつらへの罰ってなんなの?2人がのうのうと幸せになるなんて許せない」


 屈辱に塗れた俺の素直な気持ちを聞いたもっちゃんは、一度大きな息を吐いた。


『罪と決別なんてできると思うか?罪はずっと付き纏うんだよ』

「付き纏う?」


 不穏な響きを持ちながら、なんと甘美な言葉だろう。


『不倫から始まった相手を心から信頼できるか?もし自分のときに不倫されたら、仕方ないって許すのか?もし子供ができたら、その子供にはなんて言うんだ?お父さんとお母さんは、不倫で出会いましたって言うのか?それとも嘘をでっちあげるのか?』


 俺が思っているよりずっと、もっちゃんは今回のことに腹を立てているようだ。その証拠に杏ちゃんたちを糾弾する言葉がやまない。


『罪は、幸せを感じたその時に、一番強く蘇るんだよ』


 その言葉を聞いて胸がすく思いがした。罪の意識に苛まれながら一生を終えることこそ、奴らに相応しいではないか。しかし、その罰は余りにも人任せだ。


「分かったよ……ありがとな、もっちゃん!」


 慰謝料がっぽりぶん取ったら飯でも行こ〜と、明るく茶化した俺に、もっちゃんは『お前の奢りな』とふざけた。


 分かってないな。真面目で純粋なもっちゃんと違い、あいつらは踏みとどまることなく罪に手を染めたのだ。

 そんなあいつらに"一生罪を背負って生きていく"という殊勝な気持ちなど期待してはならない。やっぱり俺が罰を下さないとなんだよ。

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