第20話.慎ましやかな呪いは透き通っている
突然現れた私を見た御影はサッと顔色を変えた。
「怪我してないか?!」
そりゃ昨晩不倫が夫にバレたばかりの女が、連絡もなしにパジャマ姿で現れたのだ。さぞ驚いたことだろう。
「うん、それは大丈夫……連絡もなしに突然来ちゃってごめん……」
「それはいいんだ。……良かった」
御影は安心したように深い息を吐き、私をその腕の中に閉じ込めた。鼻腔をくすぐる御影の香りはお日様の匂いがする。抱きしめられるだけで全てなんとかなりそうな無敵感は、高校生の頃を思い起こさせた。
たったこれだけで不安全部吹っ飛ぶなんて、これが凌介が言っていた"恋は盲目"そのものなのだろうか。私と御影の恋が当たり前の日常に溶け込めば、その魔法は解けてしまうのだろうか。
「連絡返ってこないから、今から家行こうかと思ってた」
そう言った御影の格好を改めて見れば、たしかにアウターまできっちりと羽織って、今すぐに何処へでも行けそうだ。
「御影、2人で逃げよう?」
「逃げる?……昨日、あれから何があった?」
声をこわばらせた御影は私を部屋へ上げ、リビングの床へ座らせると徐に後ろから抱きしめた。その上で「話せる?」なんて至極真面目に聞いてくるものだから、笑ってしまう。
「あは、この格好じゃ話しにくいよ」
「え?そーか?向き合った方が話しづらくね?」
それなら、と向き合った御影の目を見つめれば、彼が言った通りだった。普段の何気ない会話ならできるが、昨夜のことを御影の顔を見て話すことは中々に困難だ。
「……やっぱり体勢戻そうかな……」
「な?あ、そーだ、こっちのがいんじゃね?」
そう言うや否や立ち上がった御影は、横に置いてあるベッドへ寝転ぶと、おいでおいでと私に手招きをする。
「えっ?!ベッド?!この服で寝転びたくないんだけど」
「それパジャマじゃねーか」
「そうだけど、これで外歩いて電車乗ったもん……」
「シーツは洗えばいーから、ほら、来いって」
半ば無理矢理に御影に手を引かれた私は、出来るだけゆっくりと御影の横に寝転んだ。胸元に顔を埋めて息を吸い込めば途端に満たされて、御影の体臭は麻薬と同じ成分でも入ってんじゃないの?と、あり得ないことを割と真剣に考える。
まぁ、辛さや苦しみを一時的に忘れたところで根本が解決するわけでもなし。そもそもこの罪を私は忘れてはいけないのだけれど。
「話したくなかったら話さなくてもいーぞ」
微睡過ぎて一向に話す気配のない私の髪を梳きながら、御影は私の気持ちを慮る。"2人で逃げよう"などと言われたら、余程のことがあったと誰でも思うだろう。事実、私の身にも余程のことがあった。正直口に出すことを躊躇うほどの内容だ。
「……うん。ねぇ、私、御影とずっと一緒にいたい」
「あぁ、俺もだよ」
キスをしようとした御影が一瞬躊躇したことが伝わってきた。「御影?」と不思議そうに彼の名前を呼べば、御影は私の左手を取り、まだ凌介との永遠の愛を誓った証のある薬指に口づけを落とした。
「あは、やだ、御影っぽくない!キザ〜!」
「うっせーな。そんなことは俺が一番分かってんだよ」
私は照れを隠すように御影を茶化した。それでも御影の赤く染まった耳があまりにも愛おしくて、「ねぇ、もっかいキスして」と左手を差し出せば、御影は「お前なぁ……」と揶揄う私へ呆れ顔を見せた。
そのくせ次の瞬間には口を開き、パクリと私の薬指を含んだのだから、御影の行動は本当に全く読めない。
「ちょっと、やだ……!」
嫌だと言う割に、私の心に拒絶の気持ちは全く入っていない。時折結婚指輪に御影の歯が当たり、カチャと音を立てるが、それを聞いても凌介への罪悪感は芽生えなかった。
「いっ……た!」
大人しく御影の行為を受け入れていた私の指にチリっとした鈍い痛みが走り、反射的に御影の口から薬指を引き抜いた。「もう!噛んだでしょ?!」と文句を言いながら見つめた私の左手薬指。その付け根には御影の歯型が薄らとついていた。
「あは、もう、ほんとやだ!御影、バカじゃん!」
「あ〜?うっせーうっせー。俺の頭ん中おかしくなってんだよ」
「ほんとバカ!私たち、もう高校生じゃないんだよ?」
こんな恋愛ドラマや漫画で使い古された行為、
30歳を超えた、しかも不倫をしている2人がするようなものではない。恋に溺れ、頭の中がお花畑になった高校生でも喜ばないかもしれない。
それでも私は嬉しかった。左手薬指の付け根についた歯型は永遠を誓う証そのものだと思った。手に馴染みすぎてつけていたことさえ忘れていた結婚指輪をそっと外し、私はもう一度、御影に「2人で逃げよう?」と彼を誘った。
「俺はもう逃げない」
受け入れてくれると思っていた御影は、私の提案に首を振った。しかしそれに私との関係を拒絶する意図はないと、御影の真摯な顔つきが語っている。
「どこに逃げたって、罪の重さは付き纏う。許してもらいたいだなんて、烏滸がましいこと思ってない。許されるとも思ってない」
御影の親指が愛おしげに私の頬を撫でる。柔らかい擽ったさに目を細めれば、御影は「ふっ」と鼻から短い息を吐いた。「猫みてーだな」と下がった眦は、昔飼っていたという黒猫を思い返しているのかもしれない。
「謝りたいのも結局自己満なんだよな……罰を欲しているのさえ甘えなのかもしれない」
御影はそう言いながら、私の顎を擽る。私のことを本気で猫かなんかだと思っているのかもしれない。
「私、猫じゃないよ?」
「んなこと分かってるよ」
「ふふっ。ねぇ、人生をやり直せるとしたらどうする?」
顎を擽っていた御影の動きがピタリと止まった。残酷な質問だっただろうか。それともしょうもなさすぎる質問に呆れただろうか。
そうやって聞いたくせに、私はまだその答えを出せていないのだ。
「結局……何度やり直しても同じことをするだろうからなぁ……」
御影は諦観の表情がよく似合う。しかし諦めていながらも、彼の顔や声音は清々しいほどに晴れやかであった。
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冷静になれば、パジャマで出歩くって相当に恥ずかしい……とチラチラと刺さる視線に肩身を狭くしながら、御影と2人で凌介が待つ家へと向かう。
「そういやスマホは?」
「あ、家に置いてきた」
「?……そうか」
だから凌介へ連絡することも、彼から連絡を受けることもできない。凌介は今なにをしているだろうか。私が家を出てから3時間も経っていないことを思えば、変わらず家で待っている可能性が高いだろう。
凌介が無闇矢鱈に私を探し回るとは思えなかった。彼は無駄なことが大嫌いなのだ。
家に入るだけ。その行為に、かつてこれほどまでに緊張したことはあっただろうか。御影を見上げれば、彼は覚悟を決めたように深く頷いた。
息を深く吸って吐き出す。先ほどまでうるさいほど鳴っていた心臓が、漸く落ち着きを取り戻した。
かちゃり。いつもと変わらぬ音を立てて、玄関の扉は開いた。やっぱり凌介はここで私を待っているのだ。
「凌介、」
しかしこの違和感はなんだろう。私の呼びかけに返事がないまま、開け放たれたリビングの扉から廊下へ風が吹き抜けた。春の訪れを知らせる柔らかな風が御影の髪をふわりと揺らす。
「りょうすけ、どこ?」
嫌な予感がヒタヒタと、私の後ろから絶望を引き連れてやって来る。その予感にバタバタと急ぎ足で向かったリビングに凌介の姿はなかった。
私が飛び出した時からなんら変わりないリビングの中でただ一つ、不自然なほどに開けられた窓から、また風が吹き抜ける。鼻腔を擽る春はこれほどまでに晴れやかなのに、私にはそれが恐ろしい。
「みかげっ、凌介がいない、」
「え?お前のこと捜しに出てるのか……とりあえず電話かけてみよう」
普通に考えれば御影の言う通りで、大体の人がその思考に至るだろう。だけど、私には確信があった。凌介は私を捜してなどいない。絶対に電話には出ない。
事実私の予想通り、置きっぱなしにしていた私のスマホから凌介へかけた電話は、虚しい呼び出し音を鳴らすだけであった。
「どうしよ、どうしよ、凌介どこにいるんだろ」と異様なほど取り乱す私の両肩を掴んだ御影が、「とりあえず落ち着け」と大きな声を出す。
「俺が家の中捜すから、お前は長内の職場に電話しろ」
的確な指示を出した御影は私を抱きしめ、トントンと等間隔で背中を優しく叩く。だけど御影は「大丈夫」だとは言わなかった。「すぐに帰って来るよ」とは言わなかった。彼にもきっと、それが虚しい慰めだと分かったのだろう。
凌介の職場に妻だと名乗り、「夫は今そちらにおりますか?」と聞いた私への返答に、息が止まった。辛うじて「失礼します」と私が電話を切った直後、異様な空気を察した御影がリビングに戻ってきた。
「凌介、3日前に突然仕事辞めてるって……」
その言葉を聞いた御影が思わず息を呑んだ。
「あ……でも、引っ越すって言ってたから、別に深い意味はないかも……あは」
項垂れた私へ御影はもう何も言わなかった。言えなかったんだと思う。
凌介の実家にも電話をかけたが『来てないわよ』という返事だった。お義母さんが『喧嘩したの?どうせ凌介の我儘が原因でしょ?』と私を慰める。
違う、違うんです。私が不倫をして、彼を裏切ったんです。卑怯な私はそれを口にできなかった。ただ「ごめんなさい」とあやふやに謝ることだけしかしなかった。
私は次にもっちゃんへ電話をかけた。私が家を出るその瞬間、凌介が電話をしていた相手で、凌介の一番の友達。もっちゃんは平日だというのにワンコールで電話に出てくれた。
「もしもし、凌介どこにいるか知らない?」
突然かかってきた友人の妻からの第一声が友人の所在を尋ねる言葉だなんて、普通ならさぞ驚くだろう。しかしもっちゃんは予見していたように落ち着いていた。
『なに?凌介いなくなったの?』
「そうなの、帰って来たら家にいなくて、連絡もつかないの……もっちゃん、電話してたよね?」
今どこにいるか知ってる?と尋ねた私に、もっちゃんは嫌悪感を隠すことなく『凌介がいなくなる理由に心当たりがあるんだろ?』と吐き捨てた。
私の顔が強張ったことが分かったのだろう。私の横で見守っていた御影が、"電話代わる"と口パクとジェスチャーで訴えてきた。私はそれに首を横に振って、大丈夫だと伝える。
『なーんて、俺がとやかく言うことじゃねーか』
「……え、」
『杏ちゃんの不倫を罰する権利があるのは、凌介だけだろ』
そりゃ腹立ってるけど……と、もっちゃんは続ける。
『凌介はいなくなったりしねーよ。アイツはそんな奴じゃない。アイツが御影と杏ちゃんに罰を与えずに、消えるなんて考えられない』
もっちゃんは、凌介の陰湿な部分への信頼感があるらしい。だけど確かにそうかもなぁ、と思う。あの執念とも言える私への執着と異常行動を考えれば、凌介が簡単に私を諦めるとは思えなかった。
『とりあえず待ってなよ。そのうちひょっこり帰ってくると思うぜ』
通話を終えた私の顔を覗き込みながら、御影が窺うように「なんだって?」と尋ねた。
「居場所は分かんないけど、帰って来ると思うよって……」
それを聞いた御影は眉を顰め、「そうか」とだけ呟いた。きっと、なんてありきたりで陳腐なその場凌ぎの励ましなんだろう、と、そう感じたのだろう。私も言葉にしてそう思った。それは何の足しにもならない第三者の励ましだった。
「凌介が帰って来たら……離婚のこと、」
「うん……誠心誠意、罪を償おう」
御影の髪が風に揺れる。西日に照らされて、まるで宝石みたいな煌めき。
卒業式の日、「結婚しよーぜ」と笑った御影を思い出した。あの日に戻れたら、私、迷うことなく御影の手を掴むのに。掴んで離さないのに。
"時を巻き戻せたら"そんな願いが叶わないことは、高校生の私でも知ってた。
凌介は帰って来なかった。
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