第18話.私の罪はそうして赦された

 私がすべきことは泣いて謝り続けることではない。自分の言葉でこれまてまでのこと、これからのことを伝えなければと、とめどなく流れる涙をぐいと乱暴に拭う。


「あ〜、そんな擦っちゃ赤くなるよ」


 ほら、もっと杏ちゃんの顔見せて、と凌介は私の顎を掬う。私はその手を払って、彼と真正面から向き合った。


「凌介……、私、御影と不倫してる」

「……うん、それで?」

「御影と一緒にいたい、から、別れてください」


 深々と下げた頭を唐突に撫でられて、心が騒つく。怒鳴ってくれないだろうか。怒鳴って泣き喚いて、最低だと、見損なったと罵倒してくれないだろうか。

 そっちの方が随分と心が楽なのだ。こんな風に、慈しむように扱われては心が苦しい。あまりにも不気味で、悪寒が走る。


「御影と再婚したいんだよね?」

「……ただ一緒にいられたら、それで」

「子供が欲しいの?」

「え?」


 予想外の言葉に顔を上げれば、凌介は「目が真っ赤だ」と私の眦を優しく撫でた。


「ほら、前はよく言ってたじゃん。『子供が欲しい』って。だから御影と不倫したの?非協力的な俺への当て付けかな?」

「違う、そんなこと考えてもいなかった……」


 それは本心だった。子供を望む気持ちには折り合いをつけたつもりだった。しかしそれは上部だけで、本当は子供を授かる友人たちを羨み、私もいつか、と願っていたのだろうか。私の気持ちに向き合わず、「俺は欲しくない」と一蹴する凌介を恨んでいたのだろうか。


「ふぅん……まぁ、それが理由なら今からでも子作りしようよ」

「……なに、それ……この6年間、ちっとも向き合ってこなかったのに、今になって……」

「そんな怒らないでよ。あ、そうだ、御影は知ってるの?6年間、中で出しても子供できなかったって」


 凌介はそう言いながら、私の下腹部、正確には子宮を舐めるように見つめる。


「……知らない、御影には言ってない。言う必要がないもの」

「え〜?それって裏切りじゃないの?御影、きっと子供大好きだよ?」


 私を責めるポイントを見つけた凌介は嬉々として捲し立てた。私も凌介も、岡部くんの子供たちと楽しそうにバレーをしていた御影を思い浮かべている。


「杏ちゃんが不妊だって知ったら、御影は考え直すんじゃないかな?そうなれば、杏ちゃんは捨てられて一人ぼっちだよ?」

「…………」

「でも俺なら大丈夫。どんな杏ちゃんも愛してる」

「そんなの、愛じゃない。そんな押し付けがましい気持ちは、愛じゃないよ。それに、」


 空気を大きく吸い込んで私は心を落ち着けた。隠してきた事実を告げるために、そうしなければならなかった。


「黙ってたけど……私、クリニックで検査して問題ないって言われたの。だから、」

「え?!じゃあ俺が原因で子供できないって分かってて、結婚生活続けてたってこと?」


 凌介は秘密を聞いて戸惑うどころか、声を弾ませ、喜色満面な様子だ。


「それって愛じゃん!」


 声高かに言い切った凌介は、離婚話の最中だとは思えないほどの笑顔で私を抱きしめた。この人はおかしい。ここから早く逃げなければいけない。そう思うのに、震える足では叶わない。


「俺たちが離れる理由なんてどこにもないんだよ?」


 確信を得たような口振り。このどんよりと重い空気の中で、凌介だけが歪だ。


「無理だよ……!私がもう凌介と一緒にいたくないの」


 それがとどめの一撃になったようで、凌介は肩を震わせ、顔を手のひらで覆う。泣いているのだと思った。申し訳ない気持ちは多分にあったが、これで終わりだとホッとした気持ちの方が大きかった。


「私、出て行くね。離婚条件については後日話し合おう」


 クローゼットから当面の間の荷物を取り出そうと寝室へ向かう。確か一泊用の旅行カバンがあったはずだ。


 私がクローゼットを開けたその時、上に伸ばした腕を掴まれて、身体が反転するほどの力が加わった。そのままベッドへ放り投げられ、やっと自分の状況を理解する。マウントの姿勢をとった、泣いていると思った凌介は、笑っていた。口元が綺麗な弧を描く、お手本のような美しい微笑みだった。


「、離してっ、痛いっ!」


 その行動を非難して、いくら「離して」と訴えても、どれだけ力を加えても、凌介は決して私の腕を離さない。それどころか徐々に強くなる力と痛みに、私の顔は歪んでいく。


「だーかーらー、子供が欲しいなら作れるって」

「っ、なに言ってるの?もうそういう段階じゃないの!」


 どれだけ私が声を荒げても、凌介は作り物の微笑みを崩さないし、声が上擦ったりしない。打っても打っても響かない。砂浜に落ちた一本の針を探しているような虚しさ、徒労感。もう疲れた。


 私はウブな少女ではない。凌介が何をしようとしているのか、それは充分に分かっている。一度セックスして諦めてくれるなら、それでいいか。少し目を瞑っていれば終わることだ。私は身体から力を抜いて、それに気づいた凌介はさらに目を細めた。


「素直な杏ちゃんが好きだよ」

「……慰謝料から差し引いてね」

「ははっ!上手いこと言うね。そうか、これは強姦になるのか」


 凌介は依然として愉しそうだ。私は諦めたように目を閉じた。



 凌介とのセックスはいつも流れが決まっていた。セックスが苦手な私の心を解そうと、繰り返されるキスから始まるのだ。

 しかし今日はいくらキスをされようと、私の心は凍えたままだ。それどころか執拗に繰り返される口づけに、嫌悪感が膨らんでいく。そんな私に気づいているくせに、凌介は愉しそうに、私の体をやわやわと触り始めた。

 拷問だと、これこそが地獄だと思った。早く終わってくれと目を強く瞑る。


「早く終わって、って思ってる?なら早く終わらせてあげるね」


 凌介はクスクスと不気味な笑みを漏らしながらそう言い終わるや否や、私の体を貫こうと硬くなったものを秘部にあてがった。それを認識した瞬間、吐き気を催す。無意識に震えだした体を、凌介が「大丈夫?怖い?」と初めてのときのように気遣った。

 そうやって私の体を心配するぐらいなら、今すぐこの行為をやめてほしい。今なら願いを聞き入れてくれるだろうか。私は一縷の望みをかけて、震える声で最後の懇願をした。


「や、めて、」


 そう言ったのと、凌介が私を無理矢理こじ開けたのは同時だった。ほぼ濡れていないそこに押し込む行為は、私だけでなく凌介のことも傷つけたであろう。こんなの痛いだけに決まってる。そこには充足感や幸福感などない。あるのは混じり気のない苦しみと虚しさだ。


「濡れてなくても入るもんだね〜」


 私からは痛みを逃そうと時折悶える声が漏れた。一聴すれば喘ぎ声だと捉えられそうだが、そこに艶は一切含まれていない。

 痛み、羞恥、諦観、憎悪がごちゃ混ぜになった負の気持ちが私を襲う。惨めだ。これが罰だというなら、この行為が終われば私は御影と幸せになれるのか。こんな薄汚れた気持ちで、御影に笑いかけられるのか。


 無意識に流れていた涙に気づかせてくれたのは、凌介の舌先であった。

 凌介は「杏ちゃんは泣いてる顔が一番可愛い」と震え上がる言葉を吐いて、何度も何度も舌先で涙を掬った。そしてその度に腰を打ち付けるスピードが上がっていく。突き動かされる振動で生理的に声が漏れる。こんなのまるで凌介に「もっと激しくして」とねだっているみたいだ。いやだ、いやだ。私は気づかぬうちに下唇を強く噛み締めていた。


「あ〜、出る……、出すね、中に」


 そう言われて咄嗟に「やめて!」と言えなかった。強く噛みすぎた下唇のせいで上手く発声できなかった。


「やだ、やだ、」


 やめて、と、漸く言えた頃には、凌介は「赤ちゃん、できるといいね」と恍惚な表情を浮かべ、私の子宮辺りを優しく優しく何度も撫でた。


「……ひどいっ、」

「酷い?どっちが?俺?それとも杏ちゃん?」

「…………っ!」


 私はそれに答えられなかった。これが私の犯した罪への罰だというならば、私は甘んじて受け入れなくてはならないのだ。

 それでも少しの間でも凌介の精液を中に入れていたくない。意味のないことだと分かっていながらそれを掻き出すために、私は立ち上がった。

 その瞬間、ドロリと垂れ出る精液の感触を初めて味わう。いつもは凌介が後処理をしてくれたから、こんなに気持ちの悪いものだとは知らなかった。それとも、私たちがこうなってしまったからこその嫌悪感なのだろうか。これが御影のものなら、私の中から流れ出るものさえも愛おしいと思うのだろうか。


 不快感故に動きを止めた私を見て、凌介はニヤニヤと笑い出した。その含みのある笑い方に、訝しむように眉根が寄っていく。なにがそんなに嬉しいのだろう。


「やっと分かった?本当に中出しされた感触」

「……え?」

「あれ?気づいてないの?中に出されるとドロ〜って、垂れてくるでしょ?」


 それ、と凌介の指が私の股辺りを指した。私は凌介の言わんとしていることが分からなくて、さらに顔を顰める。


「表面を拭いても、多少掻き出しても、時間が経つとサラサラ〜って出てくるよ」


 それは精液のことを指しているのだろう。だからなんだと言うのだ、そんなこと、何度も中に出されたことのある私は……。


「えっ、凌介、まって……どういうこと……?」

「も〜、鈍い!まぁ、そんなところも可愛いよ。だから今まで騙せてたんだよね」


 ドクンドクンと心臓が大きな音を立てる。心拍は速いのに、耳元で聞こえる音はやたらとゆっくりで、じわりじわりと嫌な汗が滲み出た。

 私の中では既に一つの答えが出ていた。だけど本当にそうなら、それはなんて酷い裏切り。私は認めたくなかった。好きで結婚までした人がそんなことをしていたなんて。それにそんなことをする意味が見つからない。

 だけど、凌介は「そうだよ、その通り」と、まだ口にしていない私の答えを明確に肯定したのだ。


「俺、今まで一度だって中に出したことなかった」


 あ、だめ、吐く……。その場にしゃがみ込み、ドラマで観た悪阻のように「うっ、」と口元を押さえる私の横にやって来た凌介は、私の背中を柔い力で摩り始めた。その手を今すぐにでも払い除けたいけれど、口を開いても動いても吐き出してしまいそうで、できない。


「なんでかって言うとね、俺、杏ちゃんのこと大好きじゃん?だからなんだ」


 私が聞いてもいないのに、凌介はペラペラと話し始めた。


「もし子供ができて、杏ちゃんが変わっちゃうのが嫌だったの。世の中のお母さんみたいに、可愛げ忘れて、強くなって、子供が一番になって、旦那のことはテキトーに扱って……俺、そんなの耐えられないもん」


 吐き気が少し落ち着いてきたと思えば、凌介の言い分に今度はめまいがした。私の背中を摩り続ける手から逃れようと捩った体を、逃すまいと凌介が抱きしめた。そして子守唄を歌う母のような穏やかな声で、かけっこで一等賞を獲った子供のように自慢げに、凌介はさらに語る。


「俺もすっごく苦しかった。大好きな杏ちゃんの中でイキたかった。だけど我慢したんだ。バレないように毎回イッたふりして、お風呂の中でティッシュに吐き出してたんだよ?」


「俺、こんだけ杏ちゃんのこと愛してるんだよ。俺以上に杏ちゃんのこと愛せる奴なんていないよ」


 何も考えられない。頭も割れそうに痛い。御影のところに行かなきゃ。この人から逃げなきゃ。そう思うのに、体が動かない。


「あ、そうだ!知らないかもしれないから、一応言っとくけど。不倫した方から離婚の請求はできないからね」


 もうやめて。もう許して。これ以上私を追い詰めないで。言葉にならない懇願を、私は首を振って伝えることしかできない。


「俺は別れないよ。お前たちはどれだけ想いあってよーが、一緒にはなれない」


「これが俺を裏切った罰だ。杏ちゃんは俺と結婚したその瞬間から、ずーっと死ぬまで、俺のものだよ」


 凌介はそう言って、より一層私を強く抱きしめた。そしてうなじの香りを嗅ぎ「何回でもできそう」と、残酷な言葉を口にする。


 これが罰。それなら私に救いなど訪れない。


 ごぷりと耳障りな音を立てて、私の中から凌介が溢れ出した。

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