第17話.白骨化した青春の代価
一度だけ、軽いキスをした。唇の熱など、ましてや形など分からないほどの短い口づけ。それだけで胸がいっぱいになるなんて、本当に初恋をやり直しているみたいだ。
「トマト煮食べてく?」
「マジで?!いいの?!食べたい食べたい!」
子供みたいにはしゃぐ御影が愛しい。そうやって心が和んでいる一方で、私は凌介とのビデオ通話の約束を思い出していた。
昨夜は本当に就寝前の23時過ぎにかかってきた。私は御影との関係に終わりを感じた悲しみの中、ベッドに入った状態で通話を受けたのだ。
いつくるとも知れぬ連絡を一方的に待っているのは辛い。だいたいの時間を指定してくれれば随分と楽なのに、昨日と同じ時間にかかってはこないだろう確信があった。私の不貞に気づいた凌介がそんな分かり易いことをしてくるとは思えなかったのだ。
「これ食ったら、今日は帰るわ」
「え?そうなの?」
「おー、さすがに泊まったりできねーだろ」
そりゃそうか、と思うのに、さよならをするのが寂しい。「また会えるよね」と不安げに聞いた私に、御影は「当たり前だろ」と言い切った。
「長内に話さないとな」
「凌介には私から話すよ」
「……いや、俺に話させてほしい」
「なになに〜?話なら今聞くよ?」
突如聞こえた作り物のような明るい声。寒気を感じる笑顔を貼り付けて、私たちの前に現れたのは、他でもない凌介だった。
「りょ、うすけ、なんで?あれ?出張は?」
「ん?あー、いろいろあってね。そんなことより、御影来てたんだね。こんばんは」
「あ、あぁ」
「今日トマト料理?俺嫌いなんだよね〜。匂い嗅いだだけで吐きそう」
オエーと舌を出した凌介が私の背後に立ち、徐にうなじの香りを嗅いだ。
まるで御影の存在を無視しているかのような、いつもと同じ振る舞い。怖い。凌介が何を考えているのか分からない。いっそ「俺の留守中に男連れ込んでるなんてあり得ないだろ?」とでも怒鳴ってほしかった。
「凌介が今日帰って来るって思ってなかったから……ごめん」
「だよねだよね。ぜーんぜん気にしないで!御影がトマト料理好きなの?」
「……長内、話したいことがあって、」
御影がガタリと音を立てて、座っていた椅子を引いた。凌介は相変わらずニコニコと笑顔を貼り付けている。私はといえば、今にも吐き出しそうな緊張感に押し潰されそうで、手を握りしめて一刻も早くこの時間が終わってほしいと願うしかなかった。
「え〜?なになに〜?あ、もしかして『旦那の留守中に家に上がり込んでるけど、やましい関係じゃないんだ!』……とか?」
声音も表情も何も変わらない。いつもの凌介だ。しかしビリビリと肌で感じるのは凌介の怒り。当たり前だが、彼は激怒しているのだ。背徳の恋に溺れた、愚かな私たちに。
「いや、」
「うーん、それなら言い逃れできないように2人のセックス中に乗り込めば良かったかな?」
私たちを疑っている間接的な言葉に背筋がヒュッと冷えた。それなのに喉はカラカラで、唾液が飲み込めない。しかし戸惑い狼狽えている私とは違い、御影はじっと凌介を見つめ、凛とした声で告げた。
「長内、ごめん……申し訳ございません……杏さんが好きです。結婚したいんです。だから別れてもらえませんか」
凌介はそれを黙って聞いていた。深々と下げられた御影の頭をじぃと見つめている凌介の顔から、笑みが消える。
「俺のこと馬鹿にしてるとしか思えない」
「凌介、ごめん、」
「杏ちゃんは黙ってて?俺、今このゴミと話してるから」
うっそりとした凌介の目が私に向けられた。あまりにもこの場にそぐわない表情に、さらに恐怖を掻き立てられる。怒りが限界を超えると、心と体がバラバラになってしまうのだろうか。私は凌介の心を壊すことをしてしまったのだ。そしてそんな彼に追い打ちをかけるように、視線を逸らしてしまう。
「本当に申し訳ないと思ってる。でも、どうしても俺には杏さんが必要で」
「恥ずかしげもなく、よくそんなことが言えるよね〜。俺やっぱり、お前のこと大嫌いだわ」
「……勿論慰謝料も支払います。出来ること全てして償います。だから、どうか、杏さんと一緒にならせてください」
御影が凌介に何度も頭を下げて、「お願いします」と床におでこを擦り付けた。出来ることなら「もうやめて、そんなことしないで」と止めに入りたかった。だけど、私に出来ることといえば、御影から目を逸らさずに見守ることだけなのだ。
「はぁ……今すぐ出て行って」
「お願いします。別れてください」
「出てけって言ってんだろ?!」
凌介が御影の胸倉を掴み、引き摺るように玄関の方へ連れて行こうとする。
「待って、凌介!お願い、私も御影と一緒にいたいの。別れて、私と離婚してください……」
御影を掴む凌介の手を必死で解かせようとしながら、私は彼の心を粉々に壊す。繰り返す「ごめんなさい」の言葉は、凌介が思わず笑ってしまうほど陳腐な響きで、安っぽい謝罪だ。しかし私も御影も、それ以外にどう言えばいいのだ。どうすれば凌介は見限ってくれるのだ。
「ねぇ、セックスは……もちろんしてるか!中出しは?した?」
「は?なにを、」
「なに、何言ってるの……訳分かんないこと言わないで!私たちはそんな、」
「あぁ、そんな無責任で、欲望に塗れた薄汚れた関係じゃないって?」
反吐が出るね、と凌介は吐き捨てて、御影に「帰れ」と冷静な声で告げる。
「まずは俺と杏ちゃんで話し合わせて。これは夫婦の問題だから」
そう言われれば帰るしかないと、御影は私にアイコンタクトを送った。それに"またね"の意味を込めて頷き返せば、御影は名残惜しそうに眉を顰める。
私だってこのまま離れたくない。凌介と2人でいるのが怖い。御影だって、私をここに残して帰りたくないはずだ。だけど、今の私はどう転んでも凌介の妻なのだ。
扉が閉じる。また会えるよね。すぐに会えるよ。会えますように。自分を励ますように何度も願った。
私にくるりと向き直った凌介は「ただいま」と私を腕の中に収めた。
「やだ、やめて。ねぇ、話をしたい」
「うん、どんな話かな?俺、明日仕事休みだからさぁ。いつまでも付き合ってあげられるよ」
話をはぐらかしながら「あー、疲れた」と伸びをした凌介の背中へ「別れてください」と、無情な言葉を浴びせた。
「俺の何がいけなかったの?直すよ、言ってみて?」
「凌介は悪くないの。どうしても御影がいいの」
「どこが?あいつのどこがいいの?!いつから?いつから俺を裏切ってた?」
「…………」
正直に答えることが凌介へのせめてもの誠意だと思うのに、見たことがないほど激昂する凌介に唇が震える。
「はぁ……もしかして杏ちゃんって高校生のとき、あいつのこと好きだったの?」
「……っ、」
無言で肯定してしまった私へ、凌介は呆れたように「それは思い出が美化されてるだけだよ」と諭した。
「……俺は杏ちゃんを許すよ。俺たち仲良く楽しくやってきたじゃん。これからも、おじいちゃんおばあちゃんになっても、こうして二人で、」
「ごめんなさい、私、凌介と2人で生きていけない」
「杏ちゃん……」
「ごめんなさい。本当にごめんなさい」
私たちはもうやってはいけないと、何度も首を左右に振った。次から次へと溢れてくる涙を拭うこともせず、譫言のように謝罪を口にする。
そんな私を凌介はただじっと見ている。怒りも悲しみもなにもない。そこに広がるのは空虚な闇だ。
▽
ふわふわと柔らかい風が門出を祝福しているようだ。昨日までは冬の香りが強かった空気も、今日は一転、春の陽気だ。
みんなと涙の別れを終えた私と御影は、いつも通りに2人で通学路を歩いていた。
「御影泣かなかったね」
「お前は泣いてたな」
馬鹿にするような笑い方のくせに、その実大きな手は私を励ますように肩を叩く。ここで頭の一つでも撫でないところが私たちらしいなと思った。
成就の希望を抱きながら、いつも絶望の淵に立たされているようなこの恋とも今日でお別れだ。
私と御影は別々の大学へと進む。会おうと思えばいつでも会える距離だが、楽しく忙しい大学生活で御影が私を思い出してくれるとは到底思えなかった。異性の友達なんて、会わなければ忘れさられる。彼女が出来れば尚更だろう。それは悲しくも、喜ばしいことなのだ。
「なぁ……」
いくら続いても苦痛にならない沈黙を破り、御影が足を止めた。私が「ん?」と振り返り、御影に視線をやった瞬間、ぶわりと強い風が吹き、御影の髪がふわりと揺れる。こんな大事なセレモニーの日まで寝癖をつけたままの御影が愛おしくて、おかしくて、頬が自然と緩む。
「……塚原、」
「なに?風が凄くて、きゃっ」
悪戯な風が私のスカートを捲ろうと躍起になっているようだ。スカートを押さえ、ボサボサになりそうな髪を押さえることに私は忙しい。もっと大きな声で言ってよ、と言いたくなる私の気持ちを察したのか、御影は口を丁寧に開けた。
「30歳になってもお互い独身だったらさ、結婚しよーぜ」
なんてタチの悪い冗談だろう。御影が私の気持ちにちっとも気づいていない可能性すら出てきて、呑気に笑っている御影に腹立たしさすら覚える。それよりも悔しいのは、そんな明らかな戯言を泣きそうなほど嬉しいと感じてしまっていることだ。
「え〜?あは、いいよ、じゃあ私、絶対結婚しないどこうっと」
「……俺も。それまで絶対結婚しない」
ねぇ、御影、私のことやっぱり好きでしょう?なのになんで、今付き合えないの。どうして今の私じゃダメなの。聞きたいけど、そこは御影の心の真ん中にある一番柔らかい部分な気がして踏み込めない。
「じゃあ、私の旦那様は御影になるわけね」
「……いやー、お前は忘れるよ。で、自分だけさっさと結婚して幸せになるんだよ」
まるでその未来を望んでいるかのような口振りだと思った。近づいたと思えばあっさりと離れていく、本当によく分からない男だ。だからこそ知りたいと思うのだろうけど。
「そうだとしても恨まないでね」
「ほらなー!忘れる気満々じゃねーかよ」
御影の肘が私の身体を小突く。私もそのまま仕返せば、2人で同時に吹き出して、馬鹿みたいに笑った。別れの寂しさを誤魔化すように笑って、涙まで浮かべた頃、私は御影を見つめ微笑む。
「忘れてても、思い出すよ。御影に会えば絶対、思い出す。今の気持ち全部」
御影は悲しそうに眉尻を下げた。私たちまだ高校を卒業したばかりだよ?そんな幸せ全部諦めたような顔をする歳じゃないよ。
「それなら、俺たち再会しない方がいいんじゃね?」
「え?……あ、そっか!私が結婚してて再会しちゃったら、不倫で修羅場ってことだもんね!絶対再会したくなーい」
ケラケラと笑いながらくしゃりと鼻筋に皺を寄せ、御影に首を左右に振って見せれば、彼は「ほんと好き勝手言うよなー」と口角を上げた。
「でもまぁ、そうか。俺たちの再会が罪の始まりにならなけりゃいいな」
「覚悟して再会しなきゃね」
「覚悟……不倫をして地獄に堕ちる?」
「やだ、違うよー!不倫をしない覚悟!」
「いやもうお前、30歳前に結婚する気満々じゃねーか」
そりゃそうだ。私は御影との恋を、日に当たることなく枯れた恋を捨てるのだ。私は御影とは幸せにならない。
「じゃーね、御影!……また会える、かな?」
いつも「また明日ね」と手を振る場所で、私は曖昧に首を傾げた。そんな私よりさらに曖昧に、御影は微笑みながら手を振るだけだった。
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