第16話.エンドロールは流れない
「今日はこのまま帰ります」と言った私に、「あら、珍しいね」と、酒井さんはエプロンを外しながら眉を持ち上げた。
「夫が出張なんです。5日間も」
だからスーパーに寄る必要はないのだと告げれば、「それって最高ね」と酒井さんがニンマリと笑う。
夫の不在を喜ぶ妻は案外多いらしい。それはもちろん、手の込んだご飯を作らなくて良かったり、家事の量が減ったりすることに対してで、間違っても私のように"不倫相手に会える"だなんて邪なものではないけれど。
昨夜、御影は結局来てくれなかった。それどころか『さっきは悪かったな。また明日連絡するから』とメッセージを一通寄越したのみで、それ以降は音沙汰なしだ。連絡は平日の15時までね、と決めてはいたが、昨日の状況でそれを律儀に守らなくてもいいのにと思う。
『パート終わったら連絡してきて』
酒井さんと駐輪場で別れて、すぐに確認したスマホにメッセージが届いていた。たったそれだけで泣きそうになるほど嬉しい。この文面の向こうに御影がいると思うと、文字の一つさえ愛しい。
だけど私はいよいよ覚悟を決めたのだ。人通りの少ない高架下。薄暗いそこで深呼吸をして発信ボタンを押せば、数度の呼び出し音の後、耳に馴染んだ声が聞こえた。
『お疲れ』
ぎゅっと胸を鷲掴みにされたような苦しさ。昂った感情が、今にも涙として溢れ出しそうだ。だけど泣いてはいけない。そう深く言い聞かせて、私はぐっと下唇を噛んだ。
『昨日悪かったな』
「ううん、大丈夫。というか、取り乱してごめん」
『いや……なんかあったんだろ?今日、俺んち来るか?』
それは今の私が欲しい優しさではなかった。昨日、あの時の電話でそう言ってくれていたら……。私は、凌介との"ビデオ通話"の約束など顧みず、のうのうと御影の腕に飛び込んでいただろう。そして愛でも囁いて「今すぐ私を連れ去って」と縋りついていたかもしれない。
だけど今の私はそうではないのだ。
「もう終わりにしよう、かな、って」
終わりにしたいと言い切れないのは、私の弱さで、御影への未練だ。この期に及んでも曖昧な物言いで、私たちの関係が続いていく可能性を僅かにでも残してしまう自分が恨めしい。浅はかで、未練がましい女だ。
しかし物分かりの良い御影は、そんな曖昧な言葉を瞬時に理解し、そして小さく鼻で笑った。安堵のような諦めのような、その微かな息遣いが私の心を撫でていく。
『随分と急だな』
感情が読めない声音だと思った。素直な感想をだだ述べただけ。そもそもそこに、感情など入っていなかったのかもしれない。
「……飽きたんだもん。それに潮時だと思うよ。バレたの、たぶん、夫に」
『……え、長内にバレたのか?!』
私の暴露により感情が現れた御影の声が少し上擦った。そして御影にとっては、私に飽きられたことより、凌介にバレたことの方が余程重要なのだろう。飽きた発言には一切触れてこないことが良い証拠だ。分かっていたことだが、明確に突きつけられた現実に悲しくなった。
結局いつも本気になるのは女の方なのだ。女は体を重ねるごとに気持ちが入ってしまうのに、男の人は体を味わう度に気持ちが離れていく。それどころか、簡単に体を許す女は勘弁だとでも言うように、本命相手に選ぶのは全く違うタイプなのだから。
御影も、私と一度セックスをしたら飽きてしまったのかもしれない。そう思うとさらに胸が苦しくて、この痛みこそが罰なのかもしれないとさえ思った。
「なんでバレたのか分かんないけど……出張中は夜にビデオ通話するねって言われて」
『うん。それで?』
「電話が掛かってきたら何をしてても出てって。……異常でしょ?バレたの、確実に。……だから、」
私は大きく息を吸い込んだ。春の訪れを告げる暖かで眩い西日が、その決断を祝福しているように足元を照らした。
「だから、もう、終わりにしよう」
▼
終わりを告げた私に、御影は「とにかく会おう」と食い下がった。今さら何を話すと言うのかと思ったが、それでも会いたいと思うのは私が御影に惚れているからだ。
今さらなによと思うのに、また会えたことの喜びで胸が打ち震えた。
「お疲れ様」
「おー、お疲れ。入っても?」
「うん。どーぞ」
「お邪魔します」
仕事終わりにそのまま家にやって来た御影に「ちょうどご飯作ってて」と言った後、なにが"ちょうど"なんだと自分の言葉に引っかかた。なんだか「夕飯食べてく?」と暗に誘ってしまった気になって、そういう意味じゃないのと否定しそうになる。が、御影は全く気にしていない様子で「めっちゃ美味そうな匂いしてるな」と答えた。
「鶏肉のトマト煮だよ」
「へぇ、トマト煮か、いいな」
「ね。私、トマト大好きで」
凌介はトマトが嫌いだから、と口走りそうになって、慌てて口をつぐむ。それはわざわざ言わなくてもいい事だ。
「俺も好き。トマトもトマト料理も」
知ってる。高校生の時、言い合いばかりしていた私たちが、トマトが大好きってことで盛り上がったじゃん。植田くんが「食感とか匂いとか無理なんだけど〜」って言って、それに「トマトの良いところは、分かる人だけが分かればいいから」って笑い合ったじゃん。
だから私はわざわざ行かなくてもいいスーパーに寄って、ストックの必要のないトマト缶を買って、こうして煮込んでいるのだ。別に御影に食べてもらおうだなんて思ってない。トマト料理を普段食べられない私が、私のために作っているのだ。別に御影のことを想って煮込んでいるわけじゃない。
「知ってるよ。御影がトマト好きなこと」
別れ話をする前だとは思えないほど穏やかな時間が流れていた。この瞬間を私は後生大事に抱えて生きていこう。思い出を啜って心の隙間を埋めていけばいい。
見られなかった御影の顔を真っ直ぐに見つめて、精一杯微笑もうと思った。私は気にしてなどいないから、御影も気にしないでと。それが最後のプライドだった。
「結婚、するか。俺ら」
全ての時が止まっているのに、私の心臓だけがバクバクと大きな音を立てている。それは耳元に心臓があるんじゃないかと錯覚してしまいそうなほどだ。言葉の意味は理解できているのに、御影の真意が掴めない。私へ向けられた言葉だとは到底思えない。
「え?ちょ、っと、え?私、聞き間違ったかも」
戸惑いを誤魔化すように笑った私から、御影は目を逸らさない。家に入って来てから一定を保っていた私たちの距離を詰めるように、御影が足を進めた。
一歩、一歩。目を逸らさず。そして、手を伸ばせば触れる距離に来た御影は、ふっと相好を崩した。
「一緒になろう」
全てを手放す覚悟をしたと言った。そして御影の世界に残るものは私だけでいいと言った。
いつの間にそんな大きな覚悟を決めたのだろうか。私に御影の全てを壊す価値などあるわけないのに。私が御影の積み上げてきたものを壊す……その事実に今さらながら恐怖する。
「私、御影のこと飽きたって言ったじゃん」
「うん。そんな嘘つかせてごめんな」
御影は全てを分かった眼差しで私を見つめて、少し躊躇いながら私へ手を伸ばす。御影、なんでそんな泣きそうなの。私も泣きそうだよ。
先を思えば恐ろしい。私たちが一緒になるためには、大きな許しを得なければいけない。だけど、御影。私は悲しくも辛くもない。嬉しくて嬉しくて堪らないのだ。
その手に触れて、私は罰を受け入れる覚悟を決めた。
「御影、その、国枝さんとは……」
強く抱きしめられた腕の中で、ずっと気になっていたことを問えば、御影は「あー、あぁ、あー?」となんとも曖昧な声を出す。
「なにその返事……怖いんだけど」
「いや、まぁ、そもそも国枝さんとは付き合ってないんだよな」
「?え?そんなことある?付き合ってるって嘘ついてたってこと?」
本当に意味が分からなくて、怒りなど湧いてこない。ただ純粋に御影の気持ちが知りたかった。
「嘘、……嘘ついたっていうか、そっちが勝手に勘違いしたから、まぁそのままでいっかーって」
「なにそれ、全然分かんない……」
別にそれが積極的な嘘でも、結果として嘘になってしまったのでも、そんなことは些事であった。
私は"付き合っていることにした理由"について説明してほしいのだ。御影に彼女がいるという事実(ではなかったが。私はそう思い込んでいた)に、私は傷ついたし、国枝さんの存在は御影との関係を進めていく上での罪悪感の一端を担っていた。
御影は勿論、私が本当に聞きいたいことを理解している。理解していてはぐらかしているのが顔に浮かんだ苦笑いから伝わってくる。しかし私のじっとりとした視線に逃げ場はないと悟ったのだろう。嫌々、という雰囲気をたっぷりと纏った御影はポツリポツリと話しだした。
「それがストッパーになるなら、どんな小さな障害でも良かった」「俺は塚原を地獄へ引き摺り落としたかったわけでも、俺がどうしても地獄へ堕ちたかったわけでもない」
そこまでを丁寧にゆっくりと紡ぎ、そして一呼吸。御影は諦観の表情がよく似合う。
「だけどなんの役にも立たなかった。どれも障害にならなかった」
それは私も一緒だ。友達や家族からの信頼を失うことも、慰謝料で財産を手放すことも、社会的信用の損失も、不倫をしている罪悪感も、不倫の不自由さも、永遠の愛を誓った夫の存在でさえ。私の愚行を思いとどまらせてくれるものにはならなかった。
「ふぅん」
「なんだよ、もっとリアクションくれよ!」
御影は照れ臭かったのだろう。不自然なテンションの高さに笑ってしまうが、私だって照れ臭い。
「なによー、昨日は仕事だって来てくれなかったくせに」
本当はもうそんなことに腹を立ててはいなかった。ただの照れ隠しのじゃれあい。私のぷぅと膨らんだ頬とちゅんと尖った唇が、余りにも分かり易く御影に甘えている。
「そりゃ俺だってすっ飛んで行きたかったよ?お前に会いたいって泣かれてんだぜ?当たり前だろ
」
「そー?とてもそんな風には思えなかったけどー?」
「なんだよそれ。じゃあ、お前の目には俺がどんな男に映った?」
御影がにんまりと笑う。私を挑発している挑戦的な笑みだ。こう見れば、御影は高校の頃の面影を色濃く残している。大人な顔つきになったな、と思うけれど、彼の本質は少しも変わっていない。
「私に飽きたのかと思った。飽きて、私が重くなったからもういらないのかな、って」
「ちょ、っと〜?塚原さん?それはさすがに酷すぎない?俺ってそんな信用ない?」
クスンクスンと泣き真似をし出した御影に「ごめん」と軽い謝罪を送る。
「友達としての御影は信用してたよ?お調子者で馬鹿みたいに騒いで、そのくせやたら面倒見が良くて……でも、本当の御影は誰にも見せない」
「ふっ……それ信用してるって奴に向けた褒め言葉じゃねーだろ」
「あは、でもそうなの。御影はいつだって、誰かに望まれた御影を演じてた」
先ほどまでのふざけていた空気が一瞬にして消えた。御影はまた諦めたような、こちらが切なくなる笑顔を浮かべている。
「全部諦めてるようで、全部捨てきれない御影が、ずっと大好きだったの」
あの狭い世界の中で出会った日から。
「ねぇ、私のこと、諦めないでね」
涙を浮かべた私に、御影は「諦めろって言われても諦めねーよ」と、口調とは裏腹な優しい優しい笑顔を見せた。
ついにこぼれ落ちた涙で御影が滲む。ぼやけた部屋の明かりがキラキラと輝いて、まるで青春の煌めきのようだと思った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます